愛という言葉を多くの女性が好きです。この言葉は文明開花の折に、Loveという言葉が輸入され、広がりました。昔の日本では、愛する人を「好きな人」と言いました。愛というとなにか胡散臭く、嘘っぽい感じが否めません。しかし、キリスト教の根本は愛とよく言われます。何か胡散臭い感じまします。
この言葉につまずいてキリスト教を避ける人が居ると思います。少なくとも以前の私がそうでした。「愛」なんてバタ臭くて口に合いませんでした。しかし「愛」を「好き」と置き換えると全てが自然に納得できます。
天におられる神様は地上にいる全ての人間が好きなのです。本物の神父様は近づいて来る全ての人々が大好きなのです。宗派も洗礼にも関係なく大好きなのです。ですから私はそのような神父様が大好きです。その上にいるローマ法王もその上にいる神様も大好きです。これがカトリックの信仰というものです。自分の通っている教会の神父様は山本量太郎様です。人々を分け隔てなく大好きな様子です。西洋の言葉を用いれば、山本神父様に「愛されている」と確信出来るのです。
ですから本物の神父様は洗礼の有無に関係なく全ての人々に優しく、親切です。
洗礼を受けてない人々を差別する神父さんが居たら、それは本物では有りません。
信者は神父様の知識の広さは問題にしません。神父様が初対面の人をどれだけ大切にしているかを注意深く見ています。初対面の人をどれだけ好きになっているかを見ています。それだけが信仰の深さの尺度なのです。
皆様は、マザーテレサがインドの都会の街路で孤独に死にそうにしている人々を屋内へ運びこんで優しく見とってあげていたことをご存じと思います。その崇高な働きはヒンズー教徒からも支援されて来ました。ノーベル平和賞も受賞しました。
マザーテレサはインドの貧民も大好きなのです。好きでなければ出来ないことです。
いきなりお釈迦様の話に飛んで済みませんが、仏教の根本も「慈悲の心」です。欧米の言葉で言えば「愛」に対応します。お釈迦さまは一切の衆生が大好きだったのです。大好きだったので救ってくれたのです。ですから人々がお釈迦様が大好きなのです。
もう少し分かりやすい一例をあげます。弘法大師は全国をめぐり歩き、井戸を掘ったり、温泉を見つけたりしました。全ての人々が大好きなので助けようとしたのです。大師様の「慈悲の心」を我々は忘れません。
ですから宗教の根本は全ての人々がお互いに大好きになることなのです。少なくとも私はそのようにしたいと思います。出来る出来ないは別にして。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。 藤山杜人