日本は誰が何と言おうとまぎれもない佛教国です。西暦538年に伝来し、594年に佛教興隆の詔が発せられて以来、偉大なお坊さんがいろいろな宗派を創り、江戸時代末まで人々は仏教に帰依していました。藝術的に優れた仏像や寺院が国宝として数多く遺っています。その伝統は現在でも日本に力強く残っています。現在の日本には寺院が合計75000も存在しています。
そのような歴史に比較して、キリスト教の勢いがそれほどではありません。
日本人は佛教徒であり神道も信じる多神教的な宗教環境にあるので一神教のキリスト教は絶対に根付かないと断言する人が多くいます。その上、キリスト教は欧米の宗教だから無理して日本へ導入すべきでないという考えも強いようです。
私は、1971年にカトリックの洗礼を受けて以来これらの問題をずっと考えて来ました。単純な私は、善い宗教なら信じればよいと思っています。それでは善い宗教とは何でしょう?その基準はその宗教の普遍性にあります。人種、国籍、年齢、性別に関係なく支持され、信じられる教義を持っていることが普遍性の証明になります。
キリスト教は世界中の国々で信仰されています。人種、性別、年齢に関係なく信じられています。イスラム圏の中近東の諸国にもキリスト教の教会があり、信者が生活しています。げんに私をカトリックへ誘ってくれたフェルナンデス君はインド人でした。
ですから私はキリスト教の意普遍的な価値や力を信じています。
しかし一つだけ気になっていた事がありました。それはカトリックで接することの出来る外人の神父様達は皆欧米から来た人ばかりでした。ですから信者でない日本人は言います、「文明国の欧米から、文明の遅れた日本へやって来て、上から見降ろすような態度でキリスト教を教える態度が傲慢だ」と。
そんな詰まらない意見を気にしていた私にとっては革命的なことが起きたのです。昨年の11月に新しい主任司祭として着任してきたディン神父様はベトナム出身の方なのです。そのディン神父様は欧米人の神父と全く同じように熱くキリスト様への愛と尊敬を話すのです。日本語も完璧です。性格も明るく、着任以来教会の雰囲気が明るくなりました。今日のミサでは赤ちゃんの洗礼式と、成人式を心を込めてして居ました。
イエス様の宗教を直接、東の中近東、インド、ミャンマー、タイ、ベトナム、そして日本へと伝わって来たとしたらもっと自然に日本人は受け入れたのではないでしょうか?ベトナム出身のディン神父様の司祭する今日のミサの間に考えた事を書いて見ました。神父様はキリスト教の普遍性を身をもって教えてくれているのです。下にお写真をしめします。個人的な関心事を書いて恐縮です。お許し下さい。