後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

いつ行っても楽しい三井アウトレット南大沢アウトレットの写真をお送りします

2011年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム

アウトレットとは洒落た婦人服を中心にしてハンドバック、靴、アクセサリーなどなどの商品を数多くの商店の集合体が直接販売の廉価に売りさばいている広大な施設です。広い土地が必要なので都心には出来ません。八王子の南大沢や埼玉県の三郷のような郊外にしかありません。何処も下に示す写真のような楽しげな建物群の中に斬新なデザインの服飾が数多く陳列されています。千歳、軽井沢、小淵沢、御殿場、南大沢などのアウトレットへ行った事があります。特に南大沢アウトレットは家から車で1時間程なので何度も行きました。何時行っても老若男女が子供連れで楽しそうにしています。店の外のベンチに座り、楽しげな人々を眺めているのが好きです。時には屋外のテーブルでコーヒーなどを飲みながら家内を待っています。

昨日、撮った南大沢アウトレットの風景写真をお送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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キリスト教の普遍性を求めて

2011年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム

日本は誰が何と言おうとまぎれもない佛教国です。西暦538年に伝来し、594年に佛教興隆の詔が発せられて以来、偉大なお坊さんがいろいろな宗派を創り、江戸時代末まで人々は仏教に帰依していました。藝術的に優れた仏像や寺院が国宝として数多く遺っています。その伝統は現在でも日本に力強く残っています。現在の日本には寺院が合計75000も存在しています。

そのような歴史に比較して、キリスト教の勢いがそれほどではありません。

日本人は佛教徒であり神道も信じる多神教的な宗教環境にあるので一神教のキリスト教は絶対に根付かないと断言する人が多くいます。その上、キリスト教は欧米の宗教だから無理して日本へ導入すべきでないという考えも強いようです。

私は、1971年にカトリックの洗礼を受けて以来これらの問題をずっと考えて来ました。単純な私は、善い宗教なら信じればよいと思っています。それでは善い宗教とは何でしょう?その基準はその宗教の普遍性にあります。人種、国籍、年齢、性別に関係なく支持され、信じられる教義を持っていることが普遍性の証明になります。

キリスト教は世界中の国々で信仰されています。人種、性別、年齢に関係なく信じられています。イスラム圏の中近東の諸国にもキリスト教の教会があり、信者が生活しています。げんに私をカトリックへ誘ってくれたフェルナンデス君はインド人でした。

ですから私はキリスト教の意普遍的な価値や力を信じています。

しかし一つだけ気になっていた事がありました。それはカトリックで接することの出来る外人の神父様達は皆欧米から来た人ばかりでした。ですから信者でない日本人は言います、「文明国の欧米から、文明の遅れた日本へやって来て、上から見降ろすような態度でキリスト教を教える態度が傲慢だ」と。

そんな詰まらない意見を気にしていた私にとっては革命的なことが起きたのです。昨年の11月に新しい主任司祭として着任してきたディン神父様はベトナム出身の方なのです。そのディン神父様は欧米人の神父と全く同じように熱くキリスト様への愛と尊敬を話すのです。日本語も完璧です。性格も明るく、着任以来教会の雰囲気が明るくなりました。今日のミサでは赤ちゃんの洗礼式と、成人式を心を込めてして居ました。

イエス様の宗教を直接、東の中近東、インド、ミャンマー、タイ、ベトナム、そして日本へと伝わって来たとしたらもっと自然に日本人は受け入れたのではないでしょうか?ベトナム出身のディン神父様の司祭する今日のミサの間に考えた事を書いて見ました。神父様はキリスト教の普遍性を身をもって教えてくれているのです。下にお写真をしめします。個人的な関心事を書いて恐縮です。お許し下さい。

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高校のとき、僕は夢を諦めました

2011年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム

青春時代は苦しくて、悲しくて、辛い時期の人も居ます。私もそうでした。何が辛いかと聞かれると返答に困るような何かモヤモヤした苦しさでした。

昨日、アルキミストのライブを聞いて来ました・・・そこには暖かい人間の絆がある! という記事を掲載しました。シンガーソングライターの こうのしょうたろうさんがホームページに以下のような文章を書いています。現在75歳の私が読んで何故か心が震えます。とにかく彼は歌を作詩、作曲し、唄って生きています。そうです。私は間もなく死にますが、宇宙は何にも変わりません。悲しくて、元気の出る文章です。皆様にも是非読んで頂きたいと思い、以下に転載させて頂きます。

=======こうのしょうたろうさんの文章=========

高校のとき、僕は夢を諦めました。
僕には左手のひじから先がないし、才能もないし、
夢に破れて泣くのがオチだと、一人で勝手に納得して、諦めていたんです。
そう思うのはラクなことでした。とても。
早くそのことに気がついてよかったとさえ思っていました。
でも、ある日ぼーっと夜食を食べつつ思ったんです。
宇宙の大きな流れから見ると、僕はただのかけらなんだなって。
夢に破れて泣こうが、もっと言えば、
僕がいなくなっても宇宙が消えてなくなるわけではないんだろうなって。
そう思ったら、ちょっとくやしかったけど、
スーと胸のつかえが取れたようにラクになれました。
歌いたいなら歌えばいい!本当に、とても簡単なことでした。
そうか。僕は今、ここで、こうして生きている。
もうそれだけで、失敗なんてありえないと思ったんです。
僕が生きているということが、僕にとっては何よりすばらしい。
それ以上の何があるでしょうか。
ある日。ぼーっと夜食を食べたあの日以来。
僕は僕のためにどう生きるか、考えるのはその事ばかりです。

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今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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