後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

展覧会、「FLOWERS AND VESSELS」終了後に主催者、 山崎 礼子さんからのご報告

2011年01月11日 | うんちく・小ネタ

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先日、このブログである展覧会の案内記事:(展覧会、「FLOWERS AND VESSELS」のご案内ですを掲載しました。

出品作品は山崎礼子さんの草月流活け花と娘さんの夫のライアン・フェンチェルさん制作の花瓶とドローイングのコラボレーションです。

その展覧会が盛会裡に終了し、主催者の山崎礼子さんから出展作品の写真5枚と、展覧会開催にいたるいきさつをお送りいただきました。以下にその文章の抜粋と写真5枚を上にお送り致します。皆様にもお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

====山崎礼子から頂いたお手紙========

後藤和弘 様   

早速メールを送って頂き、ありがとうございます。 この度は応援下さいまして心から感謝しております。 今回の展示は、たまたま長女の結婚相手がアーティストだったから実現致しました。

彼は現在シカゴを拠点に活動しています。 実際今もシカゴのギャラリーでショーの最中です。

展示のコンセプトとして、ライアン・フェンチェルはこう言っています。

「制作活動の要素を、美術史(特に古代の陶芸やモダニストのペインティングのスタイル)を通して考察。 新作のパステル・ドローイングと器は、生け花を担当する山崎の作品を考えながら制作したもので、マテリアルに選んだ粘土を含め、色や形をアレンジしたドローイング群では、生け花という”動作”をフェンチェル流に真似て表現している。自分の作品に対して、花を生ける山崎が返答する。そこで初めて完成する、共同制作である」

======山崎礼子さんのコラボへ対する考え方=======

ウィーン在住時代、私は初めて生け花と書道家の墨絵のコラボを経験しました。

お互いが主張し合わず、ひとつの空間にある(バランスというのとは違うのですが)ということを、今回も意識してお花を生けました。ドローイングの色と動き、質感を生かせるよう、極力無駄なものを排しました。

葉や緑が少ないことで柔らかな印象が薄まったかもしれませんが、緊張感も含めた心地良さを目指しました。それが実現できたかどうかは観る方の判断に委ねるしかありません。

反省点も多々ありますが、この経験を生かしてまた新たな創作につなげたいと思っています。

==========山崎礼子さんの今までの創作活動=======

私がお花を始めたのは20代半ばで、草月流理事の先生に師事していましたが、先生がお亡くなりになってからは一人で生けております。

モスクワでの生活が二度あり、通算9年弱おります間に、日本文化週間で作品を展示したり、ホールでワークショップをやらせてもらったり、日本文化紹介のテレビ番組の取材を受けて、先輩婦人と作品を紹介してもらった経験もございます。

ウィーン時代は草月ウィーン支部でお仲間とグループ展を開いたり、大使公邸のお花を生けたり、国際代表部職員の御夫人方を対象にワークショップの講師も務めさせて頂きました。

帰国してからしばらくそういう機会がありませんでしたので、今回は久し振りの発表の場になり、とても刺激的でした。大変でしたが、性懲りもなく、次回はアメリカでと野望も持っています。

音楽や文芸やあちこち手を広げていますが、いつかこれがひとつになって集大成できる日が来ることを夢見て頑張っております。そんな私の活動に対して応援下さったこと、心から感謝しております。
写真は今回知人に一任しており、あまり手元にないのですが、私が撮った数枚をお送りいたします。また記事も書いて下さるとのこと、恐縮すると同時に、光栄に思っております。
後藤様のブログを拝読していると、とても格調高く、私などは尻込みしてしまうのですが、記事を載せて頂いたら、私も少しは品がよくなるかしら、と。
どうぞよろしくお願い致します。書きっぱなしのブログではありますが、
もしよろしかったらまたお訪ね下さい。私も後藤様のブログにお邪魔させて頂きます。今後ともよろしくお願い致します。
最後になりましたが、新しい一年が後藤様にとって素晴らしい年でありますよう。
ご健康とご活躍をお祈りいたします。          山崎 礼子


誰にも愛されたことの無い不幸な人?

2011年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム

愛という言葉はもともと仏教用語の「和顔愛語」という四文字漢語から来ています。誰にでも慈しみの心をもって穏やかな顔を向ける、優しい言葉をかける事を和顔愛語といいます。しかし最近は男女の間の生々しい関係を意味する事が多いのでなんとなく敬遠されている言葉です。特にハッキリ「愛しているよ」と声を出して言って下さいと女性から強いられる男性にとっては困惑する言葉になっています。

そこで私はなるべくこの言葉を使わないようにしています。同じような意味の言葉の、大切にする、親しく思う、いとおしく思う、心を込めた贈り物をする、何時も考えて居る、などなどと場面に応じて使い分けています。しかし女性は何故か「愛」という言葉に甘いロマンチックな男女関係を連想するらしくて、この言葉が大好きです。

そして私は誰にも愛されたことの無い不幸な人ですと独りで思い込んでいる人も居ます。特にいろいろな理由で家族が居なく、独りで住んでいる老人はそんな思いをする場合があります。趣味で山小屋に独りで何日か泊っていると私も自分の人生が不幸だったと思う時があります。

自分より先に子供が死んでしまったり夫や妻が死んでしまって、独り暮らしをしている人にとっては毎日愛してくれる人が傍に居ません。不幸な境遇です。心が暗くなります。

しかしそのように考える事はトンデモナイ間違いなのです。「自分が一度は愛された事がある!」と信じるのが一番の「幸福への近道」なのです。あなたが生き残っている以上、誰かに接した事があります。その人々の中に、あなたを大切にしてくれた人が必ず居た筈です。愛してくれた人が必ず居た筈です。あなたが大切にしたいと思った人が必ず居た筈です。全て過去形で書きましたが、実は過去の事をそのように思う事が第一歩です。すると現在も誰かに大切にされて居ることに気が付きます。

何時ものようにいきなり話が飛びますが、私はこのブログを読んで居るあなたに大切にされていると信じています。読んで下さっている事が、私を大切にしている事になるのです。そうです。あなたに愛されているのです。そんなあなたを想像して私は私の限り無い慈しみの心をお送り申し上げます。こうしてインターネットを通しても、人間は愛し合えるのです。

若い頃、私はルックスが悪く女性に愛された事がありませんでした。少なくとも若い頃はそのように思い込んでいて不幸でした。

結婚してからその感じが少しずつ薄くなりました。特に妻の両親が私を大切にしてくれました。75歳になった現在その事を思うと、それは愛だったという事に気が付きました。一緒に住んで居た義母の両親も可愛がってくれました。その昔の愛への恩返しの為に、暮れに妻と一緒に義理の父母の墓参りに行きました。下の写真がその時のものです。途端に卑近過ぎる事を書いてしまって恐縮です。お許し下さい。しかし墓参りをしながらこの記事の構想を考えていました。

結論を書きます。「あなたが人に愛されているという確信」を持てば、そのお返しに他人をも愛せます。あなたも、他人も一緒に幸福になる最短距離の道なのです。

現在、天涯孤独な人でも昔は必ずあなたを大切に思い、愛してくれた人が存在していた筈なのです。そして現在も必ず居ます。

今日はその愛の存在を信じ、皆様が一層幸せになるように心からお祈り申し上げます。藤山杜人

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