後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

晩秋の山里の風景(4)やがて冬を迎える村落と紅葉

2011年11月23日 | 写真

山梨県北杜市の旧甲州街道の台が原宿の北隣の花水地区の村落と、まわりの樹木の光景です。数日で葉をすっかり落としてやがて裸の梢になります。一昨日と昨日車で回り撮った写真です。この花水地区は小さな平地が山に囲まれていて住み良いように見えます。清春白樺美術館へ登って行く道の入り口にあるので何度も通りました。穏やかな表情の住民にたまに会います。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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・上の写真の手前が小高い台地になっていて台が原の宿場の町があります。後ろの山は断崖になっていて七里ケ岩の始まりになっています。右の方へ断崖が七里続き韮崎市で終わっています。

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・村落にはこのような柿の木が数本立っていました。

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・のはずれのクヌギの大木が虚空へ向かってそびえたって居ました。

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・上と下は七里ケ岩を登りきった稜線に聳えている樹木です。清春白樺美術館はこの台地の上にある昔の小学校の跡地を上手に整備して出来あがっています。敷地の周囲には桜が植えてあり春には見事な花を咲かせます。遠方には甲斐駒や八ヶ岳が輝いている絶景の地にあります。

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・この近辺にはペンションなどがあり洒落た雰囲気の地域です。


晩秋の山里の風景(3)水辺の紅葉

2011年11月23日 | 写真

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・山梨県の西部には「白州の水」という名水があり、清い流れや湖が沢山あります。

県の東部の富士五湖のように有名な観光地ではありませんが美しい風景です。

そんな水辺の紅葉をご紹介いたします。上は清春白樺美術館の西にある溜池です。

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上の写真も同じようなもう一つの農業用の貯池です。

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・上の写真は小生の小屋の西にある尾白川です。後ろの山は甲斐駒の前山です。

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・上と下の写真は北杜市の北部の増富温泉の手前にある瑞墻湖です。

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人間の絆と神へのきずな

2011年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム

これは私個人の体験です。自分が神ときずなを感じるためにまず人間との絆が必要でした。いろいろな人間と温かい絆を感じ、その結果イエスとの絆を感じました。そしてイエス様のとりなしで神への絆を感じています。正直に言えば四六時中感じているのではなく、時々感じるだけですが。

小生のように想像力の足りない人間には神の存在を確信し、その神へのゆるぎない絆を持つことが出来ません。

実感として理解出来るのは自分へ好意を持って、温かく話してくれる人の感情です。その話が押しつけがましく無い場合にはその人の話を真剣に考えます。結果としてその人と絆が出来るのです。

話の内容が偶然にもイエス様や神に関することであったのです。

いきなり話は飛びますが、若い頃ドイツのローテンブルグでフェルナンデス君という年下の友人が出来ました。カトリックの信仰を持ったインド人でした。彼と絆が出来たお陰で帰国後、洗礼を受ける決心をしました。

立川教会で会った神父様は塚本金明さんという方でした。何故か強い絆を感じ、いきなり夫婦一緒に洗礼を受けました。

塚本神父様の転任とともにカトリック小金井教会へ移りましたが、その後の10年以上をアメリカから来たムニ神父様と強い絆を感じるようになりました。

塚本神父様もムニ神父様も現在は府中市のカトリック墓地に眠っています。時々、家内と墓参りに行きます。

人間の絆はこれだけではありませんでした。カトリック立川教会で洗礼を受ける時に代父をして下さった山本大二郎さんとの絆です。そして、その息子さんの山本量太郎さんとの絆です。彼は当時神学生で立川教会で何度かお会いしていました。

その方が後にカトリック小金井教会の主任司祭として赴任して来たのです。吃驚しました。嬉しい驚きです。10年間、温かくお世話になりました。現在は本部の大きな教会の主任司祭をなさっています。

人間は直接話が出来ます。その好意や友情は実感することが出来ます。しかし2000年前に逝ってしまったイエス様との絆は実感出来ないのは自然な話です。

しかし私の場合はイエス様との強い絆を確信して、一生独身を通している3人の神父さまと強い絆を感じています。一別以来、二度と会っていないインド人のフェルナンデス君の笑顔が忘れられません。そんな人間的な理由で私はイエス様への絆を感じることが出来るのです。

その上毎週のミサの折にはイエス様の肉体を聖なるパンとして食べるのです。弱い人間がいつもイエス様との絆を忘れないように聖なるパンの一片を食べるのです。イエス様は半分人間で半分神様です。神の右の座に着いています。ですからこそイエス様のとりなしで私は神への絆を感じることが出来るのです。

生身の人間とは絆を持てます。それを確信出来ます。そのとりなしでイエス様と絆が出来、イエス様のとりなしで神との絆を実感できるのです。不思議でもなんとも無い、ごく自然な心の動きではないでしょうか

私はこの文章を読む方々へキリスト教の宣伝をする気持ちは毛頭ありません。

上に書いた文章の中の神父さんを和尚さんと言い替えて、イエス様を観音様と読み替えると、神はお釈迦様になるのです。それでも良いのです。佛教でいう縁とは絆のことかも知れません。

この文章をここまで読んで下さった方に私は強い絆を感じます。お会いしたことも無いのに絆を感じるのです

ですからこそ、今日も皆様のご健康と平和を心からお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)