終戦直後の頃よく朝鮮人一家の家に遊びに行っていました。自分の家から小さな谷を越した向こうの台地が昔牛飼いの牧場になっていました。戦争が激しくなり牛のいない牧場は草ぼうぼうの荒れ地になっていました。その畜舎の事務室にその一家は住んでいたのです。
父母と、私と同じ10歳くらいの色の白い男の子がいました。気立の優しい子でいつもニコニコして私を歓迎してくれます。日本の小学校へ行くのが厭なのか何時も家で独り遊びをしています。父も母も私を歓迎して時々は朝鮮風のお菓子をもらったこともありました。
その父がある夜に何処からか牛を一頭引いて来て夜中に牧場の片隅の4本の杭に縛りつけて撲殺したのです。牛がなかなか死なないで、悲しそうな鳴き声が長い間聞こえていました。
翌日遊びに行くと、父が大きな鍋一杯に生の肉の塊を入れて、「上げるよ」と言います。家に持って帰りすぐに鍋を返してくれと言うのです。
当時はひどい食料難で肉などは見た事もありません。私の父母も非常に喜んでいました。味は忘れてしまいましたが大きな鍋一杯の大きな牛肉の塊の重さは忘れられません。その後しばらくしてその朝鮮人の一家は何処かにフッと消えてしまいました。懐かしい人々です。
このような体験があるので私は昔から朝鮮人、韓国人が大好きでした。
ところが日本人の多くは本音を聞くと韓国人を蔑視していたのです。少なくとも20年、30十年前までは差別していたのです。
理由は簡単です。日本政府が国民へ朝鮮民族は劣った民族だというとんでも無い宣伝や教育を終戦までの長い間実施して来たのです。これこそ国家の権力者の考えや方針が国民の考え方を束縛する実例なのです。
明治維新以来の国家の方針として李朝を倒し、朝鮮半島を日本の領土にしようとしたのです。そして満州も植民地化する為にはどうしても朝鮮を併合して領有したかったのです。その国策を実行したのです。
それを正当化する理由はただ一つです。劣った民族は日本が領有して保護すべきというのが理由です。劣った民族だからその言葉を取上げて日本語の使用を強制したのです。名前まで日本風に変えさせたのです。
朝鮮民族がそれを怨みに思うのは当然です。戦後ずいぶん長い間、日韓関係は不幸な時代が続いたのです。
それが最近、韓国のテレビドラマが日本で放映され好評を博しています。韓国のスターが日本で芸能活動をしています。韓国のタレントが日本のテレビで踊って唄っています。その上、多くの韓国のスポーツ選手が日本のチームで活躍しています。
それを見ると昔の不幸な日韓関係を知っている私の眼がしらが熱くなります。ああ、良い時代になったと安堵の気持ちが心に溢れます。
日本のタレントも韓国で芸能活動をしています。日本の多くの若者も韓国へ留学するようになりました。
このようにスポーツ選手や芸能人の自由な交流こそ国際関係を劇的に改善するものな無いと思います。日中間でも早くこのようになる事を祈っています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)