後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

けなげです。真面目です。質素な人生です。・・・そんな高校生に会いました

2011年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、横濱駅東口のそごう百貨店の9階で「神奈川県産業教育フェア」を見ました。

神奈川県にある産業教育専門の高校生が自分の学校の宣伝をしているのです。

農業高校。看護教育の航行。海洋高校、電気・機械専門高校。盲学校。そして商業高校。その展示と高校生の様子を見てまわりました。

皆がけなげなのです。真面目に人生を渡ろうという決心をしているのです。決して東大や京都大学へ進学して、立身出世しようとは考えていません。名も無く、つつましく生きて行くすがすがしさが感じられるんです。何故か感激してしまいました。以下に数枚の写真を示します。

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上の写真は看護師養成高校の生徒です。お客さんの血圧を測っています。

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上は農業高校の展示の様子です。

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上は海上の船で働く人を養成する高校です。

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盲学校です。マサージ師を養成していました。

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厚木商業高校です。厚木市の産物を売って、地域の活性化をしようとしています。

日本にはこういう高校の卒業生が進学できる専門学校が沢山あります。私立専門学校もありますし、国立や県立の専門学校もあります。このような勉強を真面目に続けている若者が沢山居るのです。

私は何故か深い幸福感に包まれて帰ってきました。(終り)


「ベーブ・ルースが仙台に来て2本のホームランを打つ」

2011年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム
石澤友隆さんが「八木山物語」という本を河北新報出版センターから出しました。仙台の江戸末期、明治大正昭和の郷土の気軽な歴史物語です。戦中、戦後の混乱のなかで育ったので郷土のことなど誰にも教えて貰いませんでした。焼け野原になった町々と食料難の事しか思い出せません。そんな私に、石澤友隆さんの「八木山物語」はいろいろ面白いお話をしてくれます。
ベーブ・ルースが仙台にやって来たときの話です。
昭和9年11月9日の寒い朝でした。ベーブ・ルースやルース・ゲーリックをまじえた米大リーグ選抜チームが函館から仙台駅に着きました。仙台の城山の後に広がる八木山球場で全日本チームと試合をしたのです。
試合は好天に恵まれ、米国選手の灰色のユニホームに真紅のレザーコート姿が八木山球場の周りの森の緑と鮮やかなコントラストをつくり美しい風景です。アメリカチームはあわせて5本のホームランを打ったのです。ルースは日本に来て初めて2本のホームラン打ったほか、ゲーリック、フォックス、ミラーは各一本打ちました。試合は7対ゼロで米チームの圧勝です。
この年、日本の野球界にとっては画期的な事が起きました。年末に我が国初めてのプロ野球チーム、大日本東京野球倶楽部(巨人軍の前身)が創立されたのです。投手の沢村栄治、スタルヒン、内野手の三原脩、水原茂などの19名です。そして翌年6つの球団が生まれたのです。
それから茫々70有余年、プロ野球チームの楽天が来たのです。仙台の市民は戦前にベーブ・ルースが八木山球場で2本のホームランを打ったことを語り継いでいます。そして楽天を応援しているのです。

少年の頃、私はしばしば八木山球場へ遊びに行きました。戦争が激しくて誰も野球などしません。放置され荒れ放題です。スタンドの盛り土が崩れ、内野席の前にあった鉄製の網は供出され、崩れた白いコンクリートの台座だけが広がっていました。



広い赤土の内野、外野をわけもなく走って遊びました。ベーブルースのホームランは伝説のように私は知っていました。子供ながら旧懐の想いをしながら遊んだ思い出があります。その場所は現在、仙台市立動物園になっています。(続く)








追憶の中の我が仙台(1)東洋館、いかり亭、観月亭、黒門下の湯など

2011年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム

私は昭和11年年生まれで24歳まで仙台の向山という所に住んでいました。

向山いう地域は非常に複雑な地形の小山が重なり合っています。伊達藩の時代は、伊達家代々の墓がある大年寺以外は人家のまばらな淋しい所でした。

向山という地域は市街地の南端を蛇行しながら流れる広瀬側の南側にあり、広瀬川の岸からいきなり高さ40、50メートルの断崖がそびえたっています。向山はその断崖の上にあります。

市街地から見ると向こうの山地なので向山と言ったのです。

明治維新後は人家も少しずつ増えて来たようです。

この小高い向山の断崖の上に立つと、広瀬川の向こうに仙台の白い街が一望できます

風光の良い高台だったので、料亭や割烹旅館がポツリポツリと散在していました。伊達正宗の墓の瑞鳳殿のある峰から数百メートルずつ離れて、東洋館、鹿落温泉旅館、いかり亭、蛇の目寿司、広瀬寮、観月亭、黒門下の湯、などがありました。

下の市街地にあった会社の経営者や成金さん達が使う宴会場でした。

夜になると街の明りが美しく見下ろせる場所だったのです。芸者さんが出入りし、三味線の音が絶えなかった場所だったのです。

向山の奥の方の八木山には、昭和11年にベーブルースが来て、オールニッポンと試合をして、ホームランを打った八木山球場がありました。

八木山は遊山の地だったらしく、その山へ続く入口には「八木山観光自動車」という看板だけが残っている車庫があったのを覚えています。

これらの料亭が大繁盛したのは大正時代という話を聞きました。

日清戦争、日露戦争から昭和4年の世界大恐慌までの約30、40年間ほどの間が景気の良い時代だったのです。日本の軍備拡大の波に乗った成金さん達が大らかに遊んでいた時代でした。それも一瞬の栄華でした。

昭和4年の大恐慌の後はすっかりさびれ、多くの料亭は廃業した様子です。

特に、荒れ果てた「いかり亭」の、昔は豪華だった庭や建物は子供の遊び場になっていました。昭和4年の世界恐慌で倒産したのです。

この料亭の庭には滝がながれ、深い池にはアカハラというイモリが住んでいたのです。誰も居ない池でそのアカハラをよく取って遊んだものです。

2年ほど前の仙台、愛宕中学校の同窓会で、経営が安定していた「黒門下の湯」の当主の息子さんと偶然会いました。追憶の向山についていろいろ話を聞きました。長徳寺と大満寺、そして愛宕神社は江戸時代から存在していたがあとはすっかり変わってしまったという話でした。

戦後から現在にかけては住宅街になり、このような料亭や割烹旅館は跡かたも無くなってしまいました。

しかし、東洋館と鹿落旅館だけは戦後66年にもなるのに現在も営業しているのです。と、書きましたが仙台に住んで居る弟から電話があり、鹿落旅館は今年の3月11日の大震災で崩れ、廃業したそうです。その旅館の前の鹿落坂も崩れ長い間通行止めになっていたそうです。残ったのは東洋館だけになりました。

風光の良い向山には、金持ちの別荘も数軒ありました。恐慌で倒産した経営者の別荘だったらしく、全て荒れ果てた廃屋になっていました。小山の上にあった廃屋をお化け屋敷と言って、よく探検に行ったものです。廃屋に入ると立派な玄関があり、奥には白いタイル貼りの温泉のような浴室があったのを覚えています。

現在、向山へ行って見ると何も無いのです。見事に何も無いのです。当時の向山の面影が全然無いのです。私の家族が住んでいた家も消えてしまって更地になっています。そして新しい住宅だけがびっしりと並んでいます。広瀬川の崖の上にはマンションがいくつも聳えているのです。

あれから茫々70有余年。すべては夢、幻になってしまいました。無常感に包まれます。(続く)

下の写真は現在営業中の東洋館のホームページの表紙です。URLは:http://www.toyokan.jp/index.html です。

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