後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

何度見ても感動するゴッホの絵画、その二

2011年11月11日 | インポート

ゴッホの絵画は何度見ても感動します。文化がまったく違う日本人が感動するのです。不思議です。藝術に国境は無いと言いますが、本当なのですね。

検索していろいろなHPを見較べていますが、「ヴァーチャル絵画館」:http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/Gogh.htm は色彩が一番鮮明で、多くの絵画を網羅しています。特に世界中の歴史的な名画を分類整理して提供してくれています。

  この絵では自然の上で生きている人間の営みを心をこめて描いていると思います。切なくなります。

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そしてもう一枚。亡くなる直前に見た烏の群れ飛ぶ姿と、広い麦畑の光景。なにか不気味は空ですね。

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雑誌は「文藝春秋」より「歴史群像」のほうが面白い?

2011年11月11日 | 日記・エッセイ・コラム

年をとるにしたがって本を読むのが億劫になって来ました。しかし大きな本屋さんへ行っていろいろな本の背表紙を眺めたり、目次を見て内容を想像したりすることは楽しいものです。それと本の装丁や手に持ったときの感じも楽しみます。装丁の良い本は静かに丁寧に手にとります。装丁の良い本は何らかの意味で内容も優れています。しかし最近は単行本をあまり買わなくなりました。毎月決まって買うのは「文藝春秋」と隔月刊の「歴史群像」です。

文藝春秋の記事は玉石混交で、内容のひどいものも混じっています。そして週刊誌と同様に扇情的なドギツイ題目のわりには内容の無い記事もあります。週刊誌と同類の雑誌と思って読めば腹が立ちません。しかし新聞と違った視点からよく調べて考察の行きとどいた記事もあり感心することもあります。たとえば最新号の加賀孝英著「尾崎豊の遺書」は優れた記事です。尾崎豊の輝く感性と才能。それを殺してしまう覚醒剤の恐怖。明快です。尾崎豊さんのご冥福を祈る気持にさせます。ご遺族の平安を祈ります。

野七生さんの「頑張ろう日本はどこへ行った」は痛快な日本文化批判です。福田和也著「昭和天皇」の連載は今回も興味深く読むことが出来ました。

まだ全部読んだ訳ではありませんが、扇情的な題目だけで判断すると週刊誌まがいの記事も多いようです。

それに比較して学研社の「歴史群像」は文献実証主義が息づいていて、多くの資料を調べ上げ、学問的に信用出来る記事で埋め尽くされてあります。流石に教育雑誌で成功した学研だけに記事内容の正確さを追求しているのです。

正確な史実は読んでいると退屈するのが普通ですが、「歴史群像」は素人が読んでも退屈しないような構成になっているのです。このような雑誌は非常に少ないと思います。一つだけ例を上げます。

勝目純也が書いた伊号第8潜水艦がドイツへ航海した時の記録が面白かったのです。その往復に乗り組んでいた通信長の桑島齊三(現在90歳)のインタビューを中心に周辺の文献を調べ正確を期しています。

下にこの伊号第8潜水艦の写真を掲載いたします。

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ドイツ軍のソ連侵攻で日本人はシベリア鉄道を使えなくなりました。同盟国の日本がドイツと交流する方法は艦艇による方法しか無くなりました。しかし敵の制空権があるインド洋と大西洋を渡るには昼間潜航し、夜間に全速で航行出来る潜水艦しか残って居なかったのです。

日本はドイツに5回潜水艦を送りました。そのうちの4回は敵の襲撃で海底に沈んでしまいました。伊号第8潜水艦だけがアフリカの喜望峰を回り、往復したのです。昭和18年6月1日に呉海軍基地を出港して、12月21日に帰港しました。

そしてこの伊号第8潜水艦は無事、終戦まで生き残ったのです。太平洋戦争で戦った潜水艦は154隻、うち127隻が戦没。終戦時に残ったのは27隻だけだったのです。

この本は軍事オタクの為だけの本ではありません。戦争の現場ではどのような狂気の現象が起きて居たかを実証的に突きつけているのです。戦争の馬鹿馬鹿しさと恐ろしさが骨身に沁みて理解出来るのです。実証的に書いてあるから理解出来るのです。優れた雑誌です。

しかし読み方によっては戦争賛美にもとれるのではないかと危惧されます。

例えば伊号第8潜水艦を検索し、その全部の戦歴を調べて見ましょう。そうするとドイツから帰って来たあとで別の艦長が任命されました。その艦長は魚雷で敵の船を沈め、浮き上がってきた敵の乗組員を艦上からの銃撃で皆殺しにしたのです。これを2回繰り返したのです。戦時国際法の違反は明確です。この艦長は敗戦時に自殺しました。これも伊号第8潜水艦の歴史の一つなのです。この数行を付け加えれば上記の記事もより公平な記事になったと思います。これは私だけの感想でしょうか?

それはそれとして、戦争は残酷なものです。その実事を忘れないことが平和を維持するために非常に重要だと信じています。そういう意味で学研の「歴史群像」は貴重な雑誌だと思います。皆様のご意見を頂ければ嬉しく存じます。(続く)


旧甲州街道の面影をもとめて歩く・・・みごとに打ち砕かれたその感傷趣味!

2011年11月11日 | 日記・エッセイ・コラム

時代の流れは激流のようにいろいろなものを押し流して行きます。私の生きた昭和もすでに遠くなり、霧のかなたへ消えてゆくような気がいたします。

それではいけないと思い、昨日は旧甲州街道の面影をもとめて府中という古い町をさまよい歩いて見ました。昭和、明治をとび越して、江戸時代の旧甲州街道の面影を探す小さな旅でしす。

府中は律令国家の武蔵野国の都として江戸幕府が出来るまで1000年近くも多摩川流域の中心地として栄えたのです。古い時代の中山道が後に鎌倉街道と名前を変え、南北に通っていました。江戸時代になりそれと直角に交叉する甲州街道が作られたのです。下の写真がその交差点で、江戸時代には高札場になっていました。

043 この写真の奥の方向が甲州で、手前方向が江戸です。鎌倉街道はこの写真の5m手前を左右に交叉しています。左が鎌倉で、右が国分寺、そして川越へ続きます。

この場所に屋根のついた高札板が掲げられ、江戸幕府の掟や指示、そして罪人の罪状などが書かれていたそうです。

後ろの柵の中が大国魂神社のお神輿の旅所です。お神輿の休憩所です。

この交差点の東側に大国魂神社があります。大和朝廷の成立以前からあった大きな神社で賑やかな集落があったのです。その理由でこの場所が律令国家の武蔵野国の都になったと言われています。

下に大国魂神社の拝殿の写真をしめします。

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大国魂神社の大鳥居の前から外を見たのが下の写真で左右に伸びているのが旧甲州街道です。右が江戸、左が甲州です。

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向こうのケヤキ並木は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の祖先、源頼義・義家父子が1065年頃に作ったものです。その右には伊勢丹という大きなデパートがあり、左側の商店も近代的になってしまって江戸時代の面影は一切ありません。そこでもう一度鎌倉街道と甲州街道の交差点の高札場へ戻って、古い感じの店を探して写真を撮ることにしました。

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旧甲州街道に沿って古い感じの店はたった2軒しか見つけることが出来ません。ひとつは幕末に創業された酒店で、もう一つは大国魂神社の右側に隣接してある紙専門店でした。店内の写真を気持ちよく撮らせてくれました。

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4枚の写真のうち上の二枚をクリックして、拡大してご覧下さい。

太い電柱と電線が写っています。大きな高層マンションが古い店を押しつぶしそうです。

私は本当にガッカリしました。いつも美しい風景写真を撮ろうとすると高圧線があるのです。それを支える巨大な鉄塔があるのです。それを避けて撮ると写真の構図が決まりません。

昨日も府中の旧甲州街道の面影を撮ろうとして苦労しました。電柱と電線とマンションが画面に入らないようにするのに苦労するのです。

結論です。江戸時代の面影を探すという感傷趣味は止めるべきです。文明開花の時代です。新幹線が走り、原子力発電の時代なのです。電線はどんどん太くなり、空に這いまわります。

美的感覚など完全に無視なのです。冷房も暖房も炊事も全て電気が便利なのです。便利が神様です。コンピューターやインターネットが神様です。その力には逆らえません。

時代はどんどん凄い勢いで変わります。人々の考えかたも変わります。お釈迦さまの教えた「無常」です。その当時、お釈迦さまの生きていた時代もどんどん変わったに違いありません。この世は変わるのが当然なのです。変わるからこそこの世なのです。

そんな他愛も無いことを思い浮かべながらすっかり昔の面影が消えてしまった府中の町を散歩して来ました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)