今年の3月に福島第一原発の4基の原子炉が水素爆発してセシウム137を広範囲に降り積もらせたのです。当然、その放射能の危険性をマスコミが根気良く議論しています。
しかし日本全国には残りの50基の原発が生きているのです。再び地震や津波で全電源が喪失すれば、同じような水素爆発が起きるのです。
これを防ぐ唯一の現実的な対策は充分な発電能力を持つ緊急電源装置を50基の原発に完全に設置することです。
事故直後から幾つかの原発では緊急電源車を高台に設置したいという報道はありました。
しかし50基すべての場所に緊急発電装置が充分設置したという報道が無いのです。「原発の緊急電源装置の現状」というキーワードでいくら検索して調べても安心出来る情報が皆無なのです。
(1)原発一基の緊急電力は一体何キロワット必要なのでしょうか?
(2)それに対して設置した緊急発電装置の出力は何キリワットなのでしょうか?
安全度を200%と仮定した場合の出力は必要とする電力の2倍は必要なのです。
まず以上のような定量的な情報がマスコミに無いのです。緊急発電装置を設置したという報道はあります。問題はその発電能力なのです。これでは飾りの緊急発電装置のような誤解を与えています。
(3)もう一つ重要な事は緊急発電装置を何処に設置し、どのように原発の冷却水ポンプに接続するのかという非常に重要な問題があります。
福島第一原発は冷却水ポンプを海側に設置していたので津波で流されました。ところが第二原発ではポンプ類を原発関連建屋内に設置してあったので無傷だったようです。
もう一つの問題は緊急発電装置をどのようにして冷却ポンプの電源入力端子に瞬間的に接続するかという大問題が残っています。単に高台に設置すれば良いということではないのです。人間の手で数十秒以内に接続出来るような設計になっていなければなりません。この実際的な問題に関しての報道は見当たりません。
(4)そして一番重要な事は全ての外部電源を遮断して、全電源喪失の状態にして緊急発電装置だけで原子炉の冷却を実行する試験を行っていません。少なくともその報道が見当たりません。
ですから現在設置されている緊急発電装置は絵に描いた餅なのです。実験あってこそ信頼できるのです。
この実験には原子炉内部に制御棒を瞬時に挿入し、発電を停めなければなりません。多大の費用がかかる試験です。それにしても一回も試験をしないくても良いものでしょうか?
マスコミが執拗に上に書いた問題を追求しないのは国民の関心が無いからです。
放射能の恐ろしさが分かるのなら、現在まだ稼働していたり、定期検査中の50基の原発の安全性を国民全員の世論によって確保すべきと信じています。
上に書いた私の理解の仕方は間違っているでしょうか?ご意見を頂ければ嬉しく思います。
戦争中は潜水艦に乗ってアメリカ海軍と戦い、戦後はヨットの設計・製作と外洋セイリングに一生を捧げた方がいました。2005年に亡くなった渡辺修治 さんです。ヨットマンの間では有名な方で、「どんがめ物語ー潜水艦とヨット」(舵選書:1)という幻の名著を書いておられます。幻の名著と書いた理由は、現在この本が稀書となり、中古本市場で高値で取引されているからです。
随分前に「舵」という雑誌に「どんがめ物語」が掲載されていてこの本の一部を読みました。その時以来、私の心の中に渡辺修治 さんが刻みこまれ、ヨットに乗っているとき荒天の折に思い出していました。「どんなに荒れても無理しないで生還する精神力が重要です」という教訓を思い出すのです。
4年前に自分がブログを始め、他の方々のブログも見るようになったとき、この渡辺修治 さんの息子の康夫さんの奥様がメルさんという名前でブログを書いているのを発見しました。
先日、イギリスのチャーチル首相も愛用し、戦後日本の会社の所有になったシナーラ号の事を記事にしました。そうしたら渡辺康夫さんからメールが来ましてシナーラ号は健在で、現在はシーボニアというマリーナに係留されていると教えてくれました。そして渡辺修治さんのヨットの製作の歴史を書いたメルさんのブログのURL、http://blog.goo.ne.jp/naominoyume_1955/e/cba273687aad81c7bbf4bdd0d3a1faf5 を教えてくれました。
渡辺修治 さんは戦後すぐに「ミス・どんがめ」という名前の小型ヨットを自作して、それ以来数多くのヨットを製作しています。以下がそのリストです。
1947年 ミス・どんがめ 5m キャットリグ・ヨット 自作
1948年 暁丸 8m機帆走漁船 自作
1950年 どんがめ Ⅱ
1953年 どんがめ Ⅲ
1954年 どんがめ Ⅳ
1958年 どんがめ Ⅴ
1960年 どんがめ Ⅵ
1962年 どんがめ Ⅶ
1967年 天城 Ⅰ(これがレストアをしたヨットです)
1973年 天城 Ⅱ
1986年 どんがめ Ⅷ (メル父さんがメルボルン・大阪D・Hレ-スに参加 )
そして1967年には名艇で有名な木造の天城、I号を作っています。
この44年前の名艇を渡辺修治さんの息子の康夫さんが中心になって瀬戸内海のある造船所で復元したのです。下に綺麗に復元された「AMAGI号」の写真をメルさんのブログから転載せて頂きます。
渡辺康夫さんは小生と同じ東北大学の工学部の出身で、宮城帆走協会の設立に貢献したかたです。始めから外洋セイリングをしていた方です。ハンドルネームは「メル父」やmissdongameと言います。1986年にはメルボルンと大阪の間の外洋ヨットレースに「どんがめVIII号」に乗って参加しています。
私が渡辺修治 さんにこだわるのには理由があるのです。「何故、潜水艦とヨットが繋がるのか」という疑問です。海に魅せられたから、海に出たかった。船ならどれでも良かったからと考えました。しかしこれは答えの半分です。何故ヨットなのですか?
先日、このブログでドイツに派遣された5隻の潜水艦の記事を掲載しました。戦争中、日本の海軍は154隻の潜水艦を作り、敗戦までにその127隻が戦没したのです。潜水艦に乗っていた渡辺修治 さんが生き残ったのは幸運以外のなにものではありません。
敵を殺し、親しい仲間が死んだのです。戦争のための船は絶対に止めよう。風の力だけで航海し、平和な目的だけの船にしよう。そして海に出て、戦死した仲間の弔いをしようと思ったのかも知れません。潜水艦の構造は近代科学の極致です。それに一番対照的なのはヨットではないでしょうか?自然の力だけで海を自由に航海出来るのです。これが、「何故、潜水艦とヨットが繋がるのか」という疑問へ対する私の解答です。想像した解答ですから間違っているかも知れません。
この記事には続編を書いて見たいと思っています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)