後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

戦後レジームからの脱却と、憲法改正、軍備増強、そして核武装(2)国民に歓迎されたマッカーサーの五大改

2014年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム

戦後体制すなわち戦後レジームはポツダム宣言の要求をマッカーサーが五大改革として日本政府に実施させ出来上がった体制を意味します。

それをアメリカ軍による押しつけだったと非難する人もいます。

しかし完膚なきまでの敗戦で自信を喪失し、呆然としていた日本国民にとってはそれこそが希望の光に見えたのです。多くの国民が喜んで大歓迎したのです。

私自身もその大衆の一人だったので、随分と明るい気持ちになったことが忘れられません。

五大改革とは以下の5つです。

(1)婦人へ参政権を与え解放する。

(2)労働者の組合結成の促進。

(3)自由主義教育の推進と学制改革。

(4)特高の廃止と検察や警察制度の改革。

(5)農地解放と財閥解体による経済体制の民主化。

これらの五大改革は多くの国民な当然だと感じたのです。

それは戦前のひどい男尊女卑、労働者の悲惨な生活、軍国教育の強制、警官の横暴、小作人の搾取、そして財閥の産軍協同体制を苦々しく見てきた庶民の心に心地良く響いたのです。

戦前に虐げられてきた大多数の大衆を喜ばしたのです。因果応報だ、ザマを見ろという感じがしたのです。

ですから現在、占領軍に押し付けれたと主張されても、当時の雰囲気を知っている我々高齢者にとっては、「それは違う!」という感じがするのです。押しつけでなく大歓迎したのです。

現在、「戦後レジーム」は悪だと言う人が多くなりました。悪だからご破算にしろと言います。私には納得できないのです。

いったい五大改革のどれが悪なのでしょうか?

この改革があったればこそ日本の経済の高度成長があったのです。

しかしもう少し詳しく考えていくと(3)の自由主義教育の推進と学制改革には弊害もあったと思います。

共産党の影響の強い日教組が教育現場を支配し、子供達の良い意味での愛国心教育をしなかったことです。

客観的歴史観を身につけさせるような公平な歴史教育をしなかったことです。

断片的な知識を丸暗記させ、自分の頭で考える能力を育てなかったことです。

「戦後レジーム」の改革がこの教育問題の改革に限定されるなら私も賛成です。

その上、五大改革ではありませんが、平和憲法も押しつけだと言われています。

しかし戦争の悲惨さを見た大多数の国民は平和を熱望していたのです。したがって理想主義的過ぎるこの平和憲法も喜んで大歓迎したのです。

しかし、時代が変わったからと言って、それを改正して軍拡することも良いでしょう。そのためには、国際友好外交を全方位に徹底するという条件が約束出来るなら私は賛成です。

平和は憲法で守るのではなく、強大な軍備による抑止力と徹底した友好関係の樹立によって守られるのです。日中友好と日韓友好は戦争の抑止の為に必要なのです。

下に参考資料として五大改革の詳細を示しておきます。(続く)

=====マッカーサーの要求した五大改革============http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14102054944 より。

戦後の五大改革とは、昭和20年(1945)10月11日にマッカーサーが出した「五大改革指令」のこと。

1945年8月15日、天皇が国民に「ポツダム宣言」を受諾したことを玉音放送で伝え、日中戦争から8年に及んだ戦争が終わった。
日本は連合国に占領されることになり、8月末にアメリカのダグラス・マッカーサー元帥が占領政策を実施する連合国軍最高司令官として来日した。マッカーサーをトップに連合国最高司令官総司令部(GHQ)がつくられ、占領は間接統治の形をとりGHQの意向は日本政府を通して実施された。
この占領機構の上部組織として極東委員会がおかれた。極東委員会とGHQの間にはアメリカ政府があり、極東委員会の決定に対する拒否権や、緊急事態が生じたときに委員会の決定を待たずに指令を発する中間指令権などをアメリカ政府がもっていた。また、対日理事会もあったが名ばかりであった。

昭和20年10月11日、新任挨拶のためにGHQを訪れた幣原首相はマッカーサーと会談し、この中でマッカーサーはポツダム宣言に基づき占領政策の基本を示し、「五大改革指令」と呼ばれる意見を表明した。

「五大改革指令」
① 選挙権賦与による婦人の解放:
1945年12月に選挙法が改定され、20歳以上の男女全てに選挙権が与えられた。1946年4月に戦後初の衆議院議員選挙が行なわれ、女性が初めて投票し、39人の女性議員が誕生した。

② 労働の組合化促進:
労働組合結成など、労働者の権利を保障する法律の制定し、労働者保護のため労働条件の最低基準を定めた「労働基準法」など「労働三法」が制定され、労働組合が多数結成されていった。

③ 自由主義的教育を行うための諸学校の開設:
教育を通じて民主主義を根付かせようとし、教育基本法など教育三法が制定され、それまでの地理、日本の歴史、修身の三教科は軍国主義的とされて、教えることが停止され、教科書も回収された。

④ 検察・警察制度の改革:
GHQは「人権指令」を日本政府に通達し、戦前、社会主義者、共産主義者などの反対勢力を弾圧するために作られた治安維持法や特別高等警察を廃止。政治犯の即時釈放などが行なわれ共産主義者などの政治犯およそ500人が釈放された。

⑤ 経済機構の民主主義化:
経済の民主化として、大資本家の一族が経営した巨大企業である財閥が解体され、2度の農地改革により地主制が解体された。GHQは、本経済を支配していた財閥を軍国主義の基盤の一つと見なし、三井、三菱、住友、安田など15の財閥は、持ち株を売却させられ、解体された。さらに2度にわたる農地改革によって地主の土地所有が制限され、優先的に小作農に売り渡され、小作農の大部分が自作農となり、地主制度はほぼ解体した。


戦後の日本の領土を決定したカイロ宣言を読んでみよう!

2014年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム

第二次世界大戦で日本の敗北がほぼ見えたころの1943年11月にアメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相と中華民国の蒋介石総統の3人がカイロで会議を開き、日本の敗戦後の領土を決めたのです。

台湾と満州は中国に返し、第一次大戦後に日本へ与えられた太平洋の委任統治の島々を日本から取りあげ、朝鮮は独立国にするという決定がなされたのです。

この決定事項は日本が受諾した「ポツダム宣言」の第八条にそのまま継承されたのです。

そしてヤルタ会談で、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相はソ連のスターリンへ参戦すれば南樺太と千島列島を与えると秘密裡に約束したのです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%82%BF%E4%BC%9A%E8%AB%87

ソ連は日本の終戦の数日前に参戦し、満州を占領したので約束通り、南樺太と千島列島を領有出来たのです。

北方領土問題は米英ソの秘密協定が原因になっているのです。

安倍総理が盛んに主張している「戦後レジームからの脱却」を深く理解するためにはポツダム宣言だけでなくカイロ宣言とヤルタ会談の極東に関する秘密協定をもう一度読む必要があると思います。

以下の参考資料のカイロ宣言を示しました。関連の写真も下に示します。

===参考資料、「カイロ宣言」とは?=================

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%AD%E5%AE%A3%E8%A8%80

カイロ宣言(カイロせんげん、Cairo DeclarationまたはCairo Communiqué)は、第二次世界大戦中の1943年に開かれたカイロ会談(Cairo Conference)を経て示された宣言。連合国の対日方針などが定められた。

対日方針を協議するため1943(昭和18)年11月22日からエジプトのカイロで開催されたフランクリン・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、蒋介石中国国民政府主席による首脳会談を受けて、12月1日に発表された「カイロ宣言」。

蒋は会談で、ルーズベルトの問いに答え、天皇制の存廃に関しては日本国民自身の決定に委ねるべきだと論じた。米国が起草した宣言案を英国が修正し、日本の無条件降伏と、満州・台湾・澎湖諸島の中国への返還、朝鮮の自由と独立などに言及した宣言が出された。

カイロ宣言の対日方針は、その後連合国の基本方針となり、ポツダム宣言に継承された。

以下はカイロ宣言の日本語訳です(一部、翻訳されていません)。「日本外交年表並主要文書」下巻、外務省編(1966)から転載しました。

「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明ヲ発セラレタリ 各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ。

三大同盟国ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ。

三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス

右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ

日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ

前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス

右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ」

Cairo_conference1

上の写真はカイロ会談にのぞんだ蒋介石、ルーズベルト、チャーチルの三人の写真です。

下はヤルタ会談に臨んだ左からチャーチル、ルーズベルト、スターリンの写真です。

Yalta_summit_1945_with_churchill_ro


この日本に住む幸せ(3)世界一豊かな食生活が楽しめる国

2014年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム

世界一とは戦前、戦後の食糧難を経験した私が勝手に称しているだけで客観的な事実でではありません。それは単に個人の体験にもとずく主観的な感じ方なのです。

しかし食糧難を経験している人々は、「世界一豊かな食生活が楽しめる国」という題目に必ずや深い同感を感じるはずです。

戦後生まれでも経済の高度成長期の前、大雑把に云えば1990年以前の食生活を知っている日本人なら、この国の食生活が毎年どんどん良くなって来たことを体験している筈です。

家庭で作った料理だけを食べる食生活から、気楽に美味しいレストランで食事を楽しむ食生活に変わって行ったのです。

料理の種類も和食だけでなく、中華料理、韓国料理、フランス料理、イタリア料理、インド料理、タイ料理、インドネシア料理、そしてアメリカのハンバーガーやフライドチキンまで何でも揃っています。

このような料理の種類の多様なことだけでなく、その提供の仕方にも画期的な発明がありました。

例えば回転寿司店ではいろいろな握り寿司を回転している台の上に載せてお客の目の前に提供する方法です。これは驚くべき発明で、またたく間に世界中に広がったのです。

その上、新鮮な食材が冷凍技術の進歩のおかげで世界中から運ばれてくるのです。

下の写真は群馬県の上州牛の写真です。

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(写真の出典は、http://www.oic-oniku.com/item/pork032/です。)

肉だけではありません。新鮮な魚介類も簡単に買えます。下は私がよく行く魚屋で撮った写真です。

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この写真には北海道のホタテ貝と長崎のサザエが並んでいます。奥の方には宮城県のホタテ貝も並んでいます。冷凍運送技術の進歩のおかげで全国の魚や貝が新鮮なまま入手できるのです。

そしてノルウエイのサーモンや、アラスカやカナダのカレイや、アフリカ沖の大西洋のイカや地中海の黒マグロまで売っています。

食材が容易に入手出来るので、自分でいろいろ工夫して美味しい料理を作って、家族に楽しく食べてもらうことも出来ます。

例えば「世界の料理とレシピ」というブログ(http://cookinghiro.seesaa.net/)にはそのような手作りの美味い料理の数々が並んでいます。その中から下に、「メープルシロップチキン カナダ風」という料理に使う材料の写真を示します。

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鶏は国産ですが、ワインビネガー、メープルシロップ、クローブ、マージョラム、シェリー酒などは外国のものです。食材の輸入システムが完備しているので全て安価に入手出来るのです。

戦前、戦後の食糧難を体験している私はこの天国のように豊かな食生活に歓喜を覚えます。毎日、感謝しています。この日本へ感謝しています。

そしていまだに飢餓状態の人々が多くの国にいることに、暗い気持ちになっています。これらの国は、政治が安定せず内戦が続いているところもあります。社会が混乱していると食糧の流通が出来ないのです。終戦後の日本もそうでした。

飢餓を克服するにはまず政治的安定が非常に重要です。

しかし食糧難の原因は複雑です。インドの階級制度も原因の一つです。種々の差別も原因の一つです。その原因は複雑多岐で一朝一夕には解決出来ないようです。人類の抱える重大な問題です。

そんなことを想うと、日本という国に生まれた幸運にしみじみと感謝します。それは運命なのでしょうか。そんなことを考えながらこの稿を終わりとします。(続く)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)