今日は寒い冬の曇り日でした。
何故か今は亡き 塚本金明神父さまとヨゼフ・ムニ神父さまのお墓詣りをしたくなり、府中市にあるカトリック墓地へ家内と一緒に行きました。
私ども夫婦は1971年に塚本神父様から洗礼を受けたのです。
1954年から1976年までカトリック立川教会の初代主任司祭をされた方です。
ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の訪日に合わせて東京で開催された「大バチカン展」の責任者でした。
ムニ神父さまは1975年から1993年までカトリック小金井教会の初代主任司祭をされた方で、私どもは1975年から1988年までの13年間大変お世話になった神父さまでした。
下に今日、府中のカトリック墓地で撮った写真をお送り致します。
上はカトリック東京大司教区の神父様たちのお墓です。数十名の神父様たちの名前が刻んであります。塚本金明神父(1919年生まれ、1991年帰天)と刻んであります。
下はヨゼフ・ムニ神父さまのお墓です。1924年生まれ、1988年帰天です。
ムニ神父様はアメリカのある修道会に所属していたのですが日本では終生日本の司教区の主任司祭として四日市や東京で働いていたのです。
下にこの墓地の風景写真もお送り致します。
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なお塚本金明神父さまとヨゼフ・ムニ神父さまについて検索して出て来た情報を 少し添付しておきます。
(1) 塚本金明神父さまについて:
カトリック教会で働いている神父(1)塚本金明神父の思い出
(http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama/d/20101003)から抜粋しました。・・・・1971年の12月に洗礼を受けた神父様は塚本金明さんという方でした。カトリック立川教会の主任司祭でした。愛想が無いので余計な雑談をしませんでした。見かけは小柄なイタリア人の神父のようでした。洗礼を受けるまではイタリア人と思い込んでいました。その神父さんがある時、説教で、自分の子供の頃はカトリックの信者だったので、近所のお稲荷さんのキツネをひっくり返して遊び回っていたと話していました。そいうバカなことをして遊び回っていたと言うのです。トンデモナイことですね。大人になってから恥ずかしい思いをしました。そんな話を聞いているとイエス様が降りてきて金明少年の罪を許している様子が見えてくるから不思議です。この説教を聞いて洗礼を受ける決心をしました。偉そうな事や難しい神学の話をする神父は本物でないと考えていた私にとっては感動的な神父でした。家内と一緒に洗礼を受けてから時々雑談をするようになりました。・・・以下省略・・・・
KOJI SHIWAのブログより抜粋(http://shiwakoji.wordpress.com/2012/12/page/3/)
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高校3年生、1980年12月9日、火曜日の話だ。
向かった場所は、市川(千葉県)にあるカトリック教会。コンビニで買った「週刊プレイボーイ」に、小さな記事ではあったが、大バチカン展の仕掛け人として、一人の神父の話が載っていた。塚本金明(つかもと・きんめい)という、老境に入ったその聖職者と、私はどうしても会いたくなった。その記事を見た瞬間、なぜかグラビアのネエちゃんはどうでも良くなってしまったのだ。
午後の早めの時間、初めて訪れるカトリック市川教会にたどり着き、庭をうろうろしていると、司祭館からローマンカラーの黒いキャソックを着た小柄な老人が飛び出るように現れて、「こっち、こっち!」と手招きをした。銀灰色のラウンド髭も品のいい、塚本神父様だった。
司祭館に通されると、お茶とお菓子でもてなしてくださった。この時、史上初のローマ教皇来日が決まりかけていた時期だったし、それにあわせるように年明けに大バチカン展を開催するなど、日本のカトリックは盛り上がっていた。なにせ「週刊プレイボーイ」が取り上げるぐらいなのだから。塚本神父様は、若い頃ローマの教区にいたので、バチカン展の日本側の実行委員に選ばれたらしい。週プレの記事も、この方がいなければバチカン展が実現することはなかったというトーンで書かれていた。
私は母方がカトリックの家系だったこともあり、バチカン展の話を聞く際、予習しておいたカトリックのそれらしい話をいろいろと持ち出したのだが、神父様はそんなにわか知識をいなすように、神様のことを「キリスト教の神様というのは、要するに天のオヤジなんですよ。天にオヤジがいると思っているおめでたい信仰なんです」と笑って説明する。実際はかなりインテリな方なのだが、話は一切難しくない。あまりに軽妙で、時間を忘れていろいろなお話を聞いた。「人は死んだらどうなるんですかね?」…そんな質問にも、実に軽く答えてくださるのだった。「死んだらどうなるかなんてことは、誰にもわからないですよ。だけど、天にオヤジがいるんだと思えば、とても安心でしょ」
日が傾き始めた頃、またお会いいただく約束をして、教会を後にした。 名残惜しかったが、私にはそのあと会う人がいたのだ。・・・以下省略・・・・
(2)ヨゼフ・ムニ神父さまについて:
遠い外国に眠る人々の墓http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama/d/20080424
・・・・ヨゼフ・ムニの粗末な木の十字架の墓はお世話になった日本人が作ったに違いない。毎日誰かが花を供えに来るようだ。彼の故郷はアメリカのボストンと聞く。家族は来ない。
一生、日本人のために働いて、日本人が墓を作り、花を供える。・・・以下省略・・・・
そしてこの記事に以下のコメントを頂いたのです:
ムニ神父さんが、四日市の教会で司祭をされていた時に、朝のミサでの従者をする為、自転車でよく教会に通いました、小学生の時ですが、ミサが終わった後にはアメリカの切手をいただき、今でも大切に保管をしています。
もう私も60を過ぎ、遠い昔の思い出ですが、神父さんたちと琵琶湖へ行ったり教会でのたくさんのイベントとあの笑顔がいまだに忘れられません、ムニ神父さんの近くに行くと甘いパイプ煙草の匂いがして、その影響か今では私もパイプ煙草を愛用しています。
今は横浜に住んでいますので、近々お墓に行きたいと思います。
懐かしい、ムニ神父さんへの色々なコメントを涙を流しながら拝見させていただきました、本当に有難うございました。投稿 中根 | 2012/04/11 12:59
わたしは翌日、オートバイに乗って、教会を訪ねようと思いましたが、十七軒町の地区は
司祭館並びに御聖堂は滅茶苦茶にやられて、ムニ神父様は後片付けを一生懸命に
鉄筋コンクリートの海星学校の校舎があって、その中にわたしどもの臨時の住まいが
その後、ムニ神父様は、乗っていたグレーのワゴン車で被害者に、京都から送って
それから4年後、即ち昭和38年に、数年前に立て直した立派な木造の教会が
四日市において、すばらしいキリストの共同体を建てるために尽力されました。