後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

戦後レジームからの脱却と、憲法改正、軍備増強、そして核武装(3)ひどい敗戦、茫然自失、反省と自虐

2014年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム

神州不滅と叫びながら、夜毎のB29による空襲のもとで頑張ってきた我々にとって8月15日の敗戦はあまりにも衝撃が大きかったものです。

それはひどい負け戦の連続でした。グアム島の玉砕、サイパン島の玉砕、沖縄戦の敗北、そして広島と長崎への原爆投下です。本土決戦と叫びながら日々を過ごしていたら8月15日に敗戦の詔の放送です。

人々は何故かホッとしながらも茫然自失の状態です。虚脱状態の日々です。毎日、暗い気持です。

下の写真のような心象風景だったのです。

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数多くの港には生き長らえた復員兵が帰ってきました。

輸送船から下りてくる復員兵の胸には戦友の遺骨が入った白い箱が抱かれているのです。

そして舞鶴港には満州からの引揚者が幽鬼のような姿で帰ってきたのです。

皆老人と女子供だけです。青年と壮年の男は皆シベリアへ連れ去られてしまったのです。

電車に乗ると傷痍軍人が白衣を着て、アコーデオンを持って歌を唄い、お金を貰っています。街には飢えた浮浪児が走り回っています。

そんな光景をまのあたりに見て、そして新聞やニュース映画で見てきた我々です。

そんな我々を、自虐史観を持ったからといって非難する人々にはその資格があるのでしょうか。あなたがたはそれを見ていたのでしょうか?

現在の日本人は終戦直後の実態をあまりにも知らな過ぎます。

世の中は食糧難が続き混乱状態です。着る物も家も無いのです。

そして戦後すぐに大本営発表の戦果がデタラメだったことが明らかになったのです。

大東亜共栄圏という美辞麗句で進軍して行ったのは、領土拡大のための侵略戦争だったことは誰の目にも明らかになったのです。

武力侵略したことの因果応報として日本は地獄のような世の中になったのです。

それは因果応報という言葉を幼少の時から聞いていた日本人の自然な気持ちでした。

かつての大日本帝国の軍部を信用出来なくなった人々は占領地での一部の将兵の残虐行為を想像して、それを信じるようになったのです。

当然、日本人は立派な民族ではないのではないかという自虐的な反省の気持ちが湧いてきたのです。

それを現在の右翼的な人々が自虐史観と称して悪口を言うのです。その上、その自虐的史観は占領軍の教育指導や日教組の先生たちの教育によって出来上がったと主張するのです。

しかし近隣国を侵略し悪かったという反省は占領軍の教育指導や日教組以前の人間としての当然な気持ちだったのです。

自分の悪かったことを認め反省するといういさぎよい態度は立派な武士道だと戦前から教わっていたのです。それこそ大和魂なのです。

ですから私は自虐史観は、人間としての良心的な反省の産物の一つなので、悪しざまに非難すべきではないと信じています。

例えば南京虐殺は無かったとしても、日本の軍部は南京のはるか南の桂林まで占領したのです。それは百歩譲っても侵略行為に間違いないのです。

戦後賠償の代わりに巨額のODA援助を中国にしたのですから政治的にはケリがついているのです。政治的にはチャラです。

しかし人間としていつまでも反省することは個人の自由なのです。

それは戦後レジームからの脱却と、憲法改正、軍備増強、そして核武装という一連の動きとは全く別な次元の問題なのです。

敗戦直後の日本人は、もう二度と戦争は嫌だと思っていたのです。奴隷になっても戦争だけは御免だと思っていたのです。

絶対に平和だけは守ろうと決心していたのです。ですから戦争を永久に放棄すると明記した平和憲法を絶賛して歓迎したのです。私も嬉しかったことを絶対に忘れません。

その当時の社会の雰囲気を知らない現在の日本人は押し付けられた憲法だと言うのです。しかしそれは全くの間違いなのです。

そして60年以上の年月の経過にしたがって私の心も癒され、少しずつ変わってきました。

私は戦後レジームからの脱却と、憲法改正、軍備増強に賛成です。

しかし敗戦後の人々の感じ方を無視した最近の自虐史観非難の論調はどこか事実に即していないと思っています。まったくトンチンカンな議論なのです。

それにしても個人的な体験を次世代へ伝承することの困難さが身に沁みます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)