朝起きたら庭に大雪が積もっています。1964年から50年間、この家に住んでいますがこのような大雪は初めて見る光景です。下に庭の写真を示します。
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上の写真で庭木の根元が少し明るくなっているのは高さ60cmくらいのガーデン灯が完全に埋まってしまって、雪の中から光っているのです。
下の写真はこのコンピューターの置いてある机のそばの窓から見た光景です。
雪を見ると昔仙台に生まれ育ったころの雪遊びを思い出します。太い竹を割って、先端を焚火にあぶって曲げるのです。すると立派な竹スキーが出来ます。
小学校へ行く長い坂道を踏み固めて、竹スキーに乗って滑り下りるのです。
上手な子は40mも50mも転ばないで滑り下ります。私は10mくらいがやっとで、転んでしまいます。足を離れた竹スキ-だけが上手に滑り下りて行くのです。
そんなことを思い出しながら先週の大雪の日は座敷に茶道具を広げて雪見の茶をたてました。畳に炉を切った茶室ですがその炉はめったに使いません。面倒なのです。しかし炉など使わなくてもガラス戸の向こうに広がる雪の庭を見ながらのお茶は格別でした。
しかし大雪を見るたびに北越後の鈴木牧之が江戸時代に出版した「北越雪譜」という本の内容を思い出し、悲しい思いをします。雪国の人々の冬の暮らしぶりの苦しさが描かれた本です。冒頭に書かれています。
・・・・今年も又此雪中(このゆきのなか)に在る事かと雪を悲(かなしむ)は辺郷の寒国に生(うまれ)たる不幸といふべし。・・・・
この一行の文章は、現在でも雪の深い地方に住んでいる日本人の思いなのです。雪に閉じ込められて買い物にも行けない日々が続くのです。そして大雪の日は停電が起き電話もテレビも使えなくなります。暗い部屋の中では電気を使わない昔風の石油ストーブだけが頼りなのです。
大雪を見ると雪国の人々の苦しい憂鬱な冬の生活を想像してしまいます。
鈴木牧之の「北越雪譜」という本のおかげで雪国の生活を体験したような気分になります。ですから雪の日は心はなやぐだけでなく悲しい気分にもなるのです。
それにしても純白の雪の世界は美しいものです。
下に「北越雪譜」の簡単な紹介をつけました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====鈴木牧之と「北越雪譜」の簡単な紹介==========
http://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/kokugo-hokuetsuseppu79.htmlより転載しました。
著者の鈴木牧之の生れた南魚沼(みなみうおぬま)郡は、東南に波濤(はとう)のごとき高山が連なり、大小の河川が縦横に走り、地相的に見て“陰気”の充満した山間(やまあい)の村落であった。初雪は九月の末か十月の初めに降り、しかも一昼夜に六、七尺から一丈(約一・八~三メートル)に達する。
「されば暖国の人のごとく初雪を観て吟詠遊興のたのしみは夢にもしらず、今年も又此雪中(このゆきのなか)に在る事かと雪を悲(かなしむ)は辺郷の寒国に生(うまれ)たる不幸といふべし。雪を観て楽む人の繁花(はんくわ)の暖地に生たる天幸を羨(うらやま)ざらんや」
彼はまず、雪が北国人にとっては生活上のハンディキャップであり、レジャーの対象ではありえないことを、くどいほど強調している。江戸では雪見の船とか雪の茶の湯を楽しんでるいるが、自分たちは雪の降るまえに大急ぎで屋根を繕い、梁(うつばり)や柱を補強し、庭木は雪折れせぬよう手当てをほどこし、井戸には小屋をかけ、厠(かわや)も雪中に汲(く)み出せるよう準備せねばならない。食物も、野菜の保存にはとりわけ苦心する。凍るのを防ぐため、土中に埋めたり、わらに包んで桶(おけ)に入れたりする。「其外(そのほか)雪の用意に種々の造作をなす事筆に尽しがたし」
現在とちがって、建物が平屋建てで窓ガラスもなかったころの雪ごもりは、想像もつかぬほど陰鬱なものだった。雪が屋根の高さにまで達すると、明りがとれないので、昼も暗夜のごとく、灯火を必要とした。「漸(やうやく)雪の止(やみ)たる時、雪を掘(ほり)て僅(わづか)に小窗(こまど)をひらき明(あかり)をひく時は、光明赫奕(かくやく)たる仏の国に生(うまれ)たるこ>ちなり」
鳥や獣も、冬期には食物が得られないのを知り、暖かい地方へ移っていくが、人間と熊だけは雪の中にこもっている。「熊胆(くまのゐ)は越後を上品とす、雪中の熊胆はことさらに価貴(あたひたつと)し」というわけで、出羽あたりの猟師たちが熊捕(くまとり)にやってくる。その方法がおもしろい。まず、熊の呼吸穴を見つける。雪が細い管のように溶けたものだ。猟師がこの穴から木の枝や柴(しば)のたぐいを挿(さ)し入れると、熊が引っぱりこむ。何度もくりかえすうちに、自分の居場所が狭くなって、熊が穴の入り口に出てくるところを槍で突き殺す。もう一つは「圧(おし)」といって、穴の前に棚をつくり、その上に大石をのせておいてから熊を燻(いぶ)り出し、怒ってとび出す瞬間、石を落として殺すという方法もあった。
もっとも、このようなことは他国者がやることで、地元の農民たちは熊を殺すと山が荒れると信じて、手を出さなかった。ましてや、雪中に遭難した人間が、熊に助けられたという話も伝わっているからには、なおのことである。牧之は八十二歳の老人から聞いた話として、この老人が若いとき雪の中で道に迷い、熊の穴にまぎれこんで凍死を免れたということを記している。そのとき熊は、闖入(ちんにゅう)した男に暖かい居場所を譲ったうえ、おのれの掌(てのひら)をさし出して嘗(な)めろという仕草をした。男は熊がアリを食べるということを思い出し、おそるおそる嘗めてみると、甘くて少々にがく、大いにのどをうるおした。
けっきょく熊と四十九日間の同居したが、ある日熊に促されて穴を出ると、人家のある方へと案内された。男がようやく我が家へ帰りつくと、両親が法事を営んでいる最中だったという。以下省略、http://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/kokugo-hokuetsuseppu79.htmlへ続く。