後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本一広い混浴露天風呂、宝川温泉の写真です

2014年10月03日 | 写真
あれは20年以上前のことでした。利根川をさかのぼって谷川岳に行く途中の深い谷の奥に宝川温泉という巨大な露天風呂に出会いました。
宝川を挟んで4つの大きな露天風呂があるのです。3つは関東では珍しい完全混浴で、一つだけが女性専用です。汪泉閣という大正時代創業の旅館の外風呂なのです。
その宝川温泉の大きさと健康的な混浴風景に驚いたものです。

私は東北出身なので混浴の露天風呂は昔から経験していました。始めは躊躇していた家内も次第に自由な大らかさが好きになった様子です。バスタオルを巻いて入っていました。
宝川温泉は我々夫婦のあいだで、もう一度行ってみたいと話していました。しかし、とにかく遠方過ぎて行けません。

ところが今回行った水上高原のすぐ傍と分かりました。その上、宝川温泉へのツアーがあったのです。
20年ぶり、思い出の宝川温泉は昔とぜんぜん変わっていません。
昔と同じ混浴の子宝の湯と般若の湯と摩訶の湯があり、そして女性専用の摩耶の湯も以前と寸分違わないであります。
4つの露天風呂の総面積は200畳で、日本一の広さだそうです。湯量も豊富で完全かけ流しなのです。
それはさておいて下に子宝の湯と般若の湯と摩訶の湯の写真を示します。

上と下の 写真は一番大きな子宝の湯です。


上の写真は般若の湯です。

上の写真は摩訶の湯です。

上の写真は露天風呂の上流にある汪尖閣の風景です。もちろん旅館の中にも内風呂もあります。
この汪尖閣と露天風呂に関する詳細は、http://www.takaragawa.com/huro01.html にあります。
・・・・宝川温泉は、大和武尊が発見したと伝えられるように、明治以前も温泉の湧く地として知られていました。
現在のお湯はすべて、昭和の時代にボーリングされたものです。源泉は敷地内に4本あり、温度は40度~68度で、総湯量は毎分1800リットルあります。
これは群馬県の伊香保温泉すべての旅館の湯量より多いもので、日本でも有数です。この湯量のおかげで、あの大きな露天風呂を維持できるのです。現在は自噴しているものは枯れてしまいましたが、説によると、新潟県で100年ほど前に降り積もった雪が、地下水となり、涌き出ているとの事です。・・・・・

蛇足:この広い露天風呂をのびのびと満喫するために女性の方々は湯浴み着を持参されると良いと思います。気兼ねなく4つの全ての露天風呂が楽しめます。すべての風呂は歩道でつながっていて、裸で歩いて行けます。(終わり)

白樺の林への憧れ

2014年10月03日 | 日記・エッセイ・コラム





まず上の白樺の木の写真をご覧ください。今回の水上高原への小さな旅の折に撮ってきた写真です。

私は何故か若い頃から強く白樺の木へたいして強烈な憧れを持っていました。
老境に至って何故そんなに憧れていたか時々考えます。
その理由の一つは白樺の向こうに広がっているヨーロッパへの憧れでした。まだ見ぬヨーロッパ文化への憧れでした。
それだけですと言えば綺麗な話ですが、実は白樺の陰から理想の女性がヒョッと現れて来るのではないかと思っていたのです。若い時の妄想です。

それはさておき、白樺の木は日本の高い山々に普通に生えているので、そんなに珍しい樹ではありません。それなのに何故か白樺を見るとヨーロッパを想うのです。
それは大正時代に白樺派という人々が、頻りにヨーロッパ文化を称賛し、その芸術作品を日本へ紹介したからです。
そのせいで私の心象風景では白樺林はロシアやヨーロッパにあるロマンチックな風景として焼付いてしてしまったのです。
私は老境にになった今でもそんな白樺林が大好きなのです。軽薄と言えば軽薄な老人です。

ところが偶然にも、私の山小屋の近所に、白樺派の作品のみを展示した美術館があったのです。山梨県清春美術館という美術館です。そこを訪れると、青年の頃のロシア文学やヨーロッパ文学への甘い憧れを思い出すのです。
美しい白樺林の広がる大地に生まれた文学です。

ツルゲーネフやトルストイやチェエホフやドストエフスキーなどの作品が明治から大正時代に翻訳され一世を風靡した時代があったのです。
そして人々はロシアの向こうにある遥かなヨーロッパをも憧れたのです。その頃はヨーロッパ文学も数多く翻訳されたのです。

よく考えてみると私の白樺好きは、大正ロマンの白樺派の影響によると思います。
大正時代(1912年から1926年)とは、日本が日清戦争に勝ち、日露戦争でロシアを破り、第一次世界大戦では戦勝国側についた時代でした。

戦勝で経済に余裕の出来た人々が、芸術を愛したり、享楽的な楽しみををしたのです。それは激しい戦争が続く昭和時代になる前のほんの束の間のことでした。
そんな頃、学習院の卒業生たちが「白樺」という同人雑誌を作ったのです。この「白樺」を中心にして集まった作家や画家の一派を白樺派と言います。

清春白樺美術館にはこの白樺派の人々の絵画や雑誌、「白樺」が展示してあるのです。丁寧に蒐集し、整理して展示してあります。
白樺派の武者小路実篤、志賀直哉、里見、有島武郎や長与善郎などが、人間賛歌,理想主義、楽天主義の作品を発表したのです。ロダン、セザンヌやゴッホ、ゴーギャンなどの西洋の美術を賛美し、日本へ紹介したのです。

それに賛同した梅原龍三郎、岸田劉生、中川一政などの画家が「白樺」の装丁をしたり、文章を寄稿したりして協力しました。
このように「白樺」を中心にして集まった作家や画家の一派を白樺派と言います。

彼等の良い点は何と言っても人間の自由、個人の尊厳、そして平等などを歌い上げたことにあります。彼等はみな学習院出の上流階級でした。
この白樺派の理想主義の声は大正時代の若い青年達の心に深い影響を与えたのです。

下に清春白樺美術館の2枚の写真を示します。上の写真は美術館本館前の白樺林であり、下の写真は敬虔なクリスチャンだったルオーに捧げられた小さな礼拝堂です。



銀座の吉井画廊の吉井長三氏が1983年に作ったのです。谷口吉郎氏の設計した瀟洒な建築です。
吉井氏は梅原龍三郎、岸田劉生、中川一政などと親交が深かったので自然にそういう流れになったででしょう。そして吉井氏はルオーの宗教画が好きだったらしく実に多数のルオーの絵画が展示してあります。

ところで話は変わりますが、美しい白樺林は日本の各地にあるのです。ロシアやヨーロッパに限ったことではありません。
北海道はもとより本州の高原にも広がっています。上高地や軽井沢、そして富士山の高いところには美しい白樺林があります。
しかし私の青年のころは日本が貧しい時代でした。旅行もままならなかった時代でした。そのせいで日本に白樺林があるとは知らなかったのです。無知でした。
無知のおかげで白樺からロシア文学やヨーロッパの風景を連想し、それが自分の心象風景になっているのです。若い頃心のフィルムに焼付いた風景や連想は老境にいたっても消えないようです。

今回の水上高原への旅でも沢山の白樺林を見ました。そうして大正時代の白樺派の人々のことを思い出したのです。皆様は白樺を見てどのようなことを想うのでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)