後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

このgooブログを見て下さる方々へ特別の感謝をお送りいたします!

2014年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム
このgooブログを見て下さる方々へ特別の感謝をお送りいたします!
私は昨日までNTT社が運営するOCNの「ブログ人」で毎日ブログの記事を書いていました。
2007年11月に書き始めててから通算、118万件のアクセス数を頂き、皆様のご支持に感謝していました。
ところがOCNの「ブログ人」がこの11月30日でブログ事業を止めることになりました。そこでこちらのgooブログに引っ越して参りました。
そして昨日、OCNの「ブログ人」からこのgooブログへの自動転送の手続きを致しました。
そうしたら今までOCNの私のブログを見て下さっていた一日平均750人の方々がこちらのgooブログを引き続きご覧頂いたのです。

感謝し感激しています。皆様の義理人情の厚さに心が打たれています。
ご厚情を心から有難く思っています。

何の役にも立たないつまらないブログですが今後もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

皆様のご健康と長寿をお祈り申し上げます。後藤和弘


多摩川の流れを見つつ去り行く秋の日を惜しむ

2014年10月24日 | 写真
住んでいる所が多摩川に近いので暇があると多摩川の岸辺に車を停めて、流れ下る水を眺めます。流れが秋の日の去り行く気配を感じさせるようです。今日も午後に府中の多摩川の岸辺を散歩してきました。
このへんは中流なのでゆったりした流れが午後の陽に輝いていました。
その悠々たる流れを見ながら、御岳駅の下の多摩川の激流を思い浮かべていました。
そこで一番目と二番目の写真に上流の激流の写真を示します。10月7日に撮りました。
そして三番目から五番目の写真に今日の中流の悠々たる流れを示します。
ここから20Km下ると羽田空港の西の東京湾へ注いでいるのです。
写真に晩秋の感じが写っていたら嬉しく思います。









山里の秋の風物詩・・・下仁田ネギの畑

2014年10月24日 | 写真
横山美知彦、「下仁田ネギの畑」
土盛り作業(ねぎの茎の白い部分を土で覆う作業)が終えたばかりで、まだ取り入れには早い様だ。
今日は、暦上は「降霜」だが、その霜がニ三度降りるまでは何処の農家もねぎ畑に掘り鍬を入れない。
近くの山々の木々も徐々に色づき始めた。今年の「下仁田ねぎ」の育ち様は、素人の私が見ても良さそうだ。「下仁田ねぎ」独特の甘味と熱を加えることで柔らかくなり、うま味が増すのは、11月の下旬からだろう。地元の私でさえ待ち遠しい。



「下仁田ネギ」は江戸時代中期以後に有名になったネギです。大変美味しいネギなので大名や武士の間のお歳暮などの贈答品として珍重されたそうです。
明治になって鉄道貨物輸送が始まると下仁田ネギの出荷が急に増加し、多くの人々によって美味しさが認められました。東京では有名な群馬県の特産品です。

山里、下仁田の秋の風物詩・祭りと山車の写真

2014年10月24日 | 写真
終戦の前後に家内は群馬県の山里の下仁田町に疎開していました。その縁で私も何度か下仁田を訪ねたことがあります。
上毛三山の妙義山の南麓にある本当に静かな所です。現在は下仁田市になっていますが昔の日本そのままのような町のたたずまいです。
横山美知彦さんは家内が疎開した時の小学校で同級生でした。
その横山さんがときどき山里に暮らす四季折々の随筆や写真を送って下さいます。
======秋の風物詩・・・祭りと山車:横山美知彦=====
10月半ばになると、昼間の澄み切った秋の空の終わりに、夜の帳が足早にやって来る。お祭礼の提灯の明かりが何となく気分を、幼かった頃に引き戻してくれる。
かすかに見ることの出来るその明かりは、いったい何を私に訴えようとしているのだろう。そして何を教えようとしているのだろうか。遠くから静かに聞こえて来る笛や太鼓の独特な音は、私を特別な世界に引き入れてくれる。
町内を引き回す「山車」には、触れることさえ出来ず、上ずった気持ちとは裏腹に、遠巻きに眺めるのがやっと、と云う希望の叶えられないもどかしさを胸に秘めていたことなど、少子化の現在では想像さえ出来ない。山車の上から聞こえて来る笛、鐘、太鼓の音が、乱れる様に祭りを盛り上げる。山車の周りに取り付けられた、組々の提灯が左右に揺れる。正面の高い所に座した、町内自慢の人形も、山車の動きに合わせるが如く僅かに揺れる。・・・深まりし秋の祭りの笛の音は遠き昔と変わることなし・・・







下仁田の町内に位置する、諏訪神社は元は八幡社であったとのことだが、諏訪の 諏訪大社(長野県諏訪市)を崇拝した甲斐の武田氏の勢力が、国境を越えてこの地に進出したときに、現在の社名に変えられたと考えられる。今年の例大祭も10月11日、12日の二日間、町中を賑わし事故なく終了した。町内には七基の山車がある。何処でもそうである様に下仁田町でも若者が減ってはいるが、幼い頃から親しみ、目にして来た祭りには、遠方に居住を移して後も自然に集まり、旧交を温め会い、胸をわくわくさせ、山車に群がり、掛け声をかけながら夜遅くまで綱を引く。こんな状態がこれからも永く続くことを願っている私も、その一人である。平成26年10月23日





塩と砂糖(5)日本における砂糖の歴史と美しい和菓子

2014年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム

(写真の出典は、http://m.noa195.net/sima/gallery49/index.phpです。)

砂糖は人間の食べもに夢を与えます。人間がこの世に現れると甘い美しい天然の果実を食べていたことは現在の猿たちの果物好きから想像できます。
砂糖はおもにサトウキビとテンサイからつくりますが、日本では奈良、平安の時代には枕草子にあるように甘蔦(あまづら)を削った氷にかけたりして楽しんでいました。蔓性の植物の樹液をを煮詰めて作っていたのです。
ところが驚くべきことにサトウキビから砂糖を作る方法は紀元前6000年頃に既に北インドで使われていたのです。
サトウキビを絞ってその甘い液体を煮詰めて黒砂糖を作ります。黒砂糖を精製して真っ白い砂糖にします。この方法で作った砂糖を始めて日本へもたらしたのが唐招提寺を建てた鑑真和尚だと言われています。その後、遣唐使が中国から砂糖を持ち帰ったことは正倉院の記録にも明記してあります。
しかし当時はほんの少しの砂糖を持ち帰り一握りの貴人たちだけが味見をしたに過ぎません。
一般の人々は甘い干し柿や熟した自然の果実をたべて甘さを楽しんでいたのです。
甘蔦からとった「あまづら」は上流階級しか味わえなかったのです。この「あまづら」のつくりかたと味わいは別の記事でご紹介します。
さて日本へサトウキビで作った砂糖が広まったのは何時からでしょうか?
それは江戸時代の初めころの1623年以後のことです。
その年に琉球王国が中国へ使いを出してサトウキビの栽培方法と黒砂糖の製造方法を導入してからです。現在、沖縄では何処に行っても、上の一番目の写真のようにサトウキビ畑が広大に茂っています。琉球王国の産業が現在も伝承されているのです。
しかし琉球王国は薩摩藩の支配も受けていたのです。薩摩藩は琉球の黒砂糖を大阪や江戸へ運び莫大な利益を得たのです。
砂糖は長崎の出島でも輸入され大阪の問屋へ送られたのです。
江戸幕府は財政の安定のために全国へサトウキビの栽培を奨励したのでしす。しかしサトウキビは九州や四国では生育しますが本州では無理でした。
四国の高松藩と徳島藩は特に熱心に黒砂糖を生産し、更にその黒砂糖を独特の精製法で白くして「和三盆」という上品な味の砂糖を作ったのです。
現在、徳島県で生産されている和三盆を阿波和三盆糖といい、香川県で生産されている和三盆を讃岐和三盆糖と呼ばれて7います。
現在、日本で日常の料理に使う砂糖はサトウキビやテンサイから工業的に抽出し精製した安価な白砂糖か、あるいは澱粉を糖化した砂糖です。
一方、和三盆は上質な和菓子を作るとき使用します。美しい和菓子の写真をお贈りして今日の記事の終わりといたします。
二番目の写真の出典は、
http://www.tamachi-baigetsu.co.jp/staff_blog/archives/2013_04.htmlです。
三番目の写真の出典は
http://www.kabegami.com/shashin-bu/C00201/show/id/PHOT0000000000058C6B/ です。
四番目から六番目の写真の出典は
http://www.kyoto-saryo.jp/staff/kyogashi/page/21 です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。
後藤和弘(藤山杜人)










====参考資料=====================
日本に砂糖が伝えられたのは中国から
(http://www.alic.go.jp/koho/kikaku03_000078.html より)
我が国における砂糖の歴史は古く、鑑真和上が伝えたという説もありますが、遣唐使によって中国からもたらされたものと考えられています。
日本における砂糖の最初の記録は、「正倉院」献納目録の「種々薬帖」の中に「蔗糖二斤一二両三分并椀」の記録があります(825年)。当時は大変な貴重品であったため、ごく一部の上流階級が用い、それも食用ではなく、むしろ薬用でした。その後、鎌倉時代末頃から大陸貿易が盛んになり、砂糖の輸入も増加しました。1543年にポルトガル人が種子島に上陸し、砂糖を原料としたカステラ、コンペイトウなどの南蛮菓子をもたらしましたが、当時の大陸貿易の品目の中では生糸、絹織物、綿織物に次ぐ重要輸入品が砂糖でした。
日本での砂糖の製造
さとうきび
江戸時代の初期、最初に砂糖の製造を始めたのは当時の琉球(沖縄県)でした。1623年に琉球の儀間真常が中国に使いを出し、砂糖の製造方法を学ばせ黒糖を製造したと言われています。その後、琉球をはじめ奄美大島、喜界島、徳之島おいても、さとうきびは製造増産され、管轄していた薩摩藩に莫大な収益をもたらしました。
 当時は鎖国状態であったため、貿易の窓口である長崎の出島に限定して陸揚げされた砂糖のほとんどが、中央市場である大阪の問屋(当初は薬種問屋のちに砂糖問屋)へ運ばれ、そこから江戸や諸国の問屋へ出荷されていきました。
幕府は砂糖の国産化の方針を打ち出し サトウキビの作付けを全国に奨励します。江戸時代の中期以降、さとうきび栽培は、西南日本の気候温暖な地域において積極的に取り入れられ「和糖業」として広まっていきました。1798年に讃岐(香川県)の砂糖(和三盆)が始めて大阪の中央市場に登場します.
和三盆とは:(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86)
徳川吉宗が享保の改革において全国にサトウキビの栽培を奨励すると、高松藩が特産物創生と財源確保を目的としてこれに呼応した。
その後、徳島藩でもサトウキビが育てられるようになり、領内各地で栽培できるまでなった。しかし精糖の方法については不明だったため、他国における秘伝扱いの情報を収集し、高松藩とほぼ同時期の1700年代末に精糖方法を確立させた。徳島県で生産されている和三盆を阿波和三盆糖、香川県で生産されている和三盆を讃岐和三盆糖と呼ぶ。
和三盆は貴重な特産品として諸国へ売りに出され、全国の和菓子や郷土菓子の発展に大いなる貢献を果たした。