明治維新後に西洋の文化が怒涛のように流れ込んで来ました。
キリスト教もその一つです。ロシア正教もカトリックも聖公会もいろいろなプロテスタント宗派も日本に数多くの教会を建て、そして全国にミッションスクールを作りました。
しかし明治維新後150年近く経っているにもかかわらず、日本のキリスト教信者は3%を越えることはありません。その上、カトリックは0.3%しかいません。
この事実を時々深く考える時があります。昨日も山林の小屋の庭で考えてみました。
するといろいろな分野の西洋文化の中で日本が導入しやすい分野と、非常に導入が困難な分野があると理解すれば良いことに気がつきました。
科学や技術は導入しやすい分野です。政治体制や社会構造は一見導入しているように見えますが根本的な点は導入が難しいようです。
一番導入が困難なのはキリスト教です。
キリスト教に対して日本人は違和感を感じています。
明治維新以前までの佛教、儒教そして神道を背景にした日本の伝統文化と、キリスト教はどうしても違い過ぎるのです。
分かりやすく言えばキリスト教は水と油のように日本文化と溶け合っていないのです。
私はカトリックなので、ついキリスト教の話をしてしまいます。すると親しい日本人の多くは、「私はヤソは嫌いだ!アジアやアフリカを植民地にした欧米人は嫌いだ!それに西洋文化は物質的で日本の伝統文化の美しい精神性に融合する筈がない!」と言います。
この感じ方は当然です。キリスト教は欧米の固有の宗教であり我々には関係ないと感じているのです。
私は最近、3つのプロテスタント教会と日本正教会のニコライ堂を訪問しました。それで明確に理解した事があります。それはキリスト教がある国を経由して日本に入ってくると、その国の文化を背負って入ってくるという事実です。
一番明確なのはロシア正教として聖ニコライが持ち込んだ正教会は、共産革命以前のロシア文化そのものを背負って来たのです。
アメリカ経由のプロテスタントはアメリカの自由主義と平等の文化を背負っています。
カトリックは産業革命に遅れたスペインやイタリアのラテン文化を背負いっています。
そこで、このような国々の固有の文化をそぎ落として、それぞれのキリスト教のみを比較してみたのです。そうすると全ての宗派は全く同じです。
イエスの教えを記録した福音書を一番大切にしているのです。ある牧師さんが言いました、「人間が福音書に書いてないことまでイエスの名を使ってするからいけないのです。福音書に書いてないことはしてはいけないのです!」と。
その上、キリスト教で使っている聖書が分かりにくいのです。翻訳調の難解な文章なのです。
例えば、聖書に「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」という文があります。意味不明で有名な箇所です。
しかし山浦玄嗣著「イエスの言葉」-ケセン語訳という本をみると以下のように岩手県の方言で説明してあります。:「頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ア幸せだ。神さまの懐に抱(だ)がさんのアその人達だ。」
写真は山浦玄嗣さんです。
聖書の書かれた古ギリシャ語を正確に翻訳すると、心貧しい人は・・・頼りなぐ、望みなぐ、心細い人・・・となるのです。
このように聖書の日本語訳に問題があります。この本に関しては2012年1月23日掲載のブログの以下の題目の記事でご紹介してあります。
「明治維新後の翻訳文化の根本的な間違い・・・山浦玄嗣著「イエスの言葉」-ケセン語訳ーを絶賛する!」 http://yamanasi-satoyama.blog.ocn.ne.jp
誤解なさらないで下さい。私はキリスト教が日本に普及しないからいけないと主張しているのではありません。普及しないのは当然なのです。
私が主張したいことは外国の文化の理解は難しいということです。翻訳だけに頼っていては理解出来ないことが多々あるということを主張したいのです。
思えば新聞の外国ニュースも翻訳文が多いので注意すべきだと思います。
そんなことを昨日、写真のような山林の中の小川のほとりで考えました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
キリスト教もその一つです。ロシア正教もカトリックも聖公会もいろいろなプロテスタント宗派も日本に数多くの教会を建て、そして全国にミッションスクールを作りました。
しかし明治維新後150年近く経っているにもかかわらず、日本のキリスト教信者は3%を越えることはありません。その上、カトリックは0.3%しかいません。
この事実を時々深く考える時があります。昨日も山林の小屋の庭で考えてみました。
するといろいろな分野の西洋文化の中で日本が導入しやすい分野と、非常に導入が困難な分野があると理解すれば良いことに気がつきました。
科学や技術は導入しやすい分野です。政治体制や社会構造は一見導入しているように見えますが根本的な点は導入が難しいようです。
一番導入が困難なのはキリスト教です。
キリスト教に対して日本人は違和感を感じています。
明治維新以前までの佛教、儒教そして神道を背景にした日本の伝統文化と、キリスト教はどうしても違い過ぎるのです。
分かりやすく言えばキリスト教は水と油のように日本文化と溶け合っていないのです。
私はカトリックなので、ついキリスト教の話をしてしまいます。すると親しい日本人の多くは、「私はヤソは嫌いだ!アジアやアフリカを植民地にした欧米人は嫌いだ!それに西洋文化は物質的で日本の伝統文化の美しい精神性に融合する筈がない!」と言います。
この感じ方は当然です。キリスト教は欧米の固有の宗教であり我々には関係ないと感じているのです。
私は最近、3つのプロテスタント教会と日本正教会のニコライ堂を訪問しました。それで明確に理解した事があります。それはキリスト教がある国を経由して日本に入ってくると、その国の文化を背負って入ってくるという事実です。
一番明確なのはロシア正教として聖ニコライが持ち込んだ正教会は、共産革命以前のロシア文化そのものを背負って来たのです。
アメリカ経由のプロテスタントはアメリカの自由主義と平等の文化を背負っています。
カトリックは産業革命に遅れたスペインやイタリアのラテン文化を背負いっています。
そこで、このような国々の固有の文化をそぎ落として、それぞれのキリスト教のみを比較してみたのです。そうすると全ての宗派は全く同じです。
イエスの教えを記録した福音書を一番大切にしているのです。ある牧師さんが言いました、「人間が福音書に書いてないことまでイエスの名を使ってするからいけないのです。福音書に書いてないことはしてはいけないのです!」と。
その上、キリスト教で使っている聖書が分かりにくいのです。翻訳調の難解な文章なのです。
例えば、聖書に「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」という文があります。意味不明で有名な箇所です。
しかし山浦玄嗣著「イエスの言葉」-ケセン語訳という本をみると以下のように岩手県の方言で説明してあります。:「頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ア幸せだ。神さまの懐に抱(だ)がさんのアその人達だ。」
写真は山浦玄嗣さんです。
聖書の書かれた古ギリシャ語を正確に翻訳すると、心貧しい人は・・・頼りなぐ、望みなぐ、心細い人・・・となるのです。
このように聖書の日本語訳に問題があります。この本に関しては2012年1月23日掲載のブログの以下の題目の記事でご紹介してあります。
「明治維新後の翻訳文化の根本的な間違い・・・山浦玄嗣著「イエスの言葉」-ケセン語訳ーを絶賛する!」 http://yamanasi-satoyama.blog.ocn.ne.jp
誤解なさらないで下さい。私はキリスト教が日本に普及しないからいけないと主張しているのではありません。普及しないのは当然なのです。
私が主張したいことは外国の文化の理解は難しいということです。翻訳だけに頼っていては理解出来ないことが多々あるということを主張したいのです。
思えば新聞の外国ニュースも翻訳文が多いので注意すべきだと思います。
そんなことを昨日、写真のような山林の中の小川のほとりで考えました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)