後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

御嶽山大噴火とイスラム国との戦争の2つの大悲劇のニュースに想う

2014年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム
今朝の読売新聞によると御嶽山の噴火による犠牲者は47人と報じています。
犠牲になった方々はみんな善良な働き者で、その上、高校生まで含まれていました。残された家族のインタビューを見ると涙が誘われます。家族の悲しみはそれぞれで、深いのです。

神様は何故このような善い人に、こんな仕打ちをするのでしょうか。ここ数日、怒りと悲しみが私の心に湧いてきます。
それにしても下の噴火直後の航空写真をご覧下さい。人間が見えません。人間の小ささとはかなさを思わずにはいられません。
ただただ犠牲者のご冥福を何度もお祈り申し上げます。合掌。

(上の写真の出典は、アジア航測(株):http://www.ajiko.co.jp/article/detail/ID5063VS69D/#naname です。撮影番号5481 :2014/9/28 10:14撮影: 剣ヶ峰周辺の降灰状況。山頂付近に御嶽神社奥社と頂上山荘、山頂左下に王滝山頂山荘が位置している。(東方向から撮影))

さて国際ニュースに目を転じてみます。すると欧米諸国とアラブ諸国の連合軍がイスラム国に対して激しい空爆攻撃を連日続行しています。
この戦争の歴史的な意義はアラブ諸国の空軍が欧米の空爆に参加していることです。参加している国はサウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーン、ヨルダン、カタールの5ケ国です。
従来の中東における多くの戦争はキリスト教国とイスラム教国との戦争でした。それらは中世の十字軍による中東諸国の占領以来の宗教的対立という文脈で説明されて来ました。
しかし今回のイスラム国との戦争には5つものアラブ国家が積極的の参加しているのです。アラブ圏が二つに分かれて戦争を始めたのです。

下の写真はシリア領内を空爆したサウジアラビア空軍の戦闘機の写真です。

(上の写真の出典は、http://blog.livedoor.jp/corez18c24-mili777/archives/40396156.html です。 米国とサウジアラビア、バーレーンなどのアラブ国は現地時間23日、シリア領内で過激組織「イスラム国」(ISIS)に対する空爆を実施した。 サウジアラビアメディアは、同国の空軍パイロットは23日、シリア領内の「イスラム国」を攻撃した後に無事に戻ったと伝えた。パイロットにはサウジアラビアの王位継承者・国防大臣の息子もいたという。 )

さて何故サウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーン、ヨルダン、カタールの5ケ国積極的に参加したのでしょうか?その理由はこの5ケ国の存在している場所を示す下の図を見ると明らかです。この5つのペルシャ湾岸の国々は多量に石油を産出し、日本や欧米へ原油を輸出してる国々だからです。

(上の図面の出典は、http://blog.goo.ne.jp/s5s5sapph/e/23c1d515f04685a91be4f74e43ec557b  です。)

昨日、NATOの事務総長に就任した元ノルウエイの首相がNATOもいずれ集団的自衛権を発動して全面的にイスラム国との戦争に参加すうるだろうと発言しました。安倍総理の好きな「集団的自衛権」、この表現がいよいよ出てきたのです。
日本の自衛隊もいずれ派遣される情勢になって来たのです。その可能性は下の日本の原油輸入先の国々の図面を見るとある程度予測できます。

(上の図面の出典は、http://www.f-ss.net/chisiki/csk_1.html です。)

上の図面から明らかなことは、日本は今回の戦争に参加しているサウジアラビア、アラブ首長国連邦、カタールから実に半分以上の原油を輸入していることです。

アメリカが「受益者負担」の原則で自衛隊の後方支援を要求してきたら断れないのです。何事も準備の良い日本の官僚は極秘に自衛隊派遣の準備を始めているに違いありません。日本人は中東の戦争を他人事のように感じているようすですが、重大な問題だと思います。困ったものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

山里、下仁田に住む横山美知彦さんのしみじみとした文章です

2014年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム
終戦の前後に家内は群馬県の山里の下仁田町に疎開していました。その縁で私も何度か下仁田を訪ねたことがあります。
上毛三山の妙義山の南麓にある本当に静かな所です。現在は下仁田市になっていますが昔の日本そのままのような町のたたずまいです。
横山美知彦さんは家内が疎開した時の小学校で同級生でした。
その横山さんがときどき山里に暮らす四季折々の随筆や写真を送って下さいます。
先日は下仁田町から佐久市へ抜けるコスモス街道の写真をお送り頂きました。
9月25日に、「下仁田町から佐久市へ抜けるコソモス街道の写真をお送りいたします」と題する記事でご紹介いたしました。
その後、昔の日本そのままのような日常を描いた文章とスナップ写真をお送り下さいましたので以下に掲載いたします。しみじみとした文章で郷愁を感じさせます。

遠き日の思い出( 1 ) 盆 (迎え火、盂蘭盆会、送り火)
先祖の霊を迎えるのは、新暦8月13日の朝。枯れた麦わらの束を庭先に立てかけて、その根元に火をつける。麦の穂が静かな音を立てながら、柔らかい炎を出して燃え尽きる。その煙に乗り、胡瓜で拵えた馬に跨り足早に精霊が現世に里帰りする。
お盆の間は現世の家で過ごす。それがどんなに質素であっても、それぞれの家の風習に従い恙なく現世の人々と静かに語り合う。そこには世の中の醜さは微塵も感じられない。
暑い夏、蝉の啼きしきる中、入道雲が南の山の頂から湧き上がって来る。今日も夕立か、そんな予想は間違いなく当たる。新暦の盂蘭盆会も過ぎて、夕立の去った山の谷合から吹き降りて来る風に、早や秋の気配が感じられる。
13日の朝に迎え火を焚いた場所で、16日の朝、新しい麦わらに火をつける。精霊は茄子で拵えた牛に跨り、ゆっくりと煙に乗って現世を後にする。精霊が家での休息場所だった「盆棚」を橋の上から川に流すことで精霊を再び西方浄土へお送りする。同時に現世では普段の生活が始まる。・・・ 牛馬を野菜で装う盂蘭盆会・・・

遠き日の思い出( 2 ) 祭  り
10月半ばになると、昼間の澄み切った秋の空の終わりに、夜の帳が足早にやって来る。お祭礼の提灯の明かりが何となく気分を、幼かった頃に引き戻してくれる。
かすかに見ることの出来るその明かりは、いったい何を私に訴えようとしているのだろう。そして何を教えようとしているのだろうか。遠くから静かに聞こえて来る笛や太鼓の独特な音は、私を特別な世界に引き入れてくれる。
町内を引き回す「山車」には、触れることさえ出来ず、上ずった気持ちとは裏腹に、遠巻きに眺めるのがやっと、と云う希望の叶えられないもどかしさを胸に秘めていたことなど、少子化の現在では想像さえ出来ない。山車の上から聞こえて来る笛、鐘、太鼓の音が、乱れる様に祭りを盛り上げる。山車の周りに取り付けられた、組々の提灯が左右に揺れる。正面の高い所に座した、町内自慢の人形も、山車の動きに合わせるが如く僅かに揺れる。・・・深まりし秋の祭りの笛の音は遠き昔と変わることなし・・・

遠き日の思い出( 3 ) 運 動 会
祭りが終わった翌日の学び舎は、朝から機械的な音声が再び気持ちをふるい立たせてくれる。町内最後のイベントの大運動会だ。スピーカーから流れて来るスポーツ行進曲は、自分の力量に関係なく子供達の耳を賑わし、変わりやすい秋の天候だけを気にしながら指導の先生の合図で、身体をほぐす為の準備運動に入って行く。
今とは違い校庭の周囲には、朝早くから露天の物売りが数軒必ず出店していた。子供達は自由に校外を歩き周り、物珍しそうに露天の品物を覗く事が出来た。「芋串」「芋あめ」「こんにゃくおでん」「はっかパイプ」等が粗末な台の上に並べられていた様子が脳裏に残っている。
運動場の生徒達は、靴を履いていない、みな裸足だ。今では考えられない光景だが、当時はそれが当たり前で、「足が痛い」などの言葉は何処からも聞こえて来なかった。昼飯も普段と変わりなく、アルミ製の傷だらけの弁当箱に、家庭で家族の作る「お稲荷さん」が入っていれば、よい部類だった。それが叶わなかった生徒も、決してみじめな気分になったとは思っていなかったはず。むしろ気持ちは高鳴っていた。
子供達は砂利の混じった運動場を思う存分走り周り、大きな声を張り上げ応援していた。
運動会が終わると同時に、やがて来る暮れから正月を気にしながら、普段の生活に戻って行く。やがて霜が降り、上州独特の空っ風が雨戸を攻め立て始めると、気候は地元名産の「下仁田ねぎ」の味が良くなる季節へと移って行く。・・・秋日和り子等の笑顔で締めくくり・・・
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「ほうとう」
母と信州佐久の臼田の叔母の家を訪ねたのは小学校の5 ,6年のころだったろうか。
「今日は上州からの客ずらに(おほうとう)を造らずに」と叔母が妹の母へうれしそうに言っている。私も「ほうとう」がどんな食べ物か理解出来ず、期待だけを頭に描いていた。
朝のTVドラマ「花子とアン」の甲州の場面の食卓に「ほうとう」が出て来るが、当時私はそれが何であるかを知らなかった。
夕方、叔母と母が野菜を刻んだり、かまどの燃料の準備に忙しそうに動いている。
男衆(家が建築土木の下請け業を親子4人で営んでいた)も仕事を終えて集まり夕食の時間となった。
膳の上にあるのは、家では毎晩食べている「おきりこみ」(しかもほとんど私が夜の食事は造っていた)だけ、ええっ?「ほうとう」は何処にあるのかなあ?
主人である叔父の彦三が口を開いた。「みっちゃん、おほうとうだよ、よういと(ゆっくりと落ち着いて)食いなんし」と云う。やっと理解出来た、信州で云う「ほうとう」は上州の「おきりこみ」のことではないか。
具に違いこそあれ、基本的にはほとんど同じだ。期待外れとはこのことか、食べる気が逸れてしまつた。だが折角の「ほうとう」である。気持ちよく口にした。決してまずい食べ物ではなく、「おきりこみ」よりうまく感じた。ただ「ほうとう」の主菜のかぼちゃは、私の口にはすこしばかり合わなかった.

「時  価 」(利根川の味)
群馬県の東部地区になろうか、すぐ隣が埼玉県という所に位置する街が、館林市である。    最近は、真夏の気温が全国で一、二を争う高い場所でもある。この辺りは利根川の水量も多く、江戸の時代から、文福茶釜の「茂林寺」や川魚の獲れる処として有名だ。その為に川魚料理をメインにした料亭が栄えた地であり、現在もその名残りの店をあちこちに見ることが出来る。
特に「うなぎ」は遠方から、これを目当てにやって来る客も多い様だ。
七、八年前になろうか、小学校時代の友人夫婦に誘われ、「うなぎ」を家内と共に御馳走になったのがきっかけで、その後何度かプライベイトで食べに行く機会があった。「うなぎ」の他に、やはりこの利根川で獲れる「なまず」がメニューには必ず載せてあるが、何故か値段は「時価」としてある。友人に御馳走になり、その淡泊な味に魅せられていた。
帰郷していた町田市に住む二男の息子と三人で、立ち寄ったことがあった。さて一般的に時価と書いてある物は、常時提供できる物と比較して五割は高額と認識していたので、注文をためらったが、今度何時来られるか判らないので、思い切って注文してみた。「なまず」のフライは期待に違わずうまかった。
さて勘定と云うところで、一寸心配になったが、勘定書きを見て間違ってはいないか目を疑った。そこには「なまず」のフライ650円とあった。ちなみにメインに注文した「うな重」は一人前1,500円であった。
あの目の小さなとぼけた表情の「なまず」の料理がこんなに淡泊で美味い物とは、しかもその値段の安さに驚いた。(終わり)
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下に今回、横山美知彦さんからお送り頂いた下仁田の風景写真を示します。




行ってみたらこんな所だった水上高原ホテル・・・もう一つの風景遺産

2014年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム
昔から日本の美しい風景として松島、宮嶋、そして天橋立が有名です。しかしこの日本三景の他にも美しい風景は沢山あります。
自分自身が独りで行ったり、新婚旅行で行った場所の風景はその美しさが特別深く心に残るものです。そして、その多くは日本的な美しい風景です。

しかし経済の高度成長期頃からアメリカ流のリゾート開発が巨大資本で行われ日本に新しいアメリカ的な風景が広がっています。新しいタイプの風景遺産と考えられます。

平坦な高原に建てた巨大なホテル、それを囲む広大な緑の芝生と白樺林。そして周囲にゴルフ場やスキー場や カヌー遊びの出来る湖もあります。

このアメリカ的なホテルは日本の老舗ホテル、例えば軽井沢の万平ホテルや箱根、宮ノ下の冨士屋ホテルや日光の金谷ホテルなどの堅苦しさはまったくありません。あくまでアメリカ的に気楽でカジュアルなのです。ホテルの文化が違うのです。

その代表的なホテルは北海道の巨大なキロロとトマムと思います。
他にも幾つもあるのでしょうが私共が行って、そのスケールの大きさに驚嘆したリゾートホテルはこの二つでした。大きさだけでなくアメリカ的な気楽さやカジュアルさに文化的な驚きを感じたのです。宿泊料金も気楽な金額なのです。

今回行った水上高原ホテル200はまさしくアメリカ的な大きなリゾートホテルでした。
名前の後についた200とは敷地が200万坪という意味です。江の島の約10倍の大きさです。
この200万坪の大部分は平坦な芝生のゴルフ場です。そしてその中を散策する遊歩道もあります。森林の冒険コースもあります。カヌーや川下りのプログラムもあります。満天の星空を見に行くプログラムもあります。

それらはすべて「アクティビティ・デスク」で相談し受けてくれます。アメリカのリゾートホテルによくあるアクティビティ・デスクです。

私共はゴルフ場の中の散策路のハイキングを楽しんで、あとは野外の椅子に座って青空に浮かぶ鯖雲を見上げていました。2日目の午後には近くにある宝川温泉の日本一の広さの野外混浴風呂に行くツアーに参加しました。
3日目は11階にある読書室で本を読んだり、備えつけのパソコンで自分のブログを少し客観的に読み返して、内容の甘さを反省したりしました。

東京から新幹線の上毛高原駅まで1時間20分。駅からはホテルの送迎バスで1時間ほどのところにホテルはありました。
以下に今回撮った写真を送りいたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)