後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

塩と砂糖(2)藻塩を焼いて何故塩が出来るのでしょうか?

2014年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム
万葉集に次のような歌があります。・・・淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕なぎに “藻塩”焼きつつ 海人娘子 ありとは聞けど 見に行かむ ・・・
松帆の浦で藻塩を使って塩を作っている美しいという噂の娘を見に行きたいのだが・・・という男の歌です。彼は笠朝臣金村といい万葉集 巻六-935の歌です。
その他に万葉集には藻塩や塩を焼くという言葉が度々出て来ます。
塩を作る製法は次のように3段階です。
(1)海水を玉藻すなわちホンダワラにかけ天日に干します。乾いたらまた海水をかけ干します。これを何度も繰り返しホンダワラの上についた塩を増やします。
(2)塩が多量に付着したホンダワラを海水で洗い、濃厚な塩水、すなわち「かん水」(鹹水)を作ります。この鹹水にはホンダワラの風味が少しついています。
(3)この鹹水を製塩土器に入れて煮つめて塩の結晶を作ります。
この上の(3)の過程で乾燥させたホンダワラを焼いてその灰を鹹水に混ぜてホンダワラの味を濃くしたものもあります。
現在、全国のあちこちで「藻塩」を製造して販売しています。近代的な製造設備を使っているので「製塩土器」は使いません。
一番目の写真は市販されている藻塩の一例です。「藻塩」を検索すると数多くの店で販売していて、ネットで取り寄せられます。値段は一袋数百円です。
話は変わりますが宮城県の塩釜市には塩竃神社がありその中に御釜神社があります。この御窯神社の神事に藻塩焼神事があります。
その神事は上で示した3段階を忠実に行う神事です。
二番目の写真に御釜神社を示します。そして三番目の写真には藻塩焼神事の様子を示します。



大和朝廷が塩竃市の西隣に多賀城の砦を作ったころ、塩竃で藻塩焼きをして塩を作ったという伝承にもとずいた神事です。以下のような3段階の神事です。
(1)7月4日 藻刈 鹽竈神社の幟を立てた小船を宮城郡七ヶ浜町花淵湾(鼻節神社の沖合)に出し、海底より海藻のホンダワラを刈り取って櫃に納めて持ち帰り、社殿に御供えする。
(2)7月5日 御水替 午前10時、当社に奉告の祭典を行った後、松島湾の釜ヶ淵に小船を出す。船上で儀式を行い、満潮時の海水を汲み帰って神竈の柵内に置く。午後5時より旧来の神竈の古い水を新桶に汲み取って残水を去り、竈の内外を藤蔓で洗浄してから、汲み帰って来た潮水を竈に入れる。
(3)7月6日 藻塩焼例祭 神竈と同形に作った塩焼竈の上に竹で編んだ棚を置き、4日の藻刈により刈り取って来たホンダワラを広げる。その上から潮水を注いで竈の中に鹹水を蓄え、時間をかけて煮詰める。できた荒塩は採集して、まず御釜神社の神前に供え、10日に鹽竈神社の3座の神前に御供えする。

現在市販されている「藻塩」の味は塩にホンダワラの味を加えたようなまろやかな美味しい味だそうです。試に購入されて味わうのも良いと思います。

塩と砂糖(1)縄文時代の製塩方法と製塩土器

2014年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム
塩と砂糖は現在の世界中の料理に使われています。大げさに言えば人間の必需品です。などと大きな話をしていきなり矮小なことを書きますと塩味と砂糖味はいつも私共夫婦の論争の原因になっています。
家内は塩や砂糖の少ない薄味の料理が好きです。鎌倉生まれ東京育ちなので関西の薄味好みとは違ういきさつがあります。
一方私は仙台生まれ、仙台育ちなので思いっきりショッパイものが好きです。鮭は超辛い塩引きが好物です。全ての料理は塩味が濃くて砂糖が沢山入っていたほうが好きです。私は塩は偉大な調味料として尊敬し大切にしています。
そこで今日は縄文人たちがどのようにして塩を作っていたか調べてみました。
簡単に言えば海水を土鍋に入れて煮詰めて塩を作っていたのです。
燃料を節約するために古墳時代や奈良時代には海藻を海水で濡らし、天日で干し、それを海水で洗って濃厚な塩水を作り、それを土鍋で煮詰めていたようです。
土鍋で煮詰めないで濃厚な塩のついた海藻を焼いて塩を作る方法もあったようです。万葉に、「藻塩やく」という言葉が出てきます。
塩田が出てくるのはずっと年代が下がってからです。
さて縄文時代に海水を煮詰めた土器を考古学では製塩土器というそうです。土器に多量の塩が浸みこんでいるので簡単に分かるのです。
そこで一、二、三の写真に示した日本の地域ごとの製塩土器の時代による変遷の図面を見て見ましょう。
出典は、http://www.jti.co.jp/Culture/museum/sio/japan/mosioyaki.html
たばこと塩の博物館 公式HPです。

この図をよく見ると縄文時代は青森、岩手、宮城、茨城のような東日本が塩の主な生産地だったようです。
そして弥生時代から古墳時代になると能登、若狭、大阪、和歌山、瀬戸内海沿岸、そして九州で塩が生産されるように変わったのです。
この縄文時代の製塩方法は奈良時代や平安時代以降も行われていたことも驚きです。
四番目の写真の図は製塩土器を多数同時に焚火の中で焼いて海水を煮詰めている様子です。

この図は淡路島での製塩作業の様子イラストで、出典は
http://www5.ocn.ne.jp/~kokoken/index.html
考古幻想HPです。
このイラストを見ると製塩作業の効率が良いようで、それが当時の一つの産業になっていた様子がわかります。
このように製塩作業は縄文時代から組織的に一つの産業として海沿いの各地で行われていたのです。
塩田技術への進歩は平安中葉から鎌倉時代になってからのことですが、それについては稿を改めて書くつもりです。
今日書いたことは主に以下の優れた資料を参考にしました。記して感謝の意を表します。
勉強ノート、製塩土器:http://www.geocities.jp/shimizuke1955/304salt2.html

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)