戦後70年。日本は本当に豊かになりました。物も人々の心も豊かになったのです。
そのことを忘れず感謝の気持ちを持ちたいと思い、昨日、「我が故郷、仙台の戦前の風景を懐かしむ」という記事を掲載しました。
そうしたら戦前、戦後の頃の仙台の貧しげなようすに吃驚しました。仙台という都会ですらこうなのですから地方の様子はどうだったのでしょうか?
そう考えていたら、趣味人倶楽部の「でいしゅうさん」が別海町の終戦直後の風景写真をお送り下さいました。そこは2012年に観光旅行に行って、その美しい牧場の風景に感動した所です。
今日はその別海町の終戦直後と現在の風景を比較して見ようと思います。
北海道の東部に広がる別海町は海岸には野付半島があり、内陸は牧草地が広がり、ヨーロッパの農村風景を連想させている美しい場所です。
この別海町では酪農が盛んで、全国1位の生乳生産量です。年間生産量は43万tです。
そして海岸部の本別海、尾岱沼等ではサケ、アサリ、ホタテ、ホッカイエビなどの漁業が盛んです。
先日の8月3日には海岸部の野付半島をご紹介しました。それは「荒涼たる北海道、野付半島と遥か沖に浮かぶ 国後島」と題する記事でした。
今日は内陸部の牧草地帯の現在と、でいしゅうさんに送って頂いた終戦直後の開拓時代の風景写真をお送りしたと思います。
まず2012年の9月の旅の折りに撮った現在の写真を4枚示します。
広大な別海町を車で走っていると次々とこのような牧場の看板が出て来ます。牧場の建物は入り口から遥か奥の方に小さく見えます。
偶然、通りかかった道産馬の牧場です。開拓のために活躍した重量馬の子孫です。
牧草地が広がり端は緑豊かな森によって区切られています。このような森を開拓して牧草地に変えていったのです。
写真の白い包みは、トラクターで牧草を刈り取って、圧縮してビニール布で丸めた巨大な塊です。こうして牧草を貯蔵し、発酵させてから乳牛に食べさせると消化が良いそうです。
さてこのように美しい景観の別海町の終戦直後の風景はどのようだったのでしょうか。
下の4枚の写真でその様子を示します。
この小屋は終戦後に入植したある農民が住んで居た家です。冬の寒さの厳しさが偲ばれるような密閉した作りになっています。
上の写真は道産馬で牧草地を耕している光景です。人間は馬の引く犂の上に座っています。
上は生産された多量の牛乳を缶に入れて道産馬に引かせて牛乳の殺菌工場へ運んでいる様子です。別海町には昔から雪印や森永の牛乳処理工場があったのです。
別海町には現在は廃線になりましたが鉄道がありました。上の写真は終戦後も長期間、活躍したガソリンカーの写真です。戦争中の昭和16年に導入されたようです。
戦後70年、日本の都会の風景も変わましたが、地方の農村風景も様変わりしたのです。
上に示した終戦後の4枚の写真についていた、でいしゅうさんの説明文を、許可を得て下に掲載いたします。
「別海町の住民期間は2年間です。此処の歴史を訪ねたりしました。
野付半島の砂嘴には幻の町「きらく」があったそうです。今でも茶碗の欠片がたくさんあります。しかし安物の陶器です。アイヌの城塞もあり矢じりなども出土しています。
興味があったのは、植民鉄道です。最初は馬力で、その後はディゼルカーで運行していました。当時のレールは家畜競り市の屋根とかバックネットになって残っています。鉄路の跡もわかります。間もなくその跡も、記憶もなくなるでしょう。現在は国道の橋に跨線橋の名前が残っています。そして廃線になった国鉄線も残っています。
戦争中の掩体壕跡、B29のプロペラも面白いですね。
すべて「別海町百年史」よりの受け売りです。
文化的なものは何もありません。私の好きな刀剣もありません。
歴史的なものも壊しています。昔の町には馬を繋ぐ輪があったそうです。何も残っていません。
浜に行けば内地の漁師の仮小屋の残骸があるだけです。アイヌの痕は何もありません。内陸部は牧場に代わり「新酪農計画」で牧草のみが茂っています。」
さて北海道全体を見ますと牧畜だけでなく、富良野には香水の原料にするラベンダーの花畑が広がっています。その上、北海道の米の生産量は全国1位なのです。( http://suido-ishizue.jp/kindai/hokkaido/05.htmlより)
このように農業が盛んな北海道でも終戦前後と現在の風景は大きく変わったのです。
それにしても日本は本当に豊かになったのですね。貧しかった頃を体験している人々にとっては感慨無量と思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
そのことを忘れず感謝の気持ちを持ちたいと思い、昨日、「我が故郷、仙台の戦前の風景を懐かしむ」という記事を掲載しました。
そうしたら戦前、戦後の頃の仙台の貧しげなようすに吃驚しました。仙台という都会ですらこうなのですから地方の様子はどうだったのでしょうか?
そう考えていたら、趣味人倶楽部の「でいしゅうさん」が別海町の終戦直後の風景写真をお送り下さいました。そこは2012年に観光旅行に行って、その美しい牧場の風景に感動した所です。
今日はその別海町の終戦直後と現在の風景を比較して見ようと思います。
北海道の東部に広がる別海町は海岸には野付半島があり、内陸は牧草地が広がり、ヨーロッパの農村風景を連想させている美しい場所です。
この別海町では酪農が盛んで、全国1位の生乳生産量です。年間生産量は43万tです。
そして海岸部の本別海、尾岱沼等ではサケ、アサリ、ホタテ、ホッカイエビなどの漁業が盛んです。
先日の8月3日には海岸部の野付半島をご紹介しました。それは「荒涼たる北海道、野付半島と遥か沖に浮かぶ 国後島」と題する記事でした。
今日は内陸部の牧草地帯の現在と、でいしゅうさんに送って頂いた終戦直後の開拓時代の風景写真をお送りしたと思います。
まず2012年の9月の旅の折りに撮った現在の写真を4枚示します。
広大な別海町を車で走っていると次々とこのような牧場の看板が出て来ます。牧場の建物は入り口から遥か奥の方に小さく見えます。
偶然、通りかかった道産馬の牧場です。開拓のために活躍した重量馬の子孫です。
牧草地が広がり端は緑豊かな森によって区切られています。このような森を開拓して牧草地に変えていったのです。
写真の白い包みは、トラクターで牧草を刈り取って、圧縮してビニール布で丸めた巨大な塊です。こうして牧草を貯蔵し、発酵させてから乳牛に食べさせると消化が良いそうです。
さてこのように美しい景観の別海町の終戦直後の風景はどのようだったのでしょうか。
下の4枚の写真でその様子を示します。
この小屋は終戦後に入植したある農民が住んで居た家です。冬の寒さの厳しさが偲ばれるような密閉した作りになっています。
上の写真は道産馬で牧草地を耕している光景です。人間は馬の引く犂の上に座っています。
上は生産された多量の牛乳を缶に入れて道産馬に引かせて牛乳の殺菌工場へ運んでいる様子です。別海町には昔から雪印や森永の牛乳処理工場があったのです。
別海町には現在は廃線になりましたが鉄道がありました。上の写真は終戦後も長期間、活躍したガソリンカーの写真です。戦争中の昭和16年に導入されたようです。
戦後70年、日本の都会の風景も変わましたが、地方の農村風景も様変わりしたのです。
上に示した終戦後の4枚の写真についていた、でいしゅうさんの説明文を、許可を得て下に掲載いたします。
「別海町の住民期間は2年間です。此処の歴史を訪ねたりしました。
野付半島の砂嘴には幻の町「きらく」があったそうです。今でも茶碗の欠片がたくさんあります。しかし安物の陶器です。アイヌの城塞もあり矢じりなども出土しています。
興味があったのは、植民鉄道です。最初は馬力で、その後はディゼルカーで運行していました。当時のレールは家畜競り市の屋根とかバックネットになって残っています。鉄路の跡もわかります。間もなくその跡も、記憶もなくなるでしょう。現在は国道の橋に跨線橋の名前が残っています。そして廃線になった国鉄線も残っています。
戦争中の掩体壕跡、B29のプロペラも面白いですね。
すべて「別海町百年史」よりの受け売りです。
文化的なものは何もありません。私の好きな刀剣もありません。
歴史的なものも壊しています。昔の町には馬を繋ぐ輪があったそうです。何も残っていません。
浜に行けば内地の漁師の仮小屋の残骸があるだけです。アイヌの痕は何もありません。内陸部は牧場に代わり「新酪農計画」で牧草のみが茂っています。」
さて北海道全体を見ますと牧畜だけでなく、富良野には香水の原料にするラベンダーの花畑が広がっています。その上、北海道の米の生産量は全国1位なのです。( http://suido-ishizue.jp/kindai/hokkaido/05.htmlより)
このように農業が盛んな北海道でも終戦前後と現在の風景は大きく変わったのです。
それにしても日本は本当に豊かになったのですね。貧しかった頃を体験している人々にとっては感慨無量と思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)