後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「デパートの婦人服のファッションはもう秋の色です」

2015年08月24日 | 写真
今日は家内が久しぶり服を買うと言うので立川市の高島屋に行きました。
婦人服売り場には待っている男性の座る椅子が必ず用意してあります。
過去何年間、もう何度もその椅子に座って流行の婦人服を眺めています。
すると並んでいる服が季節より早目に色彩を変えて行くことに気がつきました。
まだ八月なのにもう既に秋の色です。毛皮の襟飾りもあります。晩秋の雰囲気です。
それにしてもデパートの婦人服は色彩が上品で控え目です。和の世界です。何か寂しげな感じの色合いです。
このような色彩ならお茶席にも来て行けますし、法事にも行けます。
見ていると心が静かになり落ち着きます。心地良い色合いなのです。
若い頃、訪ねて行ったオハイオ、コロンバス市のラザラスというデパートを思い出します。原色の派手な婦人服が並んでいて吃驚したことを思い出しました。
そんことをな考えながら写真を撮って来ました。









「ロシアとの友好促進のために!・・北方四島に関するある考え方」

2015年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム
以下は日本人が北方領土について感情的にならないでロシアとの友好促進を進めるように祈りつつ書きました。心の平静にお役に立てば幸いす。

誤解を恐れずに書けば国際関係には人間の憎しみと欲望が大きく作用する場合があります。
冷戦時代はアメリカは日本がソ連を憎めばいろいろな面で良かったのです。
例えば北方四島の返還運動で日本人がソ連を憎むことはアメリカにとって良かったのです。ソ連崩壊後もロシアはアメリカの敵対勢力になりました。同じ構図です。
日本がロシアと関係が悪くなるほど安保条約がより強化されるのです。
ですから北方四島返還運動はアメリカの利益になるのです。
日本政府はアメリカの利益になるので北方四島返還運動を止めるわけにいかないという解釈も出来ます。なにせアメリカはクレミア半島の武力領有が原因でロシアに制裁政策をとっているのですから。
その北方領土について対岸の標津町に住んでいたある友人からの手紙をご紹介します。
・・・・以前、北海道の標津町に住んでいました。多くの友人もできました。
特に漁業関係者とも胸襟を開いて話しました。
敗戦後、国後島が占領され、島民は追われました。(後藤による注記:1946年12月、GHQとソ連との間で日本人全員の引き上げが合意され1948年までにほぼ全員の日本人が帰国したのです。)
それはそれとして、国後の原住民となると、アイヌであり、それまでに和人が滅ぼしたり、混血して、純粋な原住民はいなかったそうです。
ソ連に追われて、標津町の漁民になりました。成功した人もあり、釧路や札幌へ流れた人もいたそうです。
月日が経てば、子供たちは進学し、内地へも行ってしまいます。残って父の漁業を継ぐ者もいます。
元々この地は内地からの入植者で開けた土地です。国後からの移住者が増えただけです。戦前から結婚などで標津町と国後は交流もありました。ですからスムーズに移住生活が出来ました。
しばらくすると内地から「北方領土返還」の声が聞こえてきました。
標津町にも同調する者はいます。しかし、元国後島民の関心は「漁業権」だけなのです。あの海でもう一度漁がしたい!!。あの豊かな魚、昆布を獲りたい。浜に番屋ぐらいは建てたい。それが本音です。
彼らの歳はあと何年もありません。子供たちは日本の生活に慣れて、不便な島へ戻る(移住する)事は誰も望んでいません。勉強のできる子供を札幌の学校へやりたい、それなんです。
墓参で島へ行った人は島の様子を話します。別海町のほうが好い、これが結論です。
しかし、表立っては言いません。90歳の爺さんは夢のような海の幸を語りますが、設備の整った標津町の病院へ通っています。
まあ、北方領土返還運動も飯の種ですから、その筋の人にとっては命よりも大切でしょう。市町村も国から対策費が出ていますから、建物も立てられるし、いいんじゃない、と思っています。
こんな面白い噂話が有ります。噂話ですから真偽はわかりません。
日本から墓参団が船で国後へ行きました。船の先には行先の国の国旗を掲揚するそうです。当然日の丸をつけて入港しました。するとソ連の役人が日の丸を降ろせと指示したそうです。船長は降ろそうとすると、乗っていた厚生省の係官が、絶対ダメと言い張ったそうです。国後島は日本だからです。
入港し上陸しなければ墓参は出来ません。
すると復帰運動をしている活動家が日の丸を降ろし、赤い旗を掲揚したそうです。勝手にした事ですから日本の顔も立ち、ソ連も顔が立ち、皆ハッピーだったそうです。
噂話ですから笑い流して下さい。(終わり)
ここで私は原発のことを思い出しました。原発は日米原子力協定の故に止められないという噂があります。原発のある市町村も国から対策費が出ていますから何か似た構図です。
以下に国後島がアメリカ占領軍とソ連の話し合いでロシア領になったいきさつを示します。
===アメリカ占領軍とソ連の話し合いでロシア領になった!===
1945年日本のポツダム宣言受諾通知後、ソ連軍が日ソ中立条約を破棄し千島列島に侵攻を開始、太平洋戦争の降伏文書調印(1945年9月2日)の前日9月1日にソ連軍が同島に上陸、占領しました。
ポツダム宣言第7条に従って日本の諸地点は連合国に占領されましたが、国後島を含む千島列島は、一般命令第1号によって、ソ連占領地となったのです。
1946年1月29日、GHQからSCAPIN-677が命令され、日本は国後島を含む千島列島の施政権を停止されると、直後の2月2日、ソ連はこれら地域を自国領土に行政編入しました。
同年3月には、島内の通貨が日本円からソ連のルーブルに変更されます。
1946年12月、GHQとソ連との間で日本人全員の引き上げが合意されると、1948年までにほぼ全員の日本人が帰国したのです。
戦後のソ連は、ユジノクリリスクという新たな町を、日本時代の古釜布を望むほぼ無人であった高台に建設します。(以上は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%BE%8C%E5%B3%B6 からの抜粋です。)
以上のように1946年にアメリカ占領軍とソ連側との交渉によって日本人全員が国後島を離れたのです。千島列島の領有権の移動はポツダム宣言に含まれていたという話もあります。(終わり)

心の平静にお役に立てば幸いす。
下に国後島の風景写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)