明治維新以後78年の戦争の時代の終点は日本の敗北で終わりました。樺太、満州、朝鮮、台湾を失い大日本帝国は瓦解したのです。
そして戦後70年の出発はアメリカ軍の徹底的な空襲による焼野原からです。全国の都市が完全に焼野原になりました。そこから戦後の70年が始まったのです。下に一例として仙台市の焼野原の写真を示します。
仙台空襲について仙台の新聞の河北新報は 7月10日(月)に次のように報じています。
・・・・1945年7月10日午前0時3分から2時5分まで、米爆撃機「B 29」123機が攻撃。912トン、1万2961発の焼夷弾を投下した。死者1399人、負傷者1683人。 主に仙台駅西側の約500ヘクタールが焼け野原となり、被災戸数は約1万1900戸に上った。・・・・・
私は小学3年生でした。仙台市が燃え上がっている光景を向山の高台から朝まで眺めていました。
戦後70年経過して、この焼野原だった仙台は美しいビルが建ち並ぶ街になったのです。下に2010年10月に青葉城の城跡ら撮った写真を示します。
このような例は全国に見られました。日本は文字通り廃墟から立ち上がってのです。
70年間の復興と経済の成長はいばらの道でした。皆が食糧難の中で歯を食いしばり必死に努力したのです。1964年に東京オリンピックがあり、やっと一息つけたのは1970以後のことでした。私は1958年に大学を卒業し、アメリカの大学へ留学し、必死で勉強しました。
勉強と言えば当時の会社の技術者たちも外国の専門書を夜遅くまで読み、先進技術の導入に努力していたのです。それは凄まじいまでの勉強でした。
この技術者たちの努力のお蔭で日本の工業が隆盛したのです。
1990年代と2000年代は日本は本当に豊かになり、平和が続きました。
しかし運命はまた暗転します。2011年3月に起きた東日本大震災で東北地方と関東の海岸に近い市町村が津波で流れてしまったのです。それは壊滅的な大津波でした。
その上、福島第一原発の原子炉が4つも爆発してしまったのです。
これは戦後70年における一番大きな悲劇でした。
アメリカ軍をはじめ世界各国から救援隊がやってきました。これには私も非常に勇気づけられました。明るい希望の灯が燃え上がった思いをしました。
そして、今日は2年間近くも完全に停止していた原発が、九州の川内で再び動きだしたのです。
それは技術者の立場から見ると輝かしい復興です。
しかしNHKの世論調査では48%が再稼働反対で、賛成者は17%だったと言います。
日本は多数決が原則の民主主義の国の筈です。不思議な気分です。
私自身は危険な老朽原発を順々に廃炉にして行き、最終的に原発はゼロにすべきという意見です。詳しい理由は今日は省略します。
しかし今日の新聞を見ると政府は再稼働の原発を増やし、電力の20%前後を原発で賄うようなことが書いてあります。
これで日本の安全と平和が本当に保たれるのでしょうか?
その答えは誰も分かりません。将来の歴史を待たなければ正解が出ません。
これが戦後70年の平和の時代の一齣なのです。
下に仙台の焼野原の写真と2010年10月の仙台の青葉城址から撮った写真をもう少し示します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
そして戦後70年の出発はアメリカ軍の徹底的な空襲による焼野原からです。全国の都市が完全に焼野原になりました。そこから戦後の70年が始まったのです。下に一例として仙台市の焼野原の写真を示します。
仙台空襲について仙台の新聞の河北新報は 7月10日(月)に次のように報じています。
・・・・1945年7月10日午前0時3分から2時5分まで、米爆撃機「B 29」123機が攻撃。912トン、1万2961発の焼夷弾を投下した。死者1399人、負傷者1683人。 主に仙台駅西側の約500ヘクタールが焼け野原となり、被災戸数は約1万1900戸に上った。・・・・・
私は小学3年生でした。仙台市が燃え上がっている光景を向山の高台から朝まで眺めていました。
戦後70年経過して、この焼野原だった仙台は美しいビルが建ち並ぶ街になったのです。下に2010年10月に青葉城の城跡ら撮った写真を示します。
このような例は全国に見られました。日本は文字通り廃墟から立ち上がってのです。
70年間の復興と経済の成長はいばらの道でした。皆が食糧難の中で歯を食いしばり必死に努力したのです。1964年に東京オリンピックがあり、やっと一息つけたのは1970以後のことでした。私は1958年に大学を卒業し、アメリカの大学へ留学し、必死で勉強しました。
勉強と言えば当時の会社の技術者たちも外国の専門書を夜遅くまで読み、先進技術の導入に努力していたのです。それは凄まじいまでの勉強でした。
この技術者たちの努力のお蔭で日本の工業が隆盛したのです。
1990年代と2000年代は日本は本当に豊かになり、平和が続きました。
しかし運命はまた暗転します。2011年3月に起きた東日本大震災で東北地方と関東の海岸に近い市町村が津波で流れてしまったのです。それは壊滅的な大津波でした。
その上、福島第一原発の原子炉が4つも爆発してしまったのです。
これは戦後70年における一番大きな悲劇でした。
アメリカ軍をはじめ世界各国から救援隊がやってきました。これには私も非常に勇気づけられました。明るい希望の灯が燃え上がった思いをしました。
そして、今日は2年間近くも完全に停止していた原発が、九州の川内で再び動きだしたのです。
それは技術者の立場から見ると輝かしい復興です。
しかしNHKの世論調査では48%が再稼働反対で、賛成者は17%だったと言います。
日本は多数決が原則の民主主義の国の筈です。不思議な気分です。
私自身は危険な老朽原発を順々に廃炉にして行き、最終的に原発はゼロにすべきという意見です。詳しい理由は今日は省略します。
しかし今日の新聞を見ると政府は再稼働の原発を増やし、電力の20%前後を原発で賄うようなことが書いてあります。
これで日本の安全と平和が本当に保たれるのでしょうか?
その答えは誰も分かりません。将来の歴史を待たなければ正解が出ません。
これが戦後70年の平和の時代の一齣なのです。
下に仙台の焼野原の写真と2010年10月の仙台の青葉城址から撮った写真をもう少し示します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)