後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「若い時のアメリカ留学で私の受けた影響(2)終生変わらぬ愛国心を持ってしまった」

2015年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム
私はフルブライト留学生として1960年から1962年まで、オハイオ州立大学の金属工学科に留学しました。
その時アメリカ人はいつも私を励ましてくれ、好意溢れる支援を惜しみなく与えてくれたのです。それは私が日本人だったから受けた好意と支援だったのです。
当時のアメリカ人は日本人を蔑んでいなかったのです。いや尊敬すらしていまいた。
理由は簡単です。日本は勇敢に戦い手強い相手だったのです
その結果、私はアメリカに留学した影響で終生変わらない愛国心を持つようになったのです。
日本に生まれた幸運に感謝しました。祖国日本を懐かしみ大切に思うようになりました。どこの国より愛しています。その上、アジア人として生まれた幸運にも感謝しました。したがって隣国の韓国や中国も大切に思い愛しています。
最近、中国や韓国の悪口を言うのが愛国心と思っている人々もいるようですが、私の愛国心はそのように偏狂ではない大らかなしかし熱烈な情念なのです。
そのような愛国心を終生持つようになった原因は多数の民族が混じって国を作っているアメリカ合衆国に住んでみて、その中で体験した強烈な人種差別の影響を受けたことにあります。
1960年に留学したアメリカでは強烈な黒人差別をしていました。
オハイオ州の州都、コロンバスに留学した大学がありました。その町でも白人と黒人の住む地域がはっきり別れています。バスに乗ると前半分が白人席で後半分が黒人席と決まっていました。間に仕切りがあります。はじめてバスに乗った時、何の気なしに後半分の席に座りました。とたんに近くの白人男性が寄って来て、私の腕をつかみ、前半分の一番後ろの席に座らせました。黒人差別のルールを破ってはいけないのです。
コロンバスでは映画館もレストランも黒人用は別でした。
留学した大学は白人しかいません。親しくなった白人の同級生が黒人との付き合い方を真剣に教えてくれました。黒人と個人的に親しくなってはいけない。一緒に並んで道路を歩いてはいけない。毎日家々にゴミ集めに来る黒人には絶対にサンキューと言ったり話しかけてはいけない。黒人地域はアパートが安いからと住み込んではいけない。こんな調子でした。
この状態は公民権運動をしていたキング牧師の成果が出る前のアメリカの黒人差別の実態でした。キング牧師は「いつか必ずこんな日が来る。白人と黒人が仲良く一つの食卓で楽しく食事を共にする日が必ずやって来る!」と悲しげに叫んでいたのす。私はその声を忘れません。
しかし私が留学した1960年から1962年のアメリカは人種差別の強い時代でした。
アメリカでの階級を大雑把にいうと上から順に(1)ヨーロッパ系白人、(2)中南米から来た白人、(3)アジア人、そして(4)アフリカ系の黒人と厳然と別れていたのです。そして(1)、(2)、(3)はまとめて白人と同じような扱いを受けていたのです。
日本人の私ははからずも白人並みの生活が出来たのです。黒人のように差別され蔑視されなかったのです。
ですから当然、私は日本人に生まれた幸運を感謝しました。アジア人に生まれた運命に感謝しました。従って日本を大切に思うようになりました。日本人を誇りに思うようになりました。そしてアジア人に親しみおぼえるをようになりました。
最後に、冒頭に書いた「それは私が日本人だったから受けた好意と支援だったのです」という理由を書きます。
その理由は当時のアメリカ人は日本人を蔑んでいないのです。いや尊敬すらしていまいた。
理由は簡単です。日本は勇敢に戦い手強い相手だったのです。油断していたら真珠湾まで攻め込んで来たのです。アメリカが本気で戦って3年8ケ月の後やっと勝つことの出来た強敵だったのです。憎らしくはありますが日本人の力を尊敬せざるを得なかったのです。
同級生は特攻機のことにを敬意を感じているようでした。
太平洋戦争の功罪は議論すればキリがありません。
しかしその戦争のお蔭でアメリカ人は私の留学を支援してくれたのかも知れません。
このことはまた別の記事で書いてみたいと思います。
今日の写真はアメリカの風景写真です。ネットで「アメリカの風景写真」を検索してお借りした写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)