後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

毎日、雨なので花の写真をお送りいたします

2015年08月31日 | 写真
数年間、ネット上でお付きあいをしている、ちひろさんのブログ、「ちひろのデジブラ」を訪問してみました。琵琶湖のほとりにお住まいで、ご自分で車を走らせて、四季折々、花々の写真を撮り、ブログ掲載している方です。
相変わらず毎日のように琵琶湖のほとりの花々の写真を掲載していらっしゃいます。
そこで今日は雨で濡れる夏の名残の朝顔の写真をお送りいたします。お楽しみいただければ嬉しく思います。出典は、http://blog.goo.ne.jp/yumenohanamiti8739です。





舟越保武とその父への想い・・・舟越保武の彫刻の世界への補足

2015年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
舟越保武はどのようないきさつでカトリック信者になったのでしょうか?もしご興味があったらお読みください。
硯水亭歳時記(http://blog.goo.ne.jp/sakura-sakura_1966/e/1f20a3ae300758b1d8b6d02a8ac4ad22)に掲載してある「舟越保武・桂親子の「祈り」」という記事の終りの方にこんなことが書きてあります。
 「父は熱心なカトリック信者であった。わたくしは子どものころから毎日曜日、かならず教会のミサに連れてゆかれた。それが嫌でならなかった。何ということなしに、子ども心に反抗していたのであろうか。・・・ついに父の生前には洗礼を受けなかった。わたくしの妙にひねくれた意地っ張りがそうさせたのか、ときどき駄々をこねて父に反抗した。
 わたくしは18歳の春に、右脛骨の骨髄炎にかかった。・・・わたくしが発病したとき、父もからだ が悪く床についていたのだが、足の病気の腫れを治すにはハコベの葉の汁が卓効があると聞いて、父は夕方人力車にのって雪の降る中をでかけた。暗くなってから、ほんの少しばかりのハコベを持って帰ってきた。雪が深くて少ししか採れなかった、と淋しそうなようすであった。手術後の、かなり恢復したころ、医師の指示で、父は毎日、わたくしの醜く変形した脛の傷をクレゾール液で洗った。メスの痕の無惨な傷口を、いたいたしそうに洗ってくれた。18歳の若いからだの、美しかるべきわが子の足の、ぞっとするほど醜怪に変形したその傷口を洗うときの、父の心はどんなに苦しかったことか。  
 ある日、父はわたくしの傷を洗うとき、小さな硝子の瓶に入った透明な水を数滴、傷にかけた。「これは教会からいただいてきた尊い聖水だ。これで傷は早く治るのだ」といった。
 いつもよりいっそう緊張した父の態度に、わたくしはたまらないほどの父の愛を直感したように思うのだが、突然「やめろ、傷口が悪くなる」ときちがいのようにわめいた。傷口の中、1センチほどのところに骨があるのだ。バイキンが入る、と言って怒鳴り散らした。自分はなぜこのときこんなに激昂したのであろうか。父はすぐクレゾール液でわたくしの傷口を洗い直して、聖水を流し去ってしまった。
 わたくしは今でも、そのときの父の心が見える。信仰と、わが子への肉親の愛、この板ばさみになった父の苦痛が、わたくしの足にじかに伝わってくるようであった。
 父はどんなに苦しんだであろうか。石のように堅く守りつづけてきた永年の信仰が、自分の子をいたわる気持ちからたとえ瞬時でもぐらついてしまったことについて、取り返しのつかないこの一事が父の心をずたずたにしてしまったのではなかったか。父のその心がつたわってか、わたくしも胸を掻きむしるような思いがあった。
 わたくしはひと言も父に詫びなかった。父は黙って自分の部屋に引っ込んだ。父はその夜、眠れなかったではないか。眠らずに自分の不信を責めつづけたのではなかったろうか。
 父はその年の暮れ近く癌で死んだ。父の死顔の、冷たい額の髭をを剃りながら、わたくしは聖水を足の傷にかけてくれたときの父を想っていた。そのときも涙が流れてしょうがなかった。
 四年がかりの制作(註:長崎26殉教者像の制作)の間に、なんべんも同じ夢を見た。黒いガウンを着た父が、声もなく涙を流しながら、わたくしの頭を撫でているのだ。目が覚めると、わたくしはぐっしょりと汗をかいていた。制作でひどく疲れているときに、よくこの夢を見た。
 わたくしは、夜ふけのアトリエの真ん中に立って、フランシスコ・キチの像を見上げながら、雲の上で父とむかって立ているような気持ちであった。」・・・(舟越保武「断腸記」より)
 そして89歳、舟越保武はついに帰天(カトリックでは亡くなることをいう)してしまうのだが、その日2月5日というのは、1597年(慶長元年12月19日) のことで、豊臣秀吉の命により、長崎でカトリック信徒二十六名が処刑された、その同じ日であったとは。
以上は硯水亭歳時記からの抜粋を転載したものです。原著者へ深い感謝の意を表します。(終り)

舟越保武の彫刻の世界・・・聖なる美しさと深い精神性

2015年08月31日 | 写真
昨日、東京都練馬区立美術館で9月6日まで開催中の「舟越保武彫刻展 まなざしの向こうに」を家内と一緒に見てきました。
非常に感動しました。信仰を持っている人間の表情や姿が、ブロンズや大理石や砂岩の彫刻として活き活きとして表現してあるのです。
1950年、38歳の時、舟越保武は幼い長男を亡くし、その直後、洗礼を受けカトリックの信者になります。
したがって彼のその後の彫刻作品はカトリック信仰やキリシタンの受難を題材にしたものが多くなります。信仰や修行の結果、人間の顔や姿がどのようになるか彫刻で表現してあるのです。
冷たいブロンズや石でできた顔に暖かい血が流れ優しさに満ち溢れています。そして聖なる精神が燃え上がっているのです。
宗教というものに関心がある方々がご覧になると必ずや感動すると信じています。
しかし宗教と芸術は別です。安易に宗教的な題材をとった芸術作品ほどつまらないものはありません。
でも舟越保武の彫刻は「安易」とはかけ離れた精神に裏打ちされているのです。ですから彼の彫刻から宗教性を取り去っても、その芸術的な美しさは強く人々の胸を打ちます。優れた芸術作品なのです。
舟越保武の彫刻で一番有名なのは長崎にある26人の聖人像でしょう。私はカトリックなのでこの26聖人像に関して書き出したらキリがありません。しかしそれは止めます。しかし、一つだけ書かせてください。
この26人は長崎の刑場で並んで処刑されました。そして彼らはこの世から天国に昇ったのです。その昇り始める瞬間の26人の表情と足を描いているのです。足が地面を離れ宙に浮いています。足が垂れて、下がっています。表情は26人ぞれぞれ違います。処刑した人が何も分からずにしたことと信じ、悲しそうに許している表情です。
しかし昨日見たデッサンでは足が地についていました。
さて宗教抜きの話にします。聖クララの顔と普通の少女の顔だけの彫刻を比べてみます。信仰に確信を持っている表情と、これからの人生に不安を感じている少女の顔がそれぞれに分かりやすく表現してあるのです。冷たい石の彫刻が生きている人間の顔になっています。
釧路市の幣舞橋に飾ってある「道東の四季-春-」という女人像も冬の寒さが厳しい北海道にやっと春が来た喜びが表現してあります。
そして金色の「たつこ姫」の像もあります。私も何度も秋田県の田沢湖に行きました。神秘的な湖の上にこの金色の像が立っています。
舟越保武の彫刻とは知らなかったのでその金色の像を見るたびに目をそむけてしまいました。まがまがしい金ぴかの像を真面目に見る気持ちにならなかったのです。観光客向けの醜悪なものが置いてあると思っていたのです。それは私の偏見でした。芸術的な像は黒いブロンズであるべきという思い込みでした。金ぴかの像など芸術作品ではないという偏見でした。恥ずかしいです。
添付の写真では以上で感想を書いた作品を順に示しました。
それはさておき今回の練馬区美術館では舟越保武の彫刻の「原の城」、「病醜のダミアン」、」、「聖セシリア」、「聖マリア・マグダレナ」、「ペトロ岐部神父の立像」など主な作品がほとんどすべて展示してあります。舟越保武の彫刻の世界の全てが展示されているのです。多くは彼の出身地の岩手県の県立美術館の収蔵品です。
岩手県は石川啄木や宮沢賢治を生んだ土地です。昨日の展示品にも啄木の彫刻がありました。
この展示会は今週の6日(日曜日)まで開催中です。今日は月曜日で休館ですが、明日以降、6日まで是非お出掛けになっては如何でしょうか。池袋駅から武池袋線に乗ってすぐの中村橋を下車すると美術館は北口の前にあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)














===彫刻家、舟越保武の紹介========
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9F%E8%B6%8A%E4%BF%9D%E6%AD%A6より抜粋です。
舟越 保武(ふなこし やすたけ、1912年12月7日 - 2002年2月5日)は佐藤忠良と共に戦後日本を代表する彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。東京藝術大学名誉教授。文化学院出身で画家の妻道子との間に子供6人。次男の舟越桂や三男の舟越直木も彫刻家として活躍。
生涯
1912年、岩手県二戸郡一戸町小鳥谷生まれ。父親が熱心なカトリック信者だった。県立盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)在学中(同期に松本俊介)に高村光太郎訳の「ロダンの言葉」に感銘を受け、彫刻家を志す。
1939年 東京美術学校(後の東京藝術大学)彫刻科を卒業。このとき出会った佐藤忠良とは終生の友情を培うことになり、二人は戦後の日本彫刻界を牽引していく。卒業後、独学で石彫をはじめ、数々の作品を発表して注目される。1950年、長男が生まれて間もなく急死したのを機に、自らも洗礼を受けてカトリックに帰依、キリスト教信仰やキリシタンの受難を題材とした制作が増える。
1967年から1980年の間、東京芸術大学教授を務める。その後、多摩美術大学教授を務めた。1986年、東京芸術大学名誉教授に。1987年、脳梗塞で倒れ、右半身が不自由になったが、すぐにリハビリを開始。死の直前まで左手で創作を続けた。2002年2月5日、多臓器不全で死去。89歳だった。
主な作品と受賞歴
1962年 「長崎26殉教者記念像」で高村光太郎賞。
1972年 島原の乱に着想を得た「原の城」で中原悌二郎賞
1973年 「原の城」でパウロ6世より大聖グレゴリオ騎士団長勲章受章。
1975年 「病醜のダミアン」(ダミアン神父をモデルにした作品。)
1977年 「道東の四季-春-」(釧路市の幣舞橋)で長谷川仁記念賞。
1978年 芸術選奨文部大臣賞
1983年 エッセイ『巨岩と花びら』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。
1984年 勲四等旭日小綬章受章
1999年 文化功労者顕彰。
2002年 叙・従四位、賜・銀杯一組
ほかにも「聖クララ」、「聖セシリア」、「聖マリア・マグダレナ」、「たつ子像」(田沢湖畔に設置)、「ペトロ岐部神父の立像」などがある。
=====舟越保武彫刻展 まなざしの向こうに」========
東京都練馬区立美術館
開催日:2015/7/12 (日) ~ 2015/9/6 (日) 、月曜日は休館日ですからご注意下さい。
開館30周年記念「舟越保武彫刻展 まなざしの向こうに」