後藤和弘のブログ

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アジアの運命を変える中台首脳会談・・・第三の国共合作か?

2015年11月08日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日シンガポールで行われた中国共産党主席、習近平と台湾の国民党の総統、馬英九の会談は東アジア地域の将来の運命を決める歴史的な会談と言えます。このことはこれまでの国民党と共産党の歴史を知ればごく自然な考え方と思います。
私はすぐに1937年の国共合作による抗日戦争の激化を思い出しました。
中国の毛沢東の共産党と蒋介石の国民党とが協力しあって日本軍を打ち負かす目的で第二次国共合作協定を西安で作ったのです。私はそれを思い出したのです。
今回の中台会談は1949年に共産党が国民党を台湾へ追い落としてから実に66年ぶりの直接的な交渉なのです。
あれ以来いろいろなことが起きました。
金門島、馬そ島への共産党軍の連日の砲撃と国民党の激しい反撃も長期間続きました。
台湾に来た国民党がその独裁政治に反対した台湾の人々を大虐殺した事件もありました。
そして蒋介石とその息子の国民党独裁による台湾の安定と経済発展があったのです。その間におけるアメリカの援助の歴史もありました。
それは厳しい冷戦構造の歴史でした。
しかしソ連の崩壊後も台湾海峡の緊張は続いたのです。海峡で共産党軍の大規模な演習があり、アメリカはその牽制のため航空母艦を主にする艦隊を台湾海峡に派遣しました。
そのような歴史を知っている高齢者にとって今回の平和的な会談は感慨無量だったと思います。
特に世界中に住んでいる中国人にとっては心の慰めを感じたことと思います。
会談では中国大陸も台湾も一つの中国だと再確認されたのです。そして「一つの中国」の解釈は双方の自由だと確約されたのです。
大陸も台湾も文化的には一つだという意味もあります。そして経済的にも協力し合って経済圏としては一つになろうと言う意味でもあります。しかし一方、台湾と大陸の双方の好戦的な人々が武力による統一を夢見る自由も認めたのです。大人の智慧だけが武力衝突を回避出来るのです。
共産党独裁が続く限り平和的な話し合いで大陸と台湾が一つになることは絶対に不可能です。
昔の第一次、第二次国共合作によって、国民党と共産党の2つの軍隊が協力しあって日本を打ち負かせたのとは全く事情が違うのです。
今回の会談は武力で協力し、同じ戦線を戦うものではありません。
しかし太平洋の覇権を握ろうとする中国に対するアメリカの勢いをそぐことになるのは明らかです。
経済的には韓国も台湾も中国にかなり取り込まれてしまっています。そして今回台湾も心理的には中国側に引き寄せられたのです。
これで南沙諸島の問題で中国側はかなり有利になったのです。南沙諸島が完全に中国の手中に落ちれば日本への原油輸送も危険になるのです。
台湾の来年の選挙では大陸から移住してきた人を主流とする国民党の苦戦が予想されています。台湾人を主にする民進党が政権をとる勢いです。そうなれば中国との関係は習近平主席の思うようには進みません。なにせ民進党は一つの中国には反対で、台湾の独立を叫んでいるのですから。
中国大陸と台湾の関係は日本の将来、東アジアの将来に大きな影響があるのです。
習近平の外交力に日本の外交は押され気味なのが心配です。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考文献============
国共合作の歴史

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%B1%E5%90%88%E4%BD%9C
第一次国共合作
第一次国共合作は、軍閥および北京政府に対抗する共同戦線であった。国民党は1924年1月20日、広東で開催した第一次全国代表大会で、綱領に「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、第一次国共合作が成立した。中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を取った。
1925年孫文が死去し、1926年に中山艦事件で蒋介石が共産党員を拘束するなどの軋轢があったが、その後国民革命軍総司令官になって実権を握った蒋介石が同年北伐を開始し、1927年に南京に国民政府が成立。1927年4月の上海クーデターによって国共合作は事実上崩壊。7月13日、中国共産党は対時局宣言を発し第一次国共合作の終了を宣言、国共内戦に突入した。
第二次国共合作
西安事件後を契機に壊滅寸前の共産党は、コミンテルンの方針もあり国民党との合作に活路を見つけようとした。しかしながら、国民党内の共産党不信は根強く合作の交渉を捗らなかった。それに対し、北京盧溝橋事件と上海で起きた日本軍との軍事的衝突の矢面に立たされた蒋介石国民政府は、ソ連との中ソ不可侵条約締結と共産党の合法化による共産主義勢力との連携で難局の打開を試みた。

張学良による西安事件
張作霖の子で満州を追われていた軍閥・張学良は、1936年12月に共産党の取締りに対する協力を求めて西安を訪問した蒋を軍隊の動員によって西安に抑留した(西安事件)。張学良の目的は種々諸説あるが、蒋介石に代わって権力を握ろうとし、共産党はその張学良を利用したとの説が有力である。最終的にはコミンテルンの介入で、国共合作の方針が通された。蒋は合作の方針を受諾し、西安を訪問した中国共産党代表の周恩来との会談を通じてこれを公式に宣伝した後に共産党軍を「国民党所属第八路軍」として中華民国軍に組み入れ、ここに第二次国共合作が成立した。