埼玉県の川越市には時々行きます。これといった目的は無いのですが町のたたずまいが戦前の町のようなのです。関東地方では珍しくアメリカ軍の空襲を一切受けなかったので戦前の日本の町がそのまま残ったのです。
川越の歴史を書けば長くなります。なにせ縄文時代から人が住んでいたのですから。長い歴史は末尾の参考資料にあります。地方史のに興味のある方はご覧下さい。
簡略に書けば、戦国時代に江戸城作った太田道灌が川越城をつくり現在の街並みが生まれたのです。
その後は小田原の北条一族の支配下になり、そして北条一族も秀吉の軍勢によって一瞬にして消えてしまいます。
徳川の世になると川越藩という幕府の直轄領になります。
直轄藩なので藩主は幕府から派遣される幕閣が就任します。ですから城主は短期間で交代してきたのです。
川越は新河岸川から墨田川へと船で江戸と結ばれていて物流が盛んでした。城主が江戸から来るので自然に小規模な江戸の町が出来てきたのです。
そのせいで現在の川越市は小江戸とも呼ばれ江戸の町の雰囲気が残っています。
しかし川越は何度も大火に見舞われました。大火の被害を少なくするために火災に強い蔵造りにして家を建てました。
現在残っている商店街は明治26年の大火の後に出来た蔵造りの商店街です。
その商店街を散歩したり川越城の本丸御殿や名刹の喜多院を訪ねるために幾度となく訪れています。文政年間創業の古いウナギ屋もあります。
昨日は久しぶりに車を駆って出掛けてきました。それでは昨日撮った写真を示します。
上の写真は中心部にある「時の鐘」の塔です。情緒あふれる蔵造りの町並みにひときわ高くそびえるのがこの川越のシンボル「時の鐘」です。
江戸時代初頭から城下の町に時を告げてきた時計台です。
約400年前、川越藩主だった酒井忠勝によって創建されました。火災で鐘楼や銅鐘が焼失して、度々建て替えられてきたのです。
現在建っているのは4代目で、明治26年に起きた川越大火直後に再建されたものだそうです。
木造3層のやぐらで高さは約16メートルあり、1日4回鳴り、鐘の音を小江戸川越の町へ響かせています。
上の写真の蔵造りの商店も明治26年以後に作られました。後ろの大きな建物は明治時代に作られたレンガ建ての銀行です。
上の写真も蔵造りの商店です。ぶ厚い壁の厚さが火災の火を防ぎ内部の商品を守るのです。
上の写真は蔵造りではありませんが、明治期の商店のたたずまいです。写真の左に自宅に入る門がついています。この写真を見るとこの店は左半分を切って住宅を広く作った様子です。
上の写真は横丁に面した家の昔風な玄関です。川越のイモ羊羹で抹茶を楽しみながら向かいに見えたこの古風な玄関の写真を撮ったものです。
昨日は昼過ぎに家を出たので時間が無くて川越城の御殿も菓子屋横丁も喜多院も見ないで帰ってきました。
帰る車を運転しながら何故川越に何度も行くのか考えていました。理由は懐旧の情をかきたてられるからです。
老境に至ると父母は勿論、私を大切にしてくれた人が次々とゐなくなります。幼な友達も次々とゐなくなります。気がついてみると私を知っている人は誰もいないのです。
家内と子供や孫は残っていますが彼らは私の幼少のころや少年だった頃のことは知っていません。
知っている人がみんな、みんないなくなったのです。淋しいです。これが老境の淋しさというのもでしょうか?私は時々しみじみと寂寥感に襲われます。
そんな折に川越に行くのです。町が戦前、戦後の私の育った昔の仙台市に似ているのです。
川越の町をなんとなく歩いていると亡くなった人々に会えるような錯覚を覚えるのです。錯覚と知りながらも楽しいのです。
私はそのうちまた川越に行きたくなると思います。そんな町が近くにあることは幸せなことです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料:川越の歴史===========
原始・古代
http://www.kawagoe-rekishi.com/info/reki.html
大昔、川越一帯は市の南東部まで遠浅の海でした。縄文時代にはすでに人々が生活し、植物採取や狩猟・漁労などが行われ、弥生時代になると稲作が行われてムラが形成されました。市内では貝塚や古代の住居跡も見つかっています。
その後大陸からの文化が伝わり、農業の生産性も向上していきます。これにより階層が生まれ、古墳が築かれます。
古墳時代を経て奈良時代・平安時代になると荘園が形つくられ、河越・仙波などの武蔵武士が支配する時代に移りました。この時代は入間川西岸地域は三芳野の里(豊かな美しい土地の意味)とも呼ばれ、伊勢物語などでも歌われています。 中世
平安時代から鎌倉時代にかけて武士の荘園支配が進みます。川越の名前の由来ともいわれている河越氏は鎌倉幕府の御家人として力を持っていき、河越太郎重頼の娘は源義経の正妻とまでなります。しかしながら源頼朝と義経の不和により悲しい結末を迎えました。その後河越一族は再び盛り返しますが、平一揆の乱で失敗し滅亡します。
後に現れた上杉持朝は川越一帯を治め、家臣の大田道真・道灌の父子に川越城を築かせます。初雁城とも呼ばれた美しい城は城下に町を広げながら発展していきます。その後、小田原氏・北条氏の支配下におかれますが、北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされました。
近世
天正18年(1590)関東への移ってきた徳川家康の支配に伴い、川越藩が置かれました。江戸幕府は川越を江戸の北の守りとして重要視し、有力な大名を配置しました。また大名のひとり松平信綱は城下町を整備し、舟運(しゅううん)を起こして江戸との物流を活発にさせます。この舟運は新河岸川から墨田川へと伸び、浅草に物資を運んだあと、帰りの便では川越に江戸の最新の文化を持ち帰ります。こうして商人の町としての川越は小江戸と呼ばれ幕末までにぎわいました。 近・現代
明治になっても川越は商業都市として繁栄しつづけます。
穀物流通の中継地として、たんすや織物の生産地として発展しました。川越唐桟(とうざん)織は粋な織物として江戸で人気になりました。また、川越はまた幾度となく火事にあっています。明治26年(1893)の大火では町の3分の1を焼き、そのとき川越商人は耐久性を備えた蔵づくりに着目しました。今も残る蔵づくりの町並みはその時、財力を投資してつくられた土蔵造りの店舗の名残りです。
最近では、大正11年に埼玉県ではじめて市制を施工し、現在川越は首都圏近郊の中核都市として発展しています。
川越の歴史を書けば長くなります。なにせ縄文時代から人が住んでいたのですから。長い歴史は末尾の参考資料にあります。地方史のに興味のある方はご覧下さい。
簡略に書けば、戦国時代に江戸城作った太田道灌が川越城をつくり現在の街並みが生まれたのです。
その後は小田原の北条一族の支配下になり、そして北条一族も秀吉の軍勢によって一瞬にして消えてしまいます。
徳川の世になると川越藩という幕府の直轄領になります。
直轄藩なので藩主は幕府から派遣される幕閣が就任します。ですから城主は短期間で交代してきたのです。
川越は新河岸川から墨田川へと船で江戸と結ばれていて物流が盛んでした。城主が江戸から来るので自然に小規模な江戸の町が出来てきたのです。
そのせいで現在の川越市は小江戸とも呼ばれ江戸の町の雰囲気が残っています。
しかし川越は何度も大火に見舞われました。大火の被害を少なくするために火災に強い蔵造りにして家を建てました。
現在残っている商店街は明治26年の大火の後に出来た蔵造りの商店街です。
その商店街を散歩したり川越城の本丸御殿や名刹の喜多院を訪ねるために幾度となく訪れています。文政年間創業の古いウナギ屋もあります。
昨日は久しぶりに車を駆って出掛けてきました。それでは昨日撮った写真を示します。
上の写真は中心部にある「時の鐘」の塔です。情緒あふれる蔵造りの町並みにひときわ高くそびえるのがこの川越のシンボル「時の鐘」です。
江戸時代初頭から城下の町に時を告げてきた時計台です。
約400年前、川越藩主だった酒井忠勝によって創建されました。火災で鐘楼や銅鐘が焼失して、度々建て替えられてきたのです。
現在建っているのは4代目で、明治26年に起きた川越大火直後に再建されたものだそうです。
木造3層のやぐらで高さは約16メートルあり、1日4回鳴り、鐘の音を小江戸川越の町へ響かせています。
上の写真の蔵造りの商店も明治26年以後に作られました。後ろの大きな建物は明治時代に作られたレンガ建ての銀行です。
上の写真も蔵造りの商店です。ぶ厚い壁の厚さが火災の火を防ぎ内部の商品を守るのです。
上の写真は蔵造りではありませんが、明治期の商店のたたずまいです。写真の左に自宅に入る門がついています。この写真を見るとこの店は左半分を切って住宅を広く作った様子です。
上の写真は横丁に面した家の昔風な玄関です。川越のイモ羊羹で抹茶を楽しみながら向かいに見えたこの古風な玄関の写真を撮ったものです。
昨日は昼過ぎに家を出たので時間が無くて川越城の御殿も菓子屋横丁も喜多院も見ないで帰ってきました。
帰る車を運転しながら何故川越に何度も行くのか考えていました。理由は懐旧の情をかきたてられるからです。
老境に至ると父母は勿論、私を大切にしてくれた人が次々とゐなくなります。幼な友達も次々とゐなくなります。気がついてみると私を知っている人は誰もいないのです。
家内と子供や孫は残っていますが彼らは私の幼少のころや少年だった頃のことは知っていません。
知っている人がみんな、みんないなくなったのです。淋しいです。これが老境の淋しさというのもでしょうか?私は時々しみじみと寂寥感に襲われます。
そんな折に川越に行くのです。町が戦前、戦後の私の育った昔の仙台市に似ているのです。
川越の町をなんとなく歩いていると亡くなった人々に会えるような錯覚を覚えるのです。錯覚と知りながらも楽しいのです。
私はそのうちまた川越に行きたくなると思います。そんな町が近くにあることは幸せなことです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料:川越の歴史===========
原始・古代
http://www.kawagoe-rekishi.com/info/reki.html
大昔、川越一帯は市の南東部まで遠浅の海でした。縄文時代にはすでに人々が生活し、植物採取や狩猟・漁労などが行われ、弥生時代になると稲作が行われてムラが形成されました。市内では貝塚や古代の住居跡も見つかっています。
その後大陸からの文化が伝わり、農業の生産性も向上していきます。これにより階層が生まれ、古墳が築かれます。
古墳時代を経て奈良時代・平安時代になると荘園が形つくられ、河越・仙波などの武蔵武士が支配する時代に移りました。この時代は入間川西岸地域は三芳野の里(豊かな美しい土地の意味)とも呼ばれ、伊勢物語などでも歌われています。 中世
平安時代から鎌倉時代にかけて武士の荘園支配が進みます。川越の名前の由来ともいわれている河越氏は鎌倉幕府の御家人として力を持っていき、河越太郎重頼の娘は源義経の正妻とまでなります。しかしながら源頼朝と義経の不和により悲しい結末を迎えました。その後河越一族は再び盛り返しますが、平一揆の乱で失敗し滅亡します。
後に現れた上杉持朝は川越一帯を治め、家臣の大田道真・道灌の父子に川越城を築かせます。初雁城とも呼ばれた美しい城は城下に町を広げながら発展していきます。その後、小田原氏・北条氏の支配下におかれますが、北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされました。
近世
天正18年(1590)関東への移ってきた徳川家康の支配に伴い、川越藩が置かれました。江戸幕府は川越を江戸の北の守りとして重要視し、有力な大名を配置しました。また大名のひとり松平信綱は城下町を整備し、舟運(しゅううん)を起こして江戸との物流を活発にさせます。この舟運は新河岸川から墨田川へと伸び、浅草に物資を運んだあと、帰りの便では川越に江戸の最新の文化を持ち帰ります。こうして商人の町としての川越は小江戸と呼ばれ幕末までにぎわいました。 近・現代
明治になっても川越は商業都市として繁栄しつづけます。
穀物流通の中継地として、たんすや織物の生産地として発展しました。川越唐桟(とうざん)織は粋な織物として江戸で人気になりました。また、川越はまた幾度となく火事にあっています。明治26年(1893)の大火では町の3分の1を焼き、そのとき川越商人は耐久性を備えた蔵づくりに着目しました。今も残る蔵づくりの町並みはその時、財力を投資してつくられた土蔵造りの店舗の名残りです。
最近では、大正11年に埼玉県ではじめて市制を施工し、現在川越は首都圏近郊の中核都市として発展しています。