昨日、新橋のパナソニック汐留ミュージアムで開催中の『マティスとルオー展』を見てきました。
マティスとルオーは同じ師匠、ギュスターヴ・モローのもとで絵画を習った同門の友人でした。
二人は敬虔なクリスチャンであったと言います。
従ってキリスト教は彼等に深い影響を与えたと考えられます。特にルオーはステンドグラスの職人の父を持ち、数多くのキリストの姿を描いた絵画を残しました。彼を宗教画家と呼ぶ人が多いくらいです。
しかし彼等の信仰心はどうだったのでしょうか?その信仰心はマティスとルオーの絵画にどのような影響を与えたのでしょうか?
結論を先にか書けばマティスの場合は直接的には影響を与えなかったと言えます。一方、ルオーの場合は自分の信仰心を強めるために数多くの宗教画を描いたと考えられます。
宗教と芸術は別です。宗教に寄り掛かった絵画は芸術性がそがれると言います。今日はこの問題を考えてみます。マティスとルオーの二人を例にして考えてみます。
一見キリスト教的な絵画を多くは描かなかったマティスは晩年に礼拝堂の内装デザインをしました。
一方、ルオーはキリストの姿を描いた数多くの絵画を残しています。
従って彼等二人の心には時々キリスト教への想いが湧き上がっていたことは疑いがありません。
それではキリスト教の信仰とマティスとルオーの絵画の関係とはどのようなものだったのでしょうか?
人間の行為は全て神が司るという教条的な書き方にすれば、二人の絵は神に従って彼等の信仰心が描かせたことになります。しかしこの書き方はあまりにも抽象的過ぎて理解に苦しみます。
そこで次のように書けば納得しやすいのではないでしょうか?
マティスとルオーは絵画を描きながらイエスや神のことを思い出していたのです。そして疑いながら信じようとしていた自分の信仰心を励ますためにルオーはキリストの絵を幾枚も書いたのです。
一方、マティスはキリストの絵を描きません。しかし美しい絵を完成するたびに神が自分に与えてくれた絵の才能に感謝していた筈です。それがマティスの信仰心だったに違いありません。そのことは彼が晩年に礼拝堂の内装や祭服のデザインに情熱を捧げていることで推定出来ます。
明快に書けば、マティスとルオーの絵画は彼等の独創的な才能の産物であります。キリスト教と無理に結びつけるのは間違っているかも知れません。しかし彼等二人は時々イエスや神を信じようとしていたのです。彼等の信仰心が絵を描くことを支えたに違いありません。
彼の精神活動の中では絵を描くこと、イエスや神へ対する愛、そして妻や子供などに対する愛があったのです。
彼等が交換した手紙の翻訳を見ると政治や社会問題に関しては一切何も書いていません。絵を描くことのいろいろな問題と自分の病気のこと、そして家族のことしか書いてありません。
それでは何枚かの彼等の絵を見てみましょう。
1番目の写真の絵はマティスの傑作と言われている絵です。人間が手をつないで踊っています。人間賛歌のような絵に見えます。
2番目の写真はマティス作マグノリアの花の絵です。丁寧に描き込んだ静物の色彩が深い芸術性を感じさせます。キリスト教との関係はありません。
3番目の写真は晩年にマティスが作った礼拝堂の窓のステンドグラスの写真です。
彼は晩年、南仏ヴァンスのドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の内装デザインや祭服のデザインに5年間の情熱を捧げます。この礼拝堂はマティス芸術の集大成とされ、切り紙絵をモチーフにしたステンドグラスや、白タイルに黒の単純かつ大胆な線で描かれた聖母子像などは、20世紀キリスト教美術の代表作と言われています。ですから宗教画をあまり描かなかったマティスの信仰心が晩年に作品として現れたのでしょう。
4番目の写真はルオーの描いたキリストの姿です。彼は同じような絵を何枚も描いています。彼の信仰心が描かせたのが数多くの宗教画です。
5番目の写真は日本にあるジョルジュ・ルオー記念館の礼拝堂の写真です。
山梨県の北杜市の清春芸術村に吉野画廊によって建てられた礼拝堂です。私の山の家の近くにあり、静かなたたずまいに惹かれて何度も訪れています。
入口の扉の上には、ルオーがエベール・ステヴァンのアトリエで制作したルオーステンドグラス「ブーケ(花束)」があります。祭壇背後のキリスト像(17世紀)は、ルオー自身が彩 色したものです。この像は、ルオーの次女イザベル・ルオーから贈られたものです。堂内の壁面 にはルオーの銅版画「ミセレーレ」が掲げられています。建築設計者は美術館と同じく谷口吉生氏です。
以上のような説明の通り、キリスト教はマティスとルオーの絵画の独創性そのものには何も影響を与えていないとも考えられます。
しかし他のクリスチャンと同様に疑いつつも信じようとしていた彼等の信仰心がキリストの絵や礼拝堂のステンドグラスを作ったのです。
宗教を信じている人の信仰心では、皆疑いつつも信じようとしているのです。最近、ご紹介した「沈黙ーサイレンスー」の映画監督のスコセッシ監督も熱心なカトリック信者です。彼も「私は疑いつつも信じようとしています」と明記しています。彼は自分の信仰を強めるためにもこの映画に何年もの情熱を注いだに違いありません。
同様なことは仏教を信じている人々の心の中に見え隠れする心象風景です。
さて上記ではマティスとルオーの絵画に対する私の感想を書きませんでしたので追記したいと存じます。
マティスの絵画は色彩が豊かで装飾的でもありますが、優しさがあります。芸術性もあります。明るく洗練された美しさです。私自身はルオーの宗教画より好きです。
ルオーの絵はステンドグラスの模様のように輪郭線が太く情熱を感じさせます。しかし何故か土俗的な雰囲気があります。民族芸術がお好きな方は感動するでしょうが、私の好みではありません。
しかし何故か日本人はルオーの絵が好きらしく彼の絵が日本に沢山あります。
例えばパナソニック東京汐留美術館は別名、ルオー美術館と称するようにルオーの絵を多数所有しています。
また山梨県の北杜市の清春美術館にはルオーの宗教画が数十枚あります。
何故、日本人がルオーの宗教画が好きなのか私には理解出来ません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
マティスとルオーは同じ師匠、ギュスターヴ・モローのもとで絵画を習った同門の友人でした。
二人は敬虔なクリスチャンであったと言います。
従ってキリスト教は彼等に深い影響を与えたと考えられます。特にルオーはステンドグラスの職人の父を持ち、数多くのキリストの姿を描いた絵画を残しました。彼を宗教画家と呼ぶ人が多いくらいです。
しかし彼等の信仰心はどうだったのでしょうか?その信仰心はマティスとルオーの絵画にどのような影響を与えたのでしょうか?
結論を先にか書けばマティスの場合は直接的には影響を与えなかったと言えます。一方、ルオーの場合は自分の信仰心を強めるために数多くの宗教画を描いたと考えられます。
宗教と芸術は別です。宗教に寄り掛かった絵画は芸術性がそがれると言います。今日はこの問題を考えてみます。マティスとルオーの二人を例にして考えてみます。
一見キリスト教的な絵画を多くは描かなかったマティスは晩年に礼拝堂の内装デザインをしました。
一方、ルオーはキリストの姿を描いた数多くの絵画を残しています。
従って彼等二人の心には時々キリスト教への想いが湧き上がっていたことは疑いがありません。
それではキリスト教の信仰とマティスとルオーの絵画の関係とはどのようなものだったのでしょうか?
人間の行為は全て神が司るという教条的な書き方にすれば、二人の絵は神に従って彼等の信仰心が描かせたことになります。しかしこの書き方はあまりにも抽象的過ぎて理解に苦しみます。
そこで次のように書けば納得しやすいのではないでしょうか?
マティスとルオーは絵画を描きながらイエスや神のことを思い出していたのです。そして疑いながら信じようとしていた自分の信仰心を励ますためにルオーはキリストの絵を幾枚も書いたのです。
一方、マティスはキリストの絵を描きません。しかし美しい絵を完成するたびに神が自分に与えてくれた絵の才能に感謝していた筈です。それがマティスの信仰心だったに違いありません。そのことは彼が晩年に礼拝堂の内装や祭服のデザインに情熱を捧げていることで推定出来ます。
明快に書けば、マティスとルオーの絵画は彼等の独創的な才能の産物であります。キリスト教と無理に結びつけるのは間違っているかも知れません。しかし彼等二人は時々イエスや神を信じようとしていたのです。彼等の信仰心が絵を描くことを支えたに違いありません。
彼の精神活動の中では絵を描くこと、イエスや神へ対する愛、そして妻や子供などに対する愛があったのです。
彼等が交換した手紙の翻訳を見ると政治や社会問題に関しては一切何も書いていません。絵を描くことのいろいろな問題と自分の病気のこと、そして家族のことしか書いてありません。
それでは何枚かの彼等の絵を見てみましょう。
1番目の写真の絵はマティスの傑作と言われている絵です。人間が手をつないで踊っています。人間賛歌のような絵に見えます。
2番目の写真はマティス作マグノリアの花の絵です。丁寧に描き込んだ静物の色彩が深い芸術性を感じさせます。キリスト教との関係はありません。
3番目の写真は晩年にマティスが作った礼拝堂の窓のステンドグラスの写真です。
彼は晩年、南仏ヴァンスのドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の内装デザインや祭服のデザインに5年間の情熱を捧げます。この礼拝堂はマティス芸術の集大成とされ、切り紙絵をモチーフにしたステンドグラスや、白タイルに黒の単純かつ大胆な線で描かれた聖母子像などは、20世紀キリスト教美術の代表作と言われています。ですから宗教画をあまり描かなかったマティスの信仰心が晩年に作品として現れたのでしょう。
4番目の写真はルオーの描いたキリストの姿です。彼は同じような絵を何枚も描いています。彼の信仰心が描かせたのが数多くの宗教画です。
5番目の写真は日本にあるジョルジュ・ルオー記念館の礼拝堂の写真です。
山梨県の北杜市の清春芸術村に吉野画廊によって建てられた礼拝堂です。私の山の家の近くにあり、静かなたたずまいに惹かれて何度も訪れています。
入口の扉の上には、ルオーがエベール・ステヴァンのアトリエで制作したルオーステンドグラス「ブーケ(花束)」があります。祭壇背後のキリスト像(17世紀)は、ルオー自身が彩 色したものです。この像は、ルオーの次女イザベル・ルオーから贈られたものです。堂内の壁面 にはルオーの銅版画「ミセレーレ」が掲げられています。建築設計者は美術館と同じく谷口吉生氏です。
以上のような説明の通り、キリスト教はマティスとルオーの絵画の独創性そのものには何も影響を与えていないとも考えられます。
しかし他のクリスチャンと同様に疑いつつも信じようとしていた彼等の信仰心がキリストの絵や礼拝堂のステンドグラスを作ったのです。
宗教を信じている人の信仰心では、皆疑いつつも信じようとしているのです。最近、ご紹介した「沈黙ーサイレンスー」の映画監督のスコセッシ監督も熱心なカトリック信者です。彼も「私は疑いつつも信じようとしています」と明記しています。彼は自分の信仰を強めるためにもこの映画に何年もの情熱を注いだに違いありません。
同様なことは仏教を信じている人々の心の中に見え隠れする心象風景です。
さて上記ではマティスとルオーの絵画に対する私の感想を書きませんでしたので追記したいと存じます。
マティスの絵画は色彩が豊かで装飾的でもありますが、優しさがあります。芸術性もあります。明るく洗練された美しさです。私自身はルオーの宗教画より好きです。
ルオーの絵はステンドグラスの模様のように輪郭線が太く情熱を感じさせます。しかし何故か土俗的な雰囲気があります。民族芸術がお好きな方は感動するでしょうが、私の好みではありません。
しかし何故か日本人はルオーの絵が好きらしく彼の絵が日本に沢山あります。
例えばパナソニック東京汐留美術館は別名、ルオー美術館と称するようにルオーの絵を多数所有しています。
また山梨県の北杜市の清春美術館にはルオーの宗教画が数十枚あります。
何故、日本人がルオーの宗教画が好きなのか私には理解出来ません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)