後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

私が聞いたベトナム戦争にまつわる敵味方双方の4つのエピソード

2017年03月05日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は「ベトナムを天皇陛下と美智子皇后は何故訪問したか?」と題した記事を掲載しました。
その書き出しは次のようなものでした。
・・・今回の天皇と皇后のベトナム訪問を唐突に感じた人は多いと思います。
現在、ベトナムと早急に友好を促進する理由もありません。懸案の問題もありません。
しかし私は1940年に仏領インドシナと呼ばれていたベトナムを日本軍が占領して以来の歴史を思い返し、天皇の退位の前に訪問されたことは大変良かったと考えています。
ベトナムは戦後、終始一貫して日本を尊敬し友好的な国だったのです。
それは戦後、ベトナム独立のためのフランス軍との戦争のときに多くの残留日本兵がベトナム軍に義勇兵とした参加したからです。そしてグエンザップ将軍が率いるベトナム軍がディエンビンフーでの戦いで勝利し、フランス軍が降伏したのです。ベトナム人は日本の義勇兵のことを忘れませんでした。
今回の天皇と皇后は日本の義勇兵の奥さんだった女性とその子供達と直接お会いし、「いろいろご苦労なさったことでしょう」とねぎらったのです。勿論、その会見を準備したのはベトナム政府です。
私は1990年代のはじめにこのような残留日本兵の2人に直接会い、話を聞いたことがあります。そしてベトナムに残留して銀行制度を作った日本人の話しも直接聞きました。その方はもと横浜正金銀行に幹部社員として勤めていた方でした。・・・・以下省略。

そこで今日はベトナム戦争にまつわるエピソードを4つ書きたいと思います。この4つのエピソードは敵味方双方から直接聞いた話です。みなベトナムやアメリカや北京で直接聞いたことです。それは日本の新聞やマスコミでは報道されなかったことです。
当時、日本では「ベ平連」などの反戦運動が盛んで、朝日新聞などの大新聞の戦争の取り上げ方はアメリカ帝国主義のせいで戦争が起き、社会主義国家は平和主義であるという、恐ろしく単純すぎる見方でした。それに合致しないエピソードは取り上げません。

敵味方双方から直接聞いた4つのエピソードとは以下の通りです。

(1)爆弾に書かれた日本語ーアジア人の血を流したくない日本人より。
1986年、ベトナムがドイモイ開放政策を導入した後、同国は日本の多額の政府開発援助(ODA)で工場特区開発や高速道路建設を進めた。
1993年、ハノイ市郊外の高速道路予定地を訪れた際、ベトナム戦争時ハノイ防空隊長をしていたチュウ氏が案内してくれた。丘陵の頂に立ち、「ここから東の方向、10キロ先にハノイの中心街が見えますね。この間の畑に四車線の高速道路を建設します。測量が終わったところです」と説明してくれた。
「アメリカの戦闘機はハノイを低空で攻撃した後、真っ直ぐこの高速度道路予定地を飛んできました。ちょうどこの丘陵の上で上昇反転して、またハノイ市街攻撃に戻ります。その時速度が落ちますから、そこを機関砲で打ち上げるとよく当たったものです」。説明するチュウ氏の顔が生き生きする。機関砲を打つ仕草もする。
ベトナム戦争当時は日本でも反戦運動が盛んで、「ベ平連」などが米軍の脱走兵の手引きをし中立国へ送り込んでいた。その話をすると、チュウ氏は「ベ平連のことは知りませんが、そういう団体が世界の各国にあったという噂は聞いていました。しかし、ベトナム人にとって一番感動したことはアメリカ空軍機が投下した時限爆弾の胴体の文字でした。はじめはどこの国の文字か分かりませんでしたが、そのうち日本語と分かりました」
チュウ氏の目が遠いところを見ている。「日本語でこうありました。『これは不発弾ではない!!時限爆弾である!!専門処理兵以外近づかない事!!!――アジア人の血を流したくない日本人より』」。
さらに説明を続ける。「この文字は米空軍が日本の軍事飛行場で時限爆弾を搭載する直前に日本人作業員が白のマジックペンで書き込んだと考えられる。時限爆弾の全てに書いてあるのではない。ただ、筆跡から五人以上の違う人間が書いていた」
この事実は新聞には出なかったが、口コミでベトナム全土へ広まった。新聞に出せば、日本人作業員が米空軍に逮捕・処罰されるからである。チュウ氏はさらに「フランス軍相手の独立戦争のとき、多くの日本兵がベトナム側に参加してくれた。その精神が若い日本人へも繋がっているのに感動した」

(2)韓国兵がベトナムで勇敢に戦ったことにアメリカ人は感動している。
1978年にロサンゼレスで乗ったタクシーの運転手は黒人でベトナム帰りであった。よく喋る男で前線の戦いぶりを振り向いて熱心に話す。
「おれの小隊はいつも韓国兵の小隊と一緒に最前線でベトコンとやりあったよ。ところが韓国兵が素晴らしいのだ。勇気があるだけじゃなく、攻撃してくるベトコンの弱い一角を必ず突く。それでおれの小隊が何回も助けられたよ。戦争慣れしているのだ。夜襲してくるベトコンを必ず追い返す。こちらの小隊長は腰抜けの少尉で、韓国の小隊長の言うことを聞いて動いていたよ。指揮権はアメリカにあるはずだが、前線に出たらそんなこと関係なくなるのさ。負傷兵を背負って帰ってきた韓国兵を見れば、だれでも韓国兵の言うことに従うよ。前線とはそういうものだ」
タクシーを降りる時、「あなたは韓国人ですね。今日のタクシー代金はいりません」と運転手が言う。残念ながら日本人だったので代金を払った。韓国人を褒めてくれたのでチップを多めにして。

(3)ベトナムの難民を一般のアメリカ人が家庭に引き取り、就職先が決まるまで世話をした。
これはオハイオ州立大学のラップ教授の自宅でビールを飲みながら直接聞いた話です。
「ベトナム戦争が正しい戦争だったか否かを君とは議論しない。ただ自分がしたことだけ言うよ」「ベトナム戦争へ何か関係したのですか?」「戦争終了後しばらくして多数のボートピープルが出た。アメリカはそのすべてを移民として受け入れた。自分は7人をこの家に泊めてあげた。彼等は臨時の仕事場を見つけ、数ヵ月後には皆出て行った。アメリカの一般人はみなそうしたよ」「そんな話は日本の新聞には出ていなかったですよ」「日本は何もしないで経済的恩恵のみを取った」「そんな一方的な判断は困りますね。出撃する米軍は皆日本の基地からでした」「ボートピープルが多数出たとき、アメリカやドイツの民間団体が客船をチャーターしてベトナム沖に待機させ、波間に漂う小船の難民を拾い上げた。日本だけ客船を出さなかった」
アメリカやドイツは人道的だが日本人は人道的でないと非難したいらしい。礼儀上そう露骨には言わなかったが。

(4)中国人のベトナム懲罰戦争の奇怪さ。
1985年、北京。知り合いの周教授と五星ビールを飲みながら、こんな話をしたことがある。
「ベトナム戦争が終わった後に、中国軍が北ベトナムを攻撃して北部の三都市を占領した理由を知っていますか?」「軍事作戦のことは日本の新聞にも出ていましたが、その理由は全く出ていません」「十年にわたるベトナム戦争の間、揚子江より南の諸省は食うものも食わずに、食料をホーチーミンルートでサイゴン付近まで送り続けたのです」
「ところが戦争に勝った途端、ベトナム政府は中国の反対を無視してカンボジアへ侵攻、またラオスを攻撃した。カンボジアとラオスを植民地にしようとしたのです。思い上がりもはなはだしいので、懲罰のため北ベトナムを攻撃、三都市を占領したのだ」「懲罰とは穏やかでないですね?」「もう一つの理由は、中国の反対にもかかわらずソ連海軍へダナンなどの港湾の使用を許可したからです」
周教授の説明はいつもの明快さがなくて歯切れが悪い。
ベトナム戦争を支援した中国は戦勝後、ベトナムを思い通りにしようとした。しかし独立心の強いホーチーミンはソ連の支援を使い中国から距離を置こうとした。中ソ関係は1959年以来悪化していた。中国はカンボジアを支援していた。ベトナム戦争後の中国とベトナムの戦争も中ソ関係の影が見え隠れする。その辺が真相と考えて間違いないのではないでしょう。

以上の脈略の無い4つのエピソードの真偽の程は確かめようもありません。しかし全てベトナム人、アメリカ人、中国人から現地で個人的に聞いた事実です。
新聞の一つの役目はこのように戦争に関係する事柄の真偽の程を客観的に調査し独自のニュースとして報告することと思います。
単純にアメリカ政府や日本政府の一方的な発表をそのまま報道するのは間違っています。
またアメリカ帝国主義が悪の根源で社会主義国家は平和勢力であるという教条主義的な視点でしか記事を書くのも間違っています。
戦争の善悪を議論するのは空しいことです。しかし戦争に関連して敵味方双方の人間の本音を調査し記事にすることは人々の心を豊かにする大切なことと信じています。

1番目の写真は越南阮朝の都と宮廷の門です。
ベトナム中部の都市フエには、19世紀に越南阮朝の都と宮廷が置かていました。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に「フエの建造物群」として登録されています。

2番目の写真は世界遺産に登録されたハロン湾の風景です。

3番目の写真はベトナム北部の徳天瀑布です。
これらの写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)