フランスで過ごす年数は日本に住んだ年数の3.6倍になるということに最近気がついた。しかし、この40数年、一度も人種差別を受けたことがない。前にしばらくパリで仕事をしていた時、私のマネージメント会社で出会う日本人の仲間は、よく「人種差別された」「日本人だからと言って馬鹿にされた」と言っていた。私にはどうしてもそれが納得できないのであった。また、仲間たちからは私が人種差別を受けたことがないということは「フランス贔屓」と見られていたのだと思う。
私は決してフランス贔屓ではないし、住めば住むほどフランスの悪い点が見えてきている。ただ、日本人だから、フランス人でないからと言って差別を受けたという経験は皆無なのだ。もちろん、郵便局や店、カフェその他で嫌な扱いを受けたことはあるが、それは私だけではない。係りの人がそういう対応をするだけで、フランス人も同じところで同じようにぶっきらぼうで不親切な扱いを受けるのである。最近は役所や郵便局なども応対が随分と親切になり、感じが良くなったが。
日本人だから、フランス人でないから嫌味を言われたとか無視された、とかいうのは視点が違うからなのではないかと思う。肌の色や国籍など関係なく、ただその嫌味を言ったり不親切である人が馬鹿なだけだ。それを自分が日本人だから、「黄色人種(もう死語に近い)」だからと言うのは、思い込みに過ぎない。一種の被害妄想ではないかと思ってしまう。
アフリカ出身の人たちや北アフリカ系の人も「人種差別を受けた」と言うことがある。しかし、よく話を聞いてみると、結局は自分たちがいわゆる「白人」に対して差別をしているのだ。日本人もそうやって自分たちの方から差別をしているのだろう。ただの人間同士のこと、と思ってしまえばそれだけである。人間の馬鹿さ加減の表れの一つが「人種差別」という考えではないか。とても残念なことだ。
ある日、夫の会社で仕事をしていたグアドループ島出身のフランス人で、もちろんブラックの長身の子とノルマンディ出身の子が、我々の村で極右翼で知られているカフェに行った。そして、カウンターでブラックの子は「小さい白(白ワイン一杯)」、ノルマンディの子は「コーヒー。大きいカップでブラックで」と大声で頼んだ。カフェにいた人は、全員どっと大笑いしたそうだ。もちろんレイシスト(人種差別主義者)で有名なオーナーも。
1990年から1991年にかけてパリ・ダカールラリーに日本チームのレポーターとして初めて行った。このラリーには一日休息日というのがあり、一行はアフリカのニジェールのアガデスという町でその休息日を過ごした。飛行機で移動していた我々はその町で3日ほど滞在したが、その時のこと。この年は日本のパイオニア社がスポンサーをした最後の大会だったが、私のチームの広報担当がパイオニアの人たちに会わなければならなくなった。しかしどこに泊まっているのか分からない。色々な用のため、チャーターしておいたボロのピックアップをサハラの遊牧民であるトゥアレグ族の人たちに運転してもらい、住民たちに聞きながら町を走り回った。私と彼らはフランス語で話すが、もちろん彼ら同士はアフリカのタマシェク語で話す。突然「ナサラ」という言葉が耳に入った。何回もサハラを車で横断したことのある夫から、トゥアレグ族は西洋人のことを「ナサラ」(語源はナザレト人、つまりイエス・キリストで、キリスト教徒を指す)と呼ぶということを聞いていたので、「え?ナサラじゃないよ、黄色いよ」と声をかけた。それが大受け。爆笑は長く続き、その後も彼らは私の言った言葉を繰り返して笑っていた。彼らは日本人も肌の色が黒くないから「ナサラ」だと思っていたのだろう。
翌年の1992年には日本のNECがスポンサーとなったパリ北京ラリーというのがあり、オーガナイザーはフランス、オーガナイザー会社の社長は日本人だった。まだロシアと中国の国境が閉鎖されていた時でもあり、そこを通れるということで多くの日本人ドライバーが参加した。私はオーガナイザーの通訳として参加したわけだが、通訳に留まらず、特に日本人エントラントのお母さん役もやった。毎晩日本からのチームを周り、話を聞いたり、クレーム処理もしていた。ある日ビバークを回っていると、ある日本チームの人たちが「本当に日本人を馬鹿にしている」、「移動レストランの奴らは怪しからん」と言っている憤慨の声が聞こえてきた。彼らに話を聞いてみると、大テントの下に設けられたセルフサービスの係りが彼らに嫌な態度を示すと言う。レストランの人たちは全員ボランティアでバカンスの代わりにラリーに来ている人たちで、私も良く知っている人たちばかりである。変だな、と思いながらレストランサービスのボスにその話をした。彼も不思議そうだった。その翌日、係りの人たちに聞いてみると、「ああ、あいつら、失礼なんだよな。挨拶も全くなし、口もきかず礼も言わない。ただ、皿を我々の前に突き出すんだ」との答え。分かった!つまりはコミュニケーションの不足なのであった。日本では何か店て買う時も、切符を買う時も、「こんにちは」または「こんばんは」と言わないし、「ありがとう」とも普通言わないが、フランスでは買う方も挨拶しお礼を言うのが普通なのである。そのことを彼らに説明し、日本人エントラントたちに礼儀は徹底させると約束した。もちろん日本の人たちもちゃんと理解してくれ、その後はすべてうまく行った。言葉が通じなくても、出来なくても構わない。フランス語が出来なければ英語でGood evening 、Thank youでもいいし、日本語で「こんばんは」「ありがとう」であとは笑顔と態度でコミュニケーションを図ればいいのだ。レストランの人たちは日本人だからと言って差別をしていたのではなく、彼らの横柄と感じられる態度に反感を持っていただけだったのだ。
レイシスト(人種差別主義者)たちに対してはユーモアやジョークで応え、コミュニケーションの問題に対しては誰かを通じて解決すればいい。文化の違いは確かにあるので、感情が行き違いになることはあるだろうが、それは決して人種差別ではないと思う。
心底から人種差別を信条としている人もいることではあろうが、非常に少数だと考えている。
(続く)
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後藤和弘による後記;
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスに在住の、ともえさとこ さんに随筆をお願いしました。彼女とはFace Book を通うして知り合いました。私の掲載する記事に何度も素晴らしいコメントを下さった方です。私の記事の趣旨を正確に理解し、実に的確な、そして建設的なコメントを下さいます。
少女時代に短歌に親しみ日本の文学や唐時代の漢詩などにも精通しています。文学だけでなく社会問題や国際政治など幅広い話題に客観的で公平なご意見を頂けるのです。それも独自の意見も添えてです。
その上、文章が美しい日本語です。女性としての魅力に溢れた文章です。まさしく才媛です。
以前からこの欄へのご寄稿をお願いしょうと思っていました。しかし、あまり素晴らしい方なので原稿の依頼を逡巡していました。
今回、思い切ってお願いしたところ快く引き受けて下さいました。これから何回か原稿を頂けそうなご返事を貰いました。
ともえさとこ さんは高校を卒業されフランスに移り住んだ日本の方です。フランス人と結婚し子供さんや孫たちに囲まれた幸せな生活を送っています。
さて今日の随筆は人種差別という重い話題です。この随筆の内容に同感し感動を覚えます。特に以下の一文は何度も、何度も読み、私の座右の銘にしたい文章です。
「この40数年、一度も人種差別を受けたことがない」
そして人種差別を受けたと言うのは一種の被害妄想です。そして日本人は自分たちの方から外人を差別するから自分も差別されるのだという趣旨のことを述べています。まったく同感です。
すなわち自分の心が貧しいから悲しい思いをするのです。
私も外国で差別されたことが何度かあります。しかしよく考えてみると自分がまず先に相手を差別していたことに気がつきます。自分の心が貧しかったことに恥ずかしくなるのです。ですから私は差別されたとは絶対に言わないようにしました。言えば自分の恥を広告していることになります。そんな心境になっていると不思議にも差別を感じなくなったのです。
そして育ちの良い人は何処の国へ行っても差別されないようです。そんなことも考えさせる今日の ともえさとこさんの随筆でした。
挿し絵代わりの写真はフランス南部のアルルの街の風景写真とそこでゴッホが描いた絵です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%AB です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
私は決してフランス贔屓ではないし、住めば住むほどフランスの悪い点が見えてきている。ただ、日本人だから、フランス人でないからと言って差別を受けたという経験は皆無なのだ。もちろん、郵便局や店、カフェその他で嫌な扱いを受けたことはあるが、それは私だけではない。係りの人がそういう対応をするだけで、フランス人も同じところで同じようにぶっきらぼうで不親切な扱いを受けるのである。最近は役所や郵便局なども応対が随分と親切になり、感じが良くなったが。
日本人だから、フランス人でないから嫌味を言われたとか無視された、とかいうのは視点が違うからなのではないかと思う。肌の色や国籍など関係なく、ただその嫌味を言ったり不親切である人が馬鹿なだけだ。それを自分が日本人だから、「黄色人種(もう死語に近い)」だからと言うのは、思い込みに過ぎない。一種の被害妄想ではないかと思ってしまう。
アフリカ出身の人たちや北アフリカ系の人も「人種差別を受けた」と言うことがある。しかし、よく話を聞いてみると、結局は自分たちがいわゆる「白人」に対して差別をしているのだ。日本人もそうやって自分たちの方から差別をしているのだろう。ただの人間同士のこと、と思ってしまえばそれだけである。人間の馬鹿さ加減の表れの一つが「人種差別」という考えではないか。とても残念なことだ。
ある日、夫の会社で仕事をしていたグアドループ島出身のフランス人で、もちろんブラックの長身の子とノルマンディ出身の子が、我々の村で極右翼で知られているカフェに行った。そして、カウンターでブラックの子は「小さい白(白ワイン一杯)」、ノルマンディの子は「コーヒー。大きいカップでブラックで」と大声で頼んだ。カフェにいた人は、全員どっと大笑いしたそうだ。もちろんレイシスト(人種差別主義者)で有名なオーナーも。
1990年から1991年にかけてパリ・ダカールラリーに日本チームのレポーターとして初めて行った。このラリーには一日休息日というのがあり、一行はアフリカのニジェールのアガデスという町でその休息日を過ごした。飛行機で移動していた我々はその町で3日ほど滞在したが、その時のこと。この年は日本のパイオニア社がスポンサーをした最後の大会だったが、私のチームの広報担当がパイオニアの人たちに会わなければならなくなった。しかしどこに泊まっているのか分からない。色々な用のため、チャーターしておいたボロのピックアップをサハラの遊牧民であるトゥアレグ族の人たちに運転してもらい、住民たちに聞きながら町を走り回った。私と彼らはフランス語で話すが、もちろん彼ら同士はアフリカのタマシェク語で話す。突然「ナサラ」という言葉が耳に入った。何回もサハラを車で横断したことのある夫から、トゥアレグ族は西洋人のことを「ナサラ」(語源はナザレト人、つまりイエス・キリストで、キリスト教徒を指す)と呼ぶということを聞いていたので、「え?ナサラじゃないよ、黄色いよ」と声をかけた。それが大受け。爆笑は長く続き、その後も彼らは私の言った言葉を繰り返して笑っていた。彼らは日本人も肌の色が黒くないから「ナサラ」だと思っていたのだろう。
翌年の1992年には日本のNECがスポンサーとなったパリ北京ラリーというのがあり、オーガナイザーはフランス、オーガナイザー会社の社長は日本人だった。まだロシアと中国の国境が閉鎖されていた時でもあり、そこを通れるということで多くの日本人ドライバーが参加した。私はオーガナイザーの通訳として参加したわけだが、通訳に留まらず、特に日本人エントラントのお母さん役もやった。毎晩日本からのチームを周り、話を聞いたり、クレーム処理もしていた。ある日ビバークを回っていると、ある日本チームの人たちが「本当に日本人を馬鹿にしている」、「移動レストランの奴らは怪しからん」と言っている憤慨の声が聞こえてきた。彼らに話を聞いてみると、大テントの下に設けられたセルフサービスの係りが彼らに嫌な態度を示すと言う。レストランの人たちは全員ボランティアでバカンスの代わりにラリーに来ている人たちで、私も良く知っている人たちばかりである。変だな、と思いながらレストランサービスのボスにその話をした。彼も不思議そうだった。その翌日、係りの人たちに聞いてみると、「ああ、あいつら、失礼なんだよな。挨拶も全くなし、口もきかず礼も言わない。ただ、皿を我々の前に突き出すんだ」との答え。分かった!つまりはコミュニケーションの不足なのであった。日本では何か店て買う時も、切符を買う時も、「こんにちは」または「こんばんは」と言わないし、「ありがとう」とも普通言わないが、フランスでは買う方も挨拶しお礼を言うのが普通なのである。そのことを彼らに説明し、日本人エントラントたちに礼儀は徹底させると約束した。もちろん日本の人たちもちゃんと理解してくれ、その後はすべてうまく行った。言葉が通じなくても、出来なくても構わない。フランス語が出来なければ英語でGood evening 、Thank youでもいいし、日本語で「こんばんは」「ありがとう」であとは笑顔と態度でコミュニケーションを図ればいいのだ。レストランの人たちは日本人だからと言って差別をしていたのではなく、彼らの横柄と感じられる態度に反感を持っていただけだったのだ。
レイシスト(人種差別主義者)たちに対してはユーモアやジョークで応え、コミュニケーションの問題に対しては誰かを通じて解決すればいい。文化の違いは確かにあるので、感情が行き違いになることはあるだろうが、それは決して人種差別ではないと思う。
心底から人種差別を信条としている人もいることではあろうが、非常に少数だと考えている。
(続く)
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後藤和弘による後記;
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスに在住の、ともえさとこ さんに随筆をお願いしました。彼女とはFace Book を通うして知り合いました。私の掲載する記事に何度も素晴らしいコメントを下さった方です。私の記事の趣旨を正確に理解し、実に的確な、そして建設的なコメントを下さいます。
少女時代に短歌に親しみ日本の文学や唐時代の漢詩などにも精通しています。文学だけでなく社会問題や国際政治など幅広い話題に客観的で公平なご意見を頂けるのです。それも独自の意見も添えてです。
その上、文章が美しい日本語です。女性としての魅力に溢れた文章です。まさしく才媛です。
以前からこの欄へのご寄稿をお願いしょうと思っていました。しかし、あまり素晴らしい方なので原稿の依頼を逡巡していました。
今回、思い切ってお願いしたところ快く引き受けて下さいました。これから何回か原稿を頂けそうなご返事を貰いました。
ともえさとこ さんは高校を卒業されフランスに移り住んだ日本の方です。フランス人と結婚し子供さんや孫たちに囲まれた幸せな生活を送っています。
さて今日の随筆は人種差別という重い話題です。この随筆の内容に同感し感動を覚えます。特に以下の一文は何度も、何度も読み、私の座右の銘にしたい文章です。
「この40数年、一度も人種差別を受けたことがない」
そして人種差別を受けたと言うのは一種の被害妄想です。そして日本人は自分たちの方から外人を差別するから自分も差別されるのだという趣旨のことを述べています。まったく同感です。
すなわち自分の心が貧しいから悲しい思いをするのです。
私も外国で差別されたことが何度かあります。しかしよく考えてみると自分がまず先に相手を差別していたことに気がつきます。自分の心が貧しかったことに恥ずかしくなるのです。ですから私は差別されたとは絶対に言わないようにしました。言えば自分の恥を広告していることになります。そんな心境になっていると不思議にも差別を感じなくなったのです。
そして育ちの良い人は何処の国へ行っても差別されないようです。そんなことも考えさせる今日の ともえさとこさんの随筆でした。
挿し絵代わりの写真はフランス南部のアルルの街の風景写真とそこでゴッホが描いた絵です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%AB です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)