後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ともえさとこ著、「フランスあれこれ」1、私の感じるフランスでの人種差別について

2017年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
フランスで過ごす年数は日本に住んだ年数の3.6倍になるということに最近気がついた。しかし、この40数年、一度も人種差別を受けたことがない。前にしばらくパリで仕事をしていた時、私のマネージメント会社で出会う日本人の仲間は、よく「人種差別された」「日本人だからと言って馬鹿にされた」と言っていた。私にはどうしてもそれが納得できないのであった。また、仲間たちからは私が人種差別を受けたことがないということは「フランス贔屓」と見られていたのだと思う。
私は決してフランス贔屓ではないし、住めば住むほどフランスの悪い点が見えてきている。ただ、日本人だから、フランス人でないからと言って差別を受けたという経験は皆無なのだ。もちろん、郵便局や店、カフェその他で嫌な扱いを受けたことはあるが、それは私だけではない。係りの人がそういう対応をするだけで、フランス人も同じところで同じようにぶっきらぼうで不親切な扱いを受けるのである。最近は役所や郵便局なども応対が随分と親切になり、感じが良くなったが。

日本人だから、フランス人でないから嫌味を言われたとか無視された、とかいうのは視点が違うからなのではないかと思う。肌の色や国籍など関係なく、ただその嫌味を言ったり不親切である人が馬鹿なだけだ。それを自分が日本人だから、「黄色人種(もう死語に近い)」だからと言うのは、思い込みに過ぎない。一種の被害妄想ではないかと思ってしまう。
アフリカ出身の人たちや北アフリカ系の人も「人種差別を受けた」と言うことがある。しかし、よく話を聞いてみると、結局は自分たちがいわゆる「白人」に対して差別をしているのだ。日本人もそうやって自分たちの方から差別をしているのだろう。ただの人間同士のこと、と思ってしまえばそれだけである。人間の馬鹿さ加減の表れの一つが「人種差別」という考えではないか。とても残念なことだ。
ある日、夫の会社で仕事をしていたグアドループ島出身のフランス人で、もちろんブラックの長身の子とノルマンディ出身の子が、我々の村で極右翼で知られているカフェに行った。そして、カウンターでブラックの子は「小さい白(白ワイン一杯)」、ノルマンディの子は「コーヒー。大きいカップでブラックで」と大声で頼んだ。カフェにいた人は、全員どっと大笑いしたそうだ。もちろんレイシスト(人種差別主義者)で有名なオーナーも。

1990年から1991年にかけてパリ・ダカールラリーに日本チームのレポーターとして初めて行った。このラリーには一日休息日というのがあり、一行はアフリカのニジェールのアガデスという町でその休息日を過ごした。飛行機で移動していた我々はその町で3日ほど滞在したが、その時のこと。この年は日本のパイオニア社がスポンサーをした最後の大会だったが、私のチームの広報担当がパイオニアの人たちに会わなければならなくなった。しかしどこに泊まっているのか分からない。色々な用のため、チャーターしておいたボロのピックアップをサハラの遊牧民であるトゥアレグ族の人たちに運転してもらい、住民たちに聞きながら町を走り回った。私と彼らはフランス語で話すが、もちろん彼ら同士はアフリカのタマシェク語で話す。突然「ナサラ」という言葉が耳に入った。何回もサハラを車で横断したことのある夫から、トゥアレグ族は西洋人のことを「ナサラ」(語源はナザレト人、つまりイエス・キリストで、キリスト教徒を指す)と呼ぶということを聞いていたので、「え?ナサラじゃないよ、黄色いよ」と声をかけた。それが大受け。爆笑は長く続き、その後も彼らは私の言った言葉を繰り返して笑っていた。彼らは日本人も肌の色が黒くないから「ナサラ」だと思っていたのだろう。

翌年の1992年には日本のNECがスポンサーとなったパリ北京ラリーというのがあり、オーガナイザーはフランス、オーガナイザー会社の社長は日本人だった。まだロシアと中国の国境が閉鎖されていた時でもあり、そこを通れるということで多くの日本人ドライバーが参加した。私はオーガナイザーの通訳として参加したわけだが、通訳に留まらず、特に日本人エントラントのお母さん役もやった。毎晩日本からのチームを周り、話を聞いたり、クレーム処理もしていた。ある日ビバークを回っていると、ある日本チームの人たちが「本当に日本人を馬鹿にしている」、「移動レストランの奴らは怪しからん」と言っている憤慨の声が聞こえてきた。彼らに話を聞いてみると、大テントの下に設けられたセルフサービスの係りが彼らに嫌な態度を示すと言う。レストランの人たちは全員ボランティアでバカンスの代わりにラリーに来ている人たちで、私も良く知っている人たちばかりである。変だな、と思いながらレストランサービスのボスにその話をした。彼も不思議そうだった。その翌日、係りの人たちに聞いてみると、「ああ、あいつら、失礼なんだよな。挨拶も全くなし、口もきかず礼も言わない。ただ、皿を我々の前に突き出すんだ」との答え。分かった!つまりはコミュニケーションの不足なのであった。日本では何か店て買う時も、切符を買う時も、「こんにちは」または「こんばんは」と言わないし、「ありがとう」とも普通言わないが、フランスでは買う方も挨拶しお礼を言うのが普通なのである。そのことを彼らに説明し、日本人エントラントたちに礼儀は徹底させると約束した。もちろん日本の人たちもちゃんと理解してくれ、その後はすべてうまく行った。言葉が通じなくても、出来なくても構わない。フランス語が出来なければ英語でGood evening 、Thank youでもいいし、日本語で「こんばんは」「ありがとう」であとは笑顔と態度でコミュニケーションを図ればいいのだ。レストランの人たちは日本人だからと言って差別をしていたのではなく、彼らの横柄と感じられる態度に反感を持っていただけだったのだ。

レイシスト(人種差別主義者)たちに対してはユーモアやジョークで応え、コミュニケーションの問題に対しては誰かを通じて解決すればいい。文化の違いは確かにあるので、感情が行き違いになることはあるだろうが、それは決して人種差別ではないと思う。
心底から人種差別を信条としている人もいることではあろうが、非常に少数だと考えている。
(続く)
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後藤和弘による後記;
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスに在住の、ともえさとこ さんに随筆をお願いしました。彼女とはFace Book を通うして知り合いました。私の掲載する記事に何度も素晴らしいコメントを下さった方です。私の記事の趣旨を正確に理解し、実に的確な、そして建設的なコメントを下さいます。
少女時代に短歌に親しみ日本の文学や唐時代の漢詩などにも精通しています。文学だけでなく社会問題や国際政治など幅広い話題に客観的で公平なご意見を頂けるのです。それも独自の意見も添えてです。
その上、文章が美しい日本語です。女性としての魅力に溢れた文章です。まさしく才媛です。
以前からこの欄へのご寄稿をお願いしょうと思っていました。しかし、あまり素晴らしい方なので原稿の依頼を逡巡していました。
今回、思い切ってお願いしたところ快く引き受けて下さいました。これから何回か原稿を頂けそうなご返事を貰いました。
ともえさとこ さんは高校を卒業されフランスに移り住んだ日本の方です。フランス人と結婚し子供さんや孫たちに囲まれた幸せな生活を送っています。
さて今日の随筆は人種差別という重い話題です。この随筆の内容に同感し感動を覚えます。特に以下の一文は何度も、何度も読み、私の座右の銘にしたい文章です。
「この40数年、一度も人種差別を受けたことがない」
そして人種差別を受けたと言うのは一種の被害妄想です。そして日本人は自分たちの方から外人を差別するから自分も差別されるのだという趣旨のことを述べています。まったく同感です。
すなわち自分の心が貧しいから悲しい思いをするのです。
私も外国で差別されたことが何度かあります。しかしよく考えてみると自分がまず先に相手を差別していたことに気がつきます。自分の心が貧しかったことに恥ずかしくなるのです。ですから私は差別されたとは絶対に言わないようにしました。言えば自分の恥を広告していることになります。そんな心境になっていると不思議にも差別を感じなくなったのです。
そして育ちの良い人は何処の国へ行っても差別されないようです。そんなことも考えさせる今日の ともえさとこさんの随筆でした。

挿し絵代わりの写真はフランス南部のアルルの街の風景写真とそこでゴッホが描いた絵です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%AB です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






「今日の日記、暖かい陽気に誘われて薬用植物園に行きました」

2017年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
今日も気温が18度もあります。陽気に誘われて久しぶりに都立薬用植物園を散歩しながら花々の写真を撮って来ました。
1番目の写真はサンシュユの花です。
2番目の写真はアンズの花です。
3番目の写真はキクザキリュウキンカです。
4番目の写真はバイモ(貝母)です。アミガサユリとも言います。
5番目の写真はボケです。
6番目の写真はミツマタの花です。
7番目の写真はコブシです。
8番目の写真はトサミズキです。
9番目の写真は植物園の裏の雑木林です。

















ベトナム戦争のある一つの悲劇、そして神の愛

2017年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
ベトナム戦争には本当にいろいろな悲劇が起きました。
今日はそのある一つの悲劇と、そして神の愛について書きたいと存じます。
実は私どのもカトリック教会の主任司祭のヨセフ ゴ・クアン・ディン神父はベトナム人でした。
10年ほど続いたベトナム戦争の末、共産党軍が全土を制圧して共産党の国家が成立しました。1975年のことでした。その時、ディン少年は教会の学校に熱心に行っていました。
神学校や教会の閉鎖と弾圧に耐えかねた、ディン少年は1981年のある闇夜に難民船に乗って南の海に逃れたのです。
3日間の難民船の旅の末、折よく通りかかった日本のLPGタンカーに救助されたのです。
そして東京大司教区で神父になったのです。
その後、東京の幾つかの教会の主任司祭を務め、2010年に小金井教会の主任司祭になったのです。
ディン神父さんは完璧に漢字の読み書きが出来ます。非常に良く信者の世話をしてくれる優しい神父さんです。そして彼の素朴で強い信仰心が小金教会の信徒の信仰の模範になっています。毎年、洗礼を受ける人が沢山います。
神様はディン少年を愛していました。3日間の難民船の苦難のあとで日本のタンカーを送ってくれたのです。その愛に感謝したディン少年は漢字の難しい日本語を完全に使えるようになったのです。そして東京大司教区の司祭になったのです。
小金井教会に送ってくださったのも神様です。私どもも神の愛を感じています。

昨日はこのヨセフ ゴ・クアン・ディン司祭の叙階25周年の銀祝に盛大なミサがありました。ミサ後に楽しい祝賀の野外パーティがありました。
それでは昨日撮った写真に従ってもう少し詳しく書きます。

1番目の写真は聖職者が祭壇の上に並んでミサが始まる場面です。説教台のすぐ右がディン神父さまです。そして時々ミサを司式してくれたイエズス会の住田神父さまやサレジオ会の吉田神父さまも並んできます。

2番目の写真はミサの中で聖杯を捧げて祈っているディン神父さまです。右隣は助祭の神父さんで、やはりベトナム人でディンというご苗字です。
パンと葡萄酒が聖変化してイエスの体と血になるように祈っています。この後、イエスの体になったパン片を信者の一人一人に手渡すのです。この儀式を聖餐と言います。

3番目の写真はミサが終わって、信者代表から花束を貰った後で挨拶をしているディン神父さまです。

4番目の写真はミサ後の祝賀野外パーティの折の楽しそうなディン神父さまです。この時、神父さまと私の並んだ写真を撮りました。
神父さまは私の肩に優しく手をまわしてくれました。

5番目の写真はベトナムのホーチミン市にあるカトリックの大司教座大聖堂です。聖マリア大聖堂とも呼ばれています。サイゴンがフランスの植民地だった1863年から1880年にかけて建設されました。

6番目の写真はベトナムがまだアメリカの支配下のあった当時のサイゴンの風景です。

尚、ディン神父さはは6人兄弟の上から2番目で、サイゴン脱出の時は家族を残して一人で難民船に飛び乗ったのです。
日本に着いてから2年ほど徳島県の造船所で働きます。その後品川に移り、日本語を勉強します。そして粕谷神父さまに会います。
この粕谷神父は親身の世話をしてくれ、やがて白柳誠一大司教の面接を受け東京神学院へ入学したのです。東京神学院の初めての外国人の神学生でした。

25年前に東京大司教区の神父として叙階された後はあちこちの教会で主任司祭を務めましたが、信者の面倒をよく見て下さいます。
それにしてもディン神父の波乱万丈の半生を考えると神の愛を感じざるを得ません。よくぞ生き残って日本の神父になられたものです。

ディン神父のご健康と平和をお祈りいたします。

===ベトナムのカトリック========
ベトナムにおけるローマ・カトリック教会の信者は、現在、全人口の約6.87%あると言われています。
17世紀になるとフランスから宣教師アレクサンドル・ドゥ・ロードが派遣され、6000人以上のベトナム人に洗礼を授けたと報告した。ちなみにドゥ・ロードはクオック・グーというベトナム語のアルファベット表記を発案し、現在でも使われている。19世紀になってフランスの支配が強まると、カトリック教会は全面的に擁護された。
20世紀後半になって冷戦が深刻になると、社会主義国の北部から逃れたカトリックは多数南ベトナムに移り住んだ。アメリカ合衆国は南部に資本主義陣営の国家としてベトナム共和国を設立し、初代大統領としてゴ・ディン・ジエムが就任した。ゴ・ディン・ジエム政権のもと、南ベトナムはカトリック中心主義を推し進めた。将校や官僚のトップはカトリック教徒が占め、カトリックは土地政策や税制で優遇を受けた。果ては、1959年にゴ・ディン・ジエムは南ベトナムを聖母マリアに捧げることを宣言した。公的な催しの日にはバチカンの旗が翻り、カトリック教会が国で最大の地主となる一方、人口の70%から90%を占める仏教徒は抑圧され、仏旗を掲げることすら禁じられた。
1963年5月には仏旗掲揚禁止に抗議する民衆が射殺されたことを期に「仏教徒危機」と呼ばれる騒乱が発生した。ゴ・ディン・ジエムは戒厳令を出し、仏教寺院を迫害した。抗議の焼身自殺を図った僧侶、ティック・クアン・ドック師の行動に対し、大統領の弟ゴ・ディン・ヌーの妻マダム・ヌーが「人間バーベキューだ」と発言し、ますます宗教間の対立を深めた。この混乱は同年11月に軍事クーデターが起きゴ・ディン・ジエムらが失脚し射殺されるまで続いた。
共産主義政権となった現在では、公式には宗教は否定されているが、それでも教会の活動は続けられている。2007年に教皇ベネディクト16世はベトナムの信徒に手紙を送り、励ました。

大司教区と司教区
ハノイ大司教区
ソンタイ教区、バーリア教区、ハイフォン教区、ランソン教区
フエ大司教区
ダナン教区、ニャチャン教区、クイニョン教区
ホーチミン市大司教区
ミトー教区、カントー教区、ファンティエット教区

上記は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF からの抜粋です。