日本の将来の安全と平和は日米安保体制の堅持が重要なことは多くの人が認めています。したがって日本人の関心はアメリカに集中しがちです。そしてヨーロッパのイギリス、フランス、ドイツとの交流が重要だとも考えられています。
明治維新以来、「脱亜入欧」という言葉があるように日本はアジアから抜け出して、欧米と一緒になるという考えが根強くありました。
しかし広い視野で考えると日本はアジア文化圏の一国であることはまぎれも無い事実なのです。
今日の主張はインド、ミャンマー、タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、台湾、韓国、そして中国などのアジア諸国と友好関係を推進することが重要だという主張です。日本の安全と豊かな文化のために重要だという主張なのです。
このような考え方を私は善い意味でのアジア主義と呼びたいと思います。
このアジア地域の注目すべきことは経済の急成長ぶりです。
是非、1番目の写真の図面をよくご覧下さい。
1番目の写真は世界の地域別GDPの変化を示す図面です。出展は、http://www.my-adviser.jp/new_contents/column2009/j_ooyama_c200912.html です。
この図面はアジア・オセアニア地域の2009年までのGDPの成長ぶりを示しています。
2009年にはアジア地域のGDPはEUやアメリカのGDPに追いつき、現在は追い抜いていると考えられます。
アジア・オセアニア地域のGDPは急成長しているので2020年や2030年頃には群を抜いて世界一になることは間違いありません。
このアジア地域のGDPの成長は主に中国とインドの経済成長によって支えられています。インドのGDP(国内総生産)は、金額は約6000億ドルでアジア地域では中国に次ぐ数値です。そして全世界では7位ですが、2050年頃には日本を抜いて、中国・アメリカに次ぎ世界第三位になるという試算もあります。
そこで今日は日本とインドの交流を概観したいと思います。
インドでは紀元前2600年頃から前1800年頃までの間にインダス川流域にインダス文明が栄えたことは学校で習います。そして現在のインドは南アジアで一番大きな面積を有し、人口も多く、世界2位の12億人を超える人口を持っています。
このインドと日本の交流は仏教伝来から始まりました。その頃インドのことは天竺と呼れていました。
東大寺の大仏の開眼供養を行った菩提僊那はインド人でが中国を経由して渡来したと言われています。
第二次世界大戦では、インド国民会議から分派した独立運動家のチャンドラ・ボースが日本軍の援助の下でインド国民軍を結成しました。そして、日本軍とともにインパール作戦に参加しました。
チャンドラ・ボース以前に、日本を基盤として独立運動を行った人物にラース・ビハーリー・ボース(中村屋のボース)やA.M.ナイルらがいいました。
ラース・ビハーリー・ボースの名前は、日本に本格的なインド式カレーを伝えたことでもよく知られている。
そして日本の敗戦です。戦勝国のアメリカ、イギリス、フランス、インドなどはマッカーサーの指揮のもとで日本の戦争犯罪者を裁くために1948年、極東国際軍事裁判(東京裁判)を始めたのです。
東条英機などの戦争指導者を死刑にしたり終身刑にしたのが東京裁判です。
この裁判で、インド代表の裁判官のパール判事(ラダ・ビノード・パール、1885年 - 1957年)だけが日本人被告全員が無罪だと主張したのです。
2番目の写真は戦後の東京裁判でただ一人日本の無罪を主張したインドのパール判事の写真です。
(写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89 です。)
「イギリスやアメリカが無罪なら、日本も無罪である」と主張しました。
そして、インドは1951年のサンフランシスコで開かれた講和会議に欠席し、1952年4月に日本とインドの間の国交が回復し、同年6月9日に平和条約が締結されたのです。
このようにインドは親日国なのです。
広島の原爆記念日である毎年8月6日にはインドの国会は黙祷を捧げているそうです。
そして昭和天皇崩御の際には3日間喪に服したのです。
このようにインドは極めて親日的な国家なのです。
2001年のインド西部地震では日本は自衛隊インド派遣を行い支援活動を行いました。
最近の2008年10月22日には、麻生太郎、シン両首相により日印安全保障宣言が締結されました。
日本の閣僚としては、2000年に森喜朗総理大臣、2005年に小泉純一郎総理大臣、、2006年に麻生太郎外務大臣、2006年に谷垣禎一財務大臣、2007年に菅義偉総務大臣、2007年8月に安倍晋三総理大臣、2009年鳩山由紀夫総理大臣がそれぞれ訪問しています。
そして 2011年8月1日には日本・インド経済連携協定が発効しました。
また2012年4月には日印国交樹立60周年を迎え、日本とインドで様々な記念行事が実施されたのです。
2014年8月30日、モディが首相として初来日し、安倍首相主催による非公式の夕食会が京都市の京都迎賓館で開かれました。 日印首脳会談は9月1日に東京で行われ、共同声明の「日印特別戦略的グローバル・パートナーシップに関する東京宣言」も発表さらました。
安全保障面では、外務・防衛閣僚協議(2プラス2)の設置検討が合意され、シーレーンの安全確保に向けた海上自衛隊とインド海軍の共同訓練の定期化が決定したのです。
さて皆様、ここに書いたような日本政府の最近のインド政府との交流や2国間のいろいろな協定のことをご存知でしたでしょうか?
きっとアメリカのトランプ大統領の騒ぎで注目されなかったと存じます。その上、日本のマスコミはアジアの案件には関心が無く、報道も大きくはされません。しかし新聞の国際面の下の方に上記のような首相の訪問や協定は必ず小さく掲載されています。
日本人の欧米中心主義や明治維新以来の「脱亜入欧」の思想が影響しているとしたら、これほど悲しいことはありません。
アジア諸国との友好促進は日本に経済的な恩恵をもたらすだけでなく、日本の将来の精神文化をより豊かにするものと確信しています。
日本人はもっと、もっとアジアの諸国に関心を持ち友好関係を作るのが良いのではないでしょうか。
挿し絵代わりにインドの写真を示します。
3番目の写真は夕暮れのガンジス河の風景です。
4番目の写真はIT企業の集まるバンガロール市の中心街の風景写真です。
5番目の写真はタージ・マハルです。
6番目の写真はアクシャルダム寺院(ヒンドゥー教)の写真です。
7番目の写真はナーランダ僧院跡です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
明治維新以来、「脱亜入欧」という言葉があるように日本はアジアから抜け出して、欧米と一緒になるという考えが根強くありました。
しかし広い視野で考えると日本はアジア文化圏の一国であることはまぎれも無い事実なのです。
今日の主張はインド、ミャンマー、タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、台湾、韓国、そして中国などのアジア諸国と友好関係を推進することが重要だという主張です。日本の安全と豊かな文化のために重要だという主張なのです。
このような考え方を私は善い意味でのアジア主義と呼びたいと思います。
このアジア地域の注目すべきことは経済の急成長ぶりです。
是非、1番目の写真の図面をよくご覧下さい。
1番目の写真は世界の地域別GDPの変化を示す図面です。出展は、http://www.my-adviser.jp/new_contents/column2009/j_ooyama_c200912.html です。
この図面はアジア・オセアニア地域の2009年までのGDPの成長ぶりを示しています。
2009年にはアジア地域のGDPはEUやアメリカのGDPに追いつき、現在は追い抜いていると考えられます。
アジア・オセアニア地域のGDPは急成長しているので2020年や2030年頃には群を抜いて世界一になることは間違いありません。
このアジア地域のGDPの成長は主に中国とインドの経済成長によって支えられています。インドのGDP(国内総生産)は、金額は約6000億ドルでアジア地域では中国に次ぐ数値です。そして全世界では7位ですが、2050年頃には日本を抜いて、中国・アメリカに次ぎ世界第三位になるという試算もあります。
そこで今日は日本とインドの交流を概観したいと思います。
インドでは紀元前2600年頃から前1800年頃までの間にインダス川流域にインダス文明が栄えたことは学校で習います。そして現在のインドは南アジアで一番大きな面積を有し、人口も多く、世界2位の12億人を超える人口を持っています。
このインドと日本の交流は仏教伝来から始まりました。その頃インドのことは天竺と呼れていました。
東大寺の大仏の開眼供養を行った菩提僊那はインド人でが中国を経由して渡来したと言われています。
第二次世界大戦では、インド国民会議から分派した独立運動家のチャンドラ・ボースが日本軍の援助の下でインド国民軍を結成しました。そして、日本軍とともにインパール作戦に参加しました。
チャンドラ・ボース以前に、日本を基盤として独立運動を行った人物にラース・ビハーリー・ボース(中村屋のボース)やA.M.ナイルらがいいました。
ラース・ビハーリー・ボースの名前は、日本に本格的なインド式カレーを伝えたことでもよく知られている。
そして日本の敗戦です。戦勝国のアメリカ、イギリス、フランス、インドなどはマッカーサーの指揮のもとで日本の戦争犯罪者を裁くために1948年、極東国際軍事裁判(東京裁判)を始めたのです。
東条英機などの戦争指導者を死刑にしたり終身刑にしたのが東京裁判です。
この裁判で、インド代表の裁判官のパール判事(ラダ・ビノード・パール、1885年 - 1957年)だけが日本人被告全員が無罪だと主張したのです。
2番目の写真は戦後の東京裁判でただ一人日本の無罪を主張したインドのパール判事の写真です。
(写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89 です。)
「イギリスやアメリカが無罪なら、日本も無罪である」と主張しました。
そして、インドは1951年のサンフランシスコで開かれた講和会議に欠席し、1952年4月に日本とインドの間の国交が回復し、同年6月9日に平和条約が締結されたのです。
このようにインドは親日国なのです。
広島の原爆記念日である毎年8月6日にはインドの国会は黙祷を捧げているそうです。
そして昭和天皇崩御の際には3日間喪に服したのです。
このようにインドは極めて親日的な国家なのです。
2001年のインド西部地震では日本は自衛隊インド派遣を行い支援活動を行いました。
最近の2008年10月22日には、麻生太郎、シン両首相により日印安全保障宣言が締結されました。
日本の閣僚としては、2000年に森喜朗総理大臣、2005年に小泉純一郎総理大臣、、2006年に麻生太郎外務大臣、2006年に谷垣禎一財務大臣、2007年に菅義偉総務大臣、2007年8月に安倍晋三総理大臣、2009年鳩山由紀夫総理大臣がそれぞれ訪問しています。
そして 2011年8月1日には日本・インド経済連携協定が発効しました。
また2012年4月には日印国交樹立60周年を迎え、日本とインドで様々な記念行事が実施されたのです。
2014年8月30日、モディが首相として初来日し、安倍首相主催による非公式の夕食会が京都市の京都迎賓館で開かれました。 日印首脳会談は9月1日に東京で行われ、共同声明の「日印特別戦略的グローバル・パートナーシップに関する東京宣言」も発表さらました。
安全保障面では、外務・防衛閣僚協議(2プラス2)の設置検討が合意され、シーレーンの安全確保に向けた海上自衛隊とインド海軍の共同訓練の定期化が決定したのです。
さて皆様、ここに書いたような日本政府の最近のインド政府との交流や2国間のいろいろな協定のことをご存知でしたでしょうか?
きっとアメリカのトランプ大統領の騒ぎで注目されなかったと存じます。その上、日本のマスコミはアジアの案件には関心が無く、報道も大きくはされません。しかし新聞の国際面の下の方に上記のような首相の訪問や協定は必ず小さく掲載されています。
日本人の欧米中心主義や明治維新以来の「脱亜入欧」の思想が影響しているとしたら、これほど悲しいことはありません。
アジア諸国との友好促進は日本に経済的な恩恵をもたらすだけでなく、日本の将来の精神文化をより豊かにするものと確信しています。
日本人はもっと、もっとアジアの諸国に関心を持ち友好関係を作るのが良いのではないでしょうか。
挿し絵代わりにインドの写真を示します。
3番目の写真は夕暮れのガンジス河の風景です。
4番目の写真はIT企業の集まるバンガロール市の中心街の風景写真です。
5番目の写真はタージ・マハルです。
6番目の写真はアクシャルダム寺院(ヒンドゥー教)の写真です。
7番目の写真はナーランダ僧院跡です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)