後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

南アフリカ共和国の人種差別を消滅させたマンデラ大統領

2017年03月24日 | 日記・エッセイ・コラム
第二次世界大戦が終わってやっと平和になったと思いました。しかしその後、朝鮮戦争やベトナム戦争や湾岸戦争やイラク戦争などの戦争がありました。現在でも中東で果てしない戦争が続いています。人類の愚かさに粛然とします。
しかしその一方で人種差別という悪を撲滅することに努力している人々も沢山います。
第二次世界大戦後の世の中で良かったことは人種差別という人類の悪い習性が弱くなって来たことです。
例えば昨日、「キング牧師の公民権運動で黒人差別が撤廃された」という記事を書きました。
キング牧師のおかげでアメリカでは公民権法が成立したのです。以下は昨日の記事の一部です。
・・・さて公民権法でアメリカ人はどのように変わったでしょうか? その後、何度も渡米した私は見ました。白人と黒人が一緒に公園でバーベキューをして楽しそうにしている場面を。白人と黒人の若者が一緒になってダンスパーティをしている場面を。レストランで同じテーブルに坐り楽しげに食事をしている場面を。
その度に私はキング牧師の演説の冒頭部分を思い出し、胸が熱くまります。
「私には夢があります。いつの日にか、かつての奴隷の子供たちと、かつての奴隷を使っていた人の子供たちが、兄弟愛というテーブルに一緒に座れるようになるという夢が」・・・

今日はアフリカの南端にある南アフリカ共和国のマンデラ大統領の人種差別撤廃運動による人種差別の消滅をご紹介いたします。

兎に角、ひどい話です。1948年から1994年の約50年の長い間、、南アフリカ共和国は以下のようなアパルトヘイト(人種隔離政策)がきびしく実施されていたのです。
(1)黒人を含む有色人種と白人は住む地域を分離し、それぞれの地域だけに居住させられたのです。
白人は裕福な綺麗な町に住み、黒人は貧しい地域に押し込められていたのです。都市近郊で黒人が押しこめられた地域は貧民街になったのです。ヨハネスブルグ近郊のソウェトが最も有名な貧民街でした。

(2)隔離施設留保法
レストラン、ホテル、列車、バス、公園に映画館、公衆トイレまで公共施設はすべて白人用と白人以外に区別されていました。バスは黒人用のバスと停留所、白人用のバスと停留所に別れ、病院も施設の整った白人用と不十分な施設しかない黒人用に分けられたのです。白人専用の公園などの場所に立ち入った黒人はすぐに逮捕されました。

(3)雑婚禁止法
人種の違う男女が結婚することを禁止されていました。

(4)背徳法
異なる人種の異性が恋愛関係になるだけで罰せられる法です。

(5)パス法
黒人に身分証明書の携帯を義務付けた法です。有効なパスを持たないものは不法移民とされ、逮捕されホームランドなどへの強制送還が実施されました。

(6)その他、黒人の参政権を否定する「原住民代表法」(1936年)や黒人の教育を低レベルなものへと押しとどめる「バントゥー教育法」(1953年)など、就職、賃金、教育、医療、宗教など、日常生活の隅々にわたる非白人を差別する政策が、無数の法と慣行で制度化されていたのです。

このような非道な人種差別に対して、当然、黒人達が立ち上がり血みどろの闘争をします。
その一人が1994年から黒人として初めての大統領になったマンデラ氏なのです。
彼は1993年にノーベル平和賞を受賞して有名な人なので皆様ご承知とは存じますが、この際、もう一度、彼の人種差別撤廃運動の経緯を見てみましょう。

南アフリカ共和国はアフリカ大陸最南端にあるイギリス連邦加盟国でした。
ナポレオン戦争終結後、19世紀初頭に植民地はオランダからイギリスへ正式に譲渡され、イギリス人が多数移住しました。イギリスの植民地になり英語が公用語となり、イギリスの司法制度が持ち込まれるなどイギリスの影響が強い国になります。イギリス人の増加と共に英語を解さないボーア人は二等国民として差別され、自らをアフリカーナーと呼ぶようになったそうです。

南アフリカでは1960年代から1980年代にかけて非道なアパルトヘイト政策が徹底的に実施されます。
当然、人種平等を求める黒人のアフリカ民族会議による民族解放運動が進み、ゲリラ戦が行われます。
1960年のある虐殺事件をきっかけに、イギリスから人種主義政策に対する非難を受けたため、イギリス連邦から脱退し、共和国になったのでうです。これが南アフリカ共和国の成立のいきさつです。

こんな状況の中でマンデラ氏は、1960年の虐殺事件をきっかに武装闘争路線へと転換したのです。
1961年11月、「民族の槍」という軍事組織を作り最初の司令官になります。その事が理由になって1962年8月に逮捕されます。
そうしてマンデラ氏は27年間も投獄されたのです。
しかし獄中で勉学を続け、1989年には南アフリカ大学の通信制課程を修了し、法学士号を取得した。また、反アパルトヘイトの主要勢力であるアフリカーナーとの話し合うためにアフリカーンス語も身につけたのです。
獄中にあってマンデラは解放運動を続行し、アフリカーンス語で手紙を同志に送り続けたのです。その結果、彼は人種差別撤廃運動のの象徴的な存在となったのです。そしてマンデラの釈放が人種差別をしていない国々からも求められるようになります。

その結果、1990年2月11日にはマンデラは釈放されます。首都ルサカに行き、アフリカ民族会議の副議長に就任して、アパルトヘイトの撤廃に向けて本格的に取り組んだのです。国際世論を味方につけるために各国の訪問を精力的に行ったのです。1990年10月27日から11月1日までアフリカ民族会議代表団を率いて日本も訪問しています。

1994年4月27日に南アフリカ共和国ではじめての全人種参加選挙が実施されました。この選挙でアフリカ民族会議は得票率62.65%、252議席を獲得して勝利し、マンデラは大統領に就任したのです。
就任式ではヒンドゥー教、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の指導者が祈るなど全宗教の融和も図られたのです。
そしてマンデラ大統領のもとで南アフリカ共和国の人種差別が全て消滅してしまったのです。

1999年2月5日、国会で最後の演説をし、同年6月、任期満了に伴い大統領職を退任、同時に政治の世界から引退しました。
マンデラ氏は2013年12月5日、ヨハネスブルグの自宅で死去しました。享年95歳でした。

追悼式にはアメリカ3大ネットワークとCNN・BBCもそれぞれのアンカーマンを派遣し、各国からも日本の皇太子徳仁親王、イギリスからはチャールズ皇太子とキャメロン首相、アメリカ合衆国よりオバマ大統領及びビル・クリントンやジミー・カーター元大統領、ブラジルのルセフ大統領、キューバのラウル・カストロ国家評議会議長など各国の国家元首もしくはそれに準ずる人物が出席しました。
マンデラは生まれ故郷のクヌにて埋葬され、12月15日、クヌにて国葬が執り行われ埋葬されました。

マンデラ氏の生涯とそれを支援した白人国の人々のことを考えると人種差別は徹底的に消滅させなけらばいけないと思います。全ての人間に与えられた崇高な目標と思います。

1番目の写真は大統領時代のマンデラ氏の写真です。
2番目の写真は1994年の全人種総選挙の折に投票するマンデラ氏です。
3番目の写真は彼の死後、記念碑に捧げられた多数の花の写真です。
4番目の写真は南アフリカ共和国の国会議事堂です。
5番目の写真は南アフリカ共和国の行政府の建物です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)