後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

私が書く記事の中の虚構と真実

2017年03月06日 | 日記・エッセイ・コラム
毎日、毎日、短い記事を書いています。書きながら。「これは虚構に違いない!」とか「うん。これは真実だ!」と考えながら書いています。嘘やフィクションだと感じてていても今更調べ直すことが出来ないことが多いのです。ですから当時、他人から聞いた話をなるべく忠実に書こうと努力しています。
私が昨日書いた記事で「真実だ!」や「嘘やフィクションだ!」と思っている部分を示したいと思います。
昨日の記事の題目は、「私が聞いたベトナム戦争にまつわる敵味方双方の4つのエピソード」でした。その中の第一番目のエピソードは次のようなものでした。
(1)爆弾に書かれた日本語ーアジア人の血を流したくない日本人より。
・・・1993年、ハノイ市郊外の高速道路予定地を訪れた際、ベトナム戦争時ハノイ防空隊長をしていたチュウ氏が案内してくれた。丘陵の頂に立ち、「ここから東の方向、10キロ先にハノイの中心街が見えますね。この間の畑に四車線の高速道路を建設します。測量が終わったところです」と説明してくれた。
「アメリカの戦闘機はハノイを低空で攻撃した後、真っ直ぐこの高速度道路予定地を飛んできました。ちょうどこの丘陵の上で上昇反転して、またハノイ市街攻撃に戻ります。その時速度が落ちますから、そこを機関砲で打ち上げるとよく当たったものです」。説明するチュウ氏の顔が生き生きする。機関砲を打つ仕草もする。
ベトナム戦争当時は日本でも反戦運動が盛んで、「ベ平連」などが米軍の脱走兵の手引きをし中立国へ送り込んでいた。その話をすると、チュウ氏は「ベ平連のことは知りませんが、そういう団体が世界の各国にあったという噂は聞いていました。しかし、ベトナム人にとって一番感動したことはアメリカ空軍機が投下した時限爆弾の胴体の文字でした。はじめはどこの国の文字か分かりませんでしたが、そのうち日本語と分かりました」
チュウ氏の目が遠いところを見ている。「日本語でこうありました。『これは不発弾ではない!!時限爆弾である!!専門処理兵以外近づかない事!!!――アジア人の血を流したくない日本人より』」。
さらに説明を続ける。「この文字は米空軍が日本の軍事飛行場で時限爆弾を搭載する直前に日本人作業員が白のマジックペンで書き込んだと考えられる。時限爆弾の全てに書いてあるのではない。ただ、筆跡から五人以上の違う人間が書いていた」
この事実は新聞には出なかったが、口コミでベトナム全土へ広まった。新聞に出せば、日本人作業員が米空軍に逮捕・処罰されるからである。チュウ氏はさらに「フランス軍相手の独立戦争のとき、多くの日本兵がベトナム側に参加してくれた。その精神が若い日本人へも繋がっているのに感動した」・・・以下省略。

このエピソードの中で米軍の投下した時限爆弾に日本語で、『これは不発弾ではない!、時限爆弾である!アジア人の血を流したくない日本人より』と書いてあったとありました。
この部分は真実だと思っています。
しかし続く、『筆跡から五人以上の違う人間が書いていた』という部分は虚構ではないかと考えています。

真実だと考える根拠は以下の2つの理由です。
(1)このような文章を当時のベトナム人が思いつく筈がないと考えられるからです。
(2)当時の日本ではベトナム戦争反対の市民運動が燎原の火のように広がっていたのです。
それに乗じて、ソ連の影響を受けた左翼系の政党が日本の労働者組織と共に反戦運動や街頭デモを盛んにしていました。米軍基地の日本人労働者の組合もデモに参加していたと想像出来ます。結果として米軍の時限爆弾のこんな文句を書いた労働者が1人や2人はいたかも知れません。

一方、嘘だと思う部分は、『筆跡から五人以上の違う人間が書いていた』という部分です。これはベトナム人の誇大宣伝と思います。ですからこの部分は私は嘘だと考えています。

以上はどちらにしても証拠の無い話です。しかし当時の社会の風潮や雰囲気から考えて「真実そうな部分」と「嘘らしい部分」がはっきりと見えてくるようでうす。

昨日、府中市の郷土の森公園の梅祭りの野点の席で、やっぱり私の書く記事の嘘と真実について書くべきだと思いました。
それにしても平和はやはり良いものですね。お送りする5枚の写真をご覧下さい。人々が平和に野点や梅の花を楽しんでいるのです。
今年はどういう訳か野点を4回も楽しむことが出来ました。平和な日本に感謝しつつ、中東の戦乱に心を痛めています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)