後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

戦争の昭和、平和な平成(1)ベルリンの壁崩壊こそ歴史の転換

2019年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム
間もなく平成時代が終わって新しい年号がきまります。
ここで戦争と厳しい冷戦が続いた昭和の時代と日本が平和だった平成の時代を振り返って日本の将来を考えてみたいと思います。
昭和という時代は満州事変、上海事変、日中戦争そして太平洋戦争と悲惨な戦争が続きました。やっと1945年の敗戦で真の平和が来ると思ったのに厳しいソ連圏とアメリカ陣営の冷戦が続いたのです。
その上日本が米軍出撃の基地になった凄惨な朝鮮戦争や残酷なベトナム戦争もあったのです。
昭和という時代は悲惨な戦争と緊張した冷戦の時代だったのです。
しかし平成元年の1989年にベルリンの壁が崩壊し、やがてソ連が解体し、冷戦が終わったのです。これこそ歴史の大きな転換でした。
平成時代になって中東では戦争が絶えませんでしたが、日本は平和だったのです。そこで私は「平和な平成」という表現を使用することにしました。

今日は大きな世界史の転換になったベルリンの壁崩壊を振り返って見たいと思います。

(1)ベルリンの壁の崩壊は何故世界史の転換点なのか?
1961年に築かれたベルリンの壁は、1989年11月9日にベルリン市民によって壊され撤去されたのです。
東ドイドイツ政府は国民の国外旅行の規制緩和の政令を1989年11月9日に発表したのです。
「事実上の国外旅行の自由化」と受け取れる表現で発表したのです。直後の夜にベルリンの壁に東ベルリン市民が殺到したため国境検問所が開放されたのです。
翌日1989年11月10日にベルリンの壁の撤去作業が始まりました。これがベリリンの壁崩壊というものです。
これにより1961年のベルリンの壁建設から28年間にわたる東西ベルリンの分断の歴史が終結したのです。
ベルリンの壁の崩壊は東欧革命を引き起こし、東欧諸国では続々と共産党政府が倒されます。
そして、翌年1990年10月3日には、東ドイツが西ドイツに編入される形で東西ドイツが統一されます。
1991年になるとソ連体制も解体され、続いてウクライナ、グルジア、ペラルーシュ、リトアニア、ラトビア、エストニア、モンゴル、ウズベクシュタン、アゼルバイジャン、モルダビア、ラトビア、キルギス、タジク、アルメニア、トルクメンなどの衛星国の全てが独立します。
ですから、このベルリンの壁の崩壊は世界史的な一大転換点と言われているのです。

(2)壁の犠牲者を振り返る
1961年壁の建設以来、西へ逃れるために壁を乗り越えて越境しようとした市民が死亡する悲劇が後を絶ちませんでした。
1961年8月から1989年11月までの28年間で5000人以上が越境して逃れ、約200人以上が越境できず国境警備兵によって射殺され、約3000人以上が越境に失敗し逮捕されたと言われています。
一方、東西ドイツの間の国境線で1961年から1988年までに総計23万5000人が西ドイツに逃れます。
そのうち4万人が国境の厳重な見張りをすり抜けて越境した者で、その中の約5000人余りがベルリンの壁を乗り越えた者でです。
ベルリンの壁を超えようとした未遂者はおよそ6万人以上とみられ、有罪判決受けて、平均4年の禁固刑でした。そして逃亡幇助の場合は実行者より重く終身懲役刑を科されることもあったのです。

(3)ゴルバチョフの称賛すべき改革がベルリンの壁崩壊に繋がった!
1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任して「ペレストロイカ」政策を推進して以来、ソビエト連邦内の東欧諸国でも民主化を求める声が高まります。
このゴルバチョフ改革で事態が進展したことが東ドイツの体制に致命的影響を与えたのです。
東ドイツにとってこのゴルバチョフの改革は大きな希望を与えるものでした。東ドイツのホーネッカー政権もペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を導入しようと考えます。
1987年に当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンは西ベルリンを訪問し、ベルリンの壁の前での演説で「Mr. Gorbachev, Tear down this wall.(ゴルバチョフさん、この壁を壊しなさい)」と訴えます。
こうしてゴルバチョフの称賛すべき改革がベルリンの壁崩壊に繋がったのです。
ゴルバチョフはノーベル平和賞を受賞し日本も訪問しました。

最後にベルリンの壁の恐怖をひしひしと実感した私のささやかな体験を記します。
1970年、西ドイツに留学していた私は西ドイツ政府によって国内観光旅行に招待されます。5月の末頃、西ベルリンにも行きました。
高々と冷たく立つ黒い壁は陰惨で怖ろしいものでした。一緒に行ったドイツ人が恐怖におののく顔で「絶対に東ベルリンには行くな!帰って来れなくなる」と声を潜めて言うのです。
遠方からブランデンブルグ門を指さし、「あの向こうに絶対に行くな」と言うのです。
あのドイツ人の恐怖におののく顔を今でも忘れません。

それはそれとして、今日も皆様の心の平和とご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘


今日の挿し絵代わりの写真は梅の実を収穫するための剪定した梅の花の写真です。花を鑑賞するための剪定との違いをご覧下さい。写真を撮った場所は町田市の小野路という農村地帯です。収穫用の梅畑が散在しています。