10年位前のことでした。カトリック鶴岡教会を訪問したのです。
その美しさに胸が熱くなったことを忘れません。
この「美しい日本の教会の写真」の連載でご紹介しようと思いつつ時が流れてしまいました。
この教会は1903年(明治36年)に建てられたヨーロッパ中世紀頃のロマネスク様式をもつ教会です。
1979年(昭和54年)から国の重要文化財に指定されています。
フランス人のパピノ神父の設計で、日本人大工の相馬富太郎が棟梁となって建築しました。
高さ23.7メートル、正面の幅10.8メートル、主棟奥行き23.75メートルの木造瓦葺のロマネスク様式の建物です。東北地方ではこの様式の最古の建物です。
窓にはステンドグラスに代わり、絵が描かれた透明な紙を2枚のガラスで挟んだ絵窓と呼ばれるものが使用されています。日本で絵窓が使われているのは、この建物が唯一です。
鶴岡カトリック教会天主堂の祭壇に飾られているのは、天主堂ができた記念にフランスのデリヴランド修道院から贈られた「黒いマリア像」です。日本にある「黒いマリア像」はこの一体のみであり、世界的にも貴重なものdふぇす。写真をお送りします。
さて次にパピノ神父のご紹介をします。
ジャック・エドモンド=ヨゼフ・パピノ(Jacques Edmond-Joseph Papinot、1860年11月18日 - 1942年11月21日)はフランス人の神父です。
パリ外国宣教会に所属していました。
浅草、佐渡、神田、鶴岡の教会建築に携わったのです。ローマ字版の聖歌編集を行い、フランス語及び英語による日本紹介を行いました。
1860年11月18日フランス北東部のセーヌ河畔にある町シャロンで誕生。幼くして両親を亡くし祖母や従姉妹に育てられ、子供のための神学校を卒業。1885年にパリ外国宣教会に入会、1886年に司祭に叙階され、3ヵ月後の1887年(明治20年)1月に来日し、関東以北を管轄する北緯聖会に配属された。
建築家でもあったパピノは同年4月より佐渡島の夷町(現在の両津市)の聖堂を設計。同年9月より浅草教会助任。同年10月より浅草教会聖堂建築。1888年(明治21年)4月神田教会の主任司祭として働き、巡回布教。1889年(明治22年)現在麻布教会がある場所に土地を借り受け、自身の設計により木造平屋建による和洋折衷の聖堂を建築した。1890年(明治23年)7月1日、聖堂は、オズーフ大司教により祝福された。パピノは、この麻布教会でもフランス語を教えながら活動した。
その後、東京神学校で教師となり15年間多くの科目を担当したといわれる。1891年(明治24年)神田教会を改築。同年8月より自身の設計により長崎市の中町教会建設に着手。
1896年(明治29年)10月28日神田の天主堂完成。1897年(明治30年)9月中町教会竣工。1900年(明治33年)からは1903年(明治36年)竣工の山形県の鶴岡の聖堂設計に携わる。一方では1899年(明治32年)日本の歴史及び地理に関する辞典をフランス語で刊行。
パピノは他にもローマ字版の聖歌編集の編纂を行うなど、幅広い知識を発揮し活躍した。1903年(明治36年)1月横浜の若葉町教会主任となる。
1906年(明治39年)日本の歴史及び地理に関する辞典を英語で刊行。
1911年(明治44年)9月に約25年間滞在した日本を離れ、1913年(大正2年)にはトゥシェ=メルキュレの司祭、1914年(大正3年)から1919年(大正8年)まではソーヌ=エ=ロワール県のジヴリの司祭を務める。
1919年(大正8年)からは香港へ赴任し、教会誌の発行などに尽力した。その後、1927年(昭和2年)フランスに戻り、パリ外国宣教会本部の出版物の編集業務を担当した。
1942年(昭和17年)11月21日サン・ラファエルにて死去。
その美しさに胸が熱くなったことを忘れません。
この「美しい日本の教会の写真」の連載でご紹介しようと思いつつ時が流れてしまいました。
この教会は1903年(明治36年)に建てられたヨーロッパ中世紀頃のロマネスク様式をもつ教会です。
1979年(昭和54年)から国の重要文化財に指定されています。
フランス人のパピノ神父の設計で、日本人大工の相馬富太郎が棟梁となって建築しました。
高さ23.7メートル、正面の幅10.8メートル、主棟奥行き23.75メートルの木造瓦葺のロマネスク様式の建物です。東北地方ではこの様式の最古の建物です。
窓にはステンドグラスに代わり、絵が描かれた透明な紙を2枚のガラスで挟んだ絵窓と呼ばれるものが使用されています。日本で絵窓が使われているのは、この建物が唯一です。
鶴岡カトリック教会天主堂の祭壇に飾られているのは、天主堂ができた記念にフランスのデリヴランド修道院から贈られた「黒いマリア像」です。日本にある「黒いマリア像」はこの一体のみであり、世界的にも貴重なものdふぇす。写真をお送りします。
さて次にパピノ神父のご紹介をします。
ジャック・エドモンド=ヨゼフ・パピノ(Jacques Edmond-Joseph Papinot、1860年11月18日 - 1942年11月21日)はフランス人の神父です。
パリ外国宣教会に所属していました。
浅草、佐渡、神田、鶴岡の教会建築に携わったのです。ローマ字版の聖歌編集を行い、フランス語及び英語による日本紹介を行いました。
1860年11月18日フランス北東部のセーヌ河畔にある町シャロンで誕生。幼くして両親を亡くし祖母や従姉妹に育てられ、子供のための神学校を卒業。1885年にパリ外国宣教会に入会、1886年に司祭に叙階され、3ヵ月後の1887年(明治20年)1月に来日し、関東以北を管轄する北緯聖会に配属された。
建築家でもあったパピノは同年4月より佐渡島の夷町(現在の両津市)の聖堂を設計。同年9月より浅草教会助任。同年10月より浅草教会聖堂建築。1888年(明治21年)4月神田教会の主任司祭として働き、巡回布教。1889年(明治22年)現在麻布教会がある場所に土地を借り受け、自身の設計により木造平屋建による和洋折衷の聖堂を建築した。1890年(明治23年)7月1日、聖堂は、オズーフ大司教により祝福された。パピノは、この麻布教会でもフランス語を教えながら活動した。
その後、東京神学校で教師となり15年間多くの科目を担当したといわれる。1891年(明治24年)神田教会を改築。同年8月より自身の設計により長崎市の中町教会建設に着手。
1896年(明治29年)10月28日神田の天主堂完成。1897年(明治30年)9月中町教会竣工。1900年(明治33年)からは1903年(明治36年)竣工の山形県の鶴岡の聖堂設計に携わる。一方では1899年(明治32年)日本の歴史及び地理に関する辞典をフランス語で刊行。
パピノは他にもローマ字版の聖歌編集の編纂を行うなど、幅広い知識を発揮し活躍した。1903年(明治36年)1月横浜の若葉町教会主任となる。
1906年(明治39年)日本の歴史及び地理に関する辞典を英語で刊行。
1911年(明治44年)9月に約25年間滞在した日本を離れ、1913年(大正2年)にはトゥシェ=メルキュレの司祭、1914年(大正3年)から1919年(大正8年)まではソーヌ=エ=ロワール県のジヴリの司祭を務める。
1919年(大正8年)からは香港へ赴任し、教会誌の発行などに尽力した。その後、1927年(昭和2年)フランスに戻り、パリ外国宣教会本部の出版物の編集業務を担当した。
1942年(昭和17年)11月21日サン・ラファエルにて死去。