6年前に私は「透明で、そして淋しい須賀敦子の文章世界」という記事を書きました。2013年05月25日に掲載しました。
私は須賀敦子の「コルシア書店の仲間たち」という本を読んだ時の感動を絶対に忘れません。そして私は20年前に「コルシア書店の仲間たち」を読んで以来、その文章の透明感と淋しさを時々思い出しています。
そこで今日はあらためてこの本の書評を書いてみようと思います。
さて「コルシア書店の仲間たち」はどういう人々なのでしょうか?
須賀敦子は明快に書いていませんがこの人々はカトリック左派のイタリア人なのです。
それはミラノの教会の祭壇で共産主義の歌を唄って追放されたトゥロルド神父が中心になった物語から推察されます。
しかしコルシア書店の仲間たちの考えかたは皆違うのです。それぞれがイタリアの伝統的な社会に適合出来ず迷いの日々を送っているのです。悲しい日々を送っています。須賀敦子はそんな人々を優しく抱きしめて仲間たちの人間としての淋しさを描いているのです。
それは美しい水彩画のような珠玉の文学作品になってるのです。
さてコルシア書店の仲間たちは皆カトリック信者です。そして書店の経営の費用は全て貴族出身の未婚の老嬢が出しているのです。この未婚の老嬢にトゥロルド神父たちが女王の如くかしずいているのです。嗚呼、ヨーロッパの階級社会とはこういうものだとしみじみ理解出来るのです。
この作品には淋しいことは具体的に一切書いてありません。しかし何故か読者に寂しさを感じさせるのです。ヒョッとしたら作者自身が孤独で淋しい人生を送ったのでしょうか。
しかし須賀敦子は芦屋の裕福な家で育ち、聖心女子大に学び、パリへ留学し、イタリアの神学に興味を持ち、ミラノに定住し、コルシア書店で知り合ったペッピーノというイタリア人と結婚したのです。
夫、ペッピーノは若くして亡くなったので日本に戻り、いろいろな大学でイタリア語やイタリア文学を教えていました。晩年になってから書いた「コルシア書店の仲間たち」が評判になり数々の作品が出版されました。そして69歳で亡くなります。
彼女の人生は決して淋しいものでではありません。むしろ華やかで知的に輝いていたのです。淋しい人生ではないのです。
私は彼女の作品にある特徴を考えています。
カトリックの信者だったのにキリスト教のことは一切書いてありません。
イタリアで結婚したのに新婚生活の楽しさも見当たりません。
不思議な人です。
日本では大学の講師をしながら、何時もイタリア製の高級な洋服を着て、高価な車に乗っていたそうです。そして若い男性達を引き連れて遊んでいたそうです。心が満たされなっかのでしょうか?淋しかったのでしょうか?
しかし須賀敦子の文章にはそんな遊びの話は一切書いていません。
知的に輝けば輝くほど淋しかったのです。遊べば遊ぶほど淋しかったのです。
彼女はその淋しさを描きませんでした。ただ読む人が感じるだけです。
須賀敦子はただ一つ、「こうちゃん」という童話を書きました。それは暗くて悲しいような童話です。彼女の心象風景を書いたものと私は感じています。
彼女が亡くなってから20年。もう忘れられた作家と思っていましたら現在でも時々彼女の作品の書評が掲載されています。
最後に私の好きな「遼 (はるか)」さんの書評の終りの部分だけをお送りします。
https://thurayya65.exblog.jp/18270189/
・・・・コルシア書店はなくなってしまい、集っていた人々も離れ離れになってしまう。夫・ペッピーノも他界してしまう。同じ場に集っていて、ひとつのものを目指している仲間たち。でも、その心の中が全く一緒とは限らない。私もそんな経験は何度もある。その度にかなしい、残念だけれども、これは当然のことなんだ、私と他者は「別人」なのだから、と言い聞かせる。でも、完全に「別人」でもない。「孤独」とは。最後の232ページを読んで、また最初から読むと、描かれている人々がますます愛おしく感じる。
文章を味わい、描かれている情景や人々を味わう。いとおしむ。優しく抱きしめたくなる。最初に書いたとおり、「モノクローム」な味わいもありますが、そんな雰囲気もまた愛おしい。何度でも読み返したい本です。・・・
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
今日の挿し絵代わりの写真は白いモクレンと赤い桃の花とユキヤナギの花の写真です。
私は須賀敦子の「コルシア書店の仲間たち」という本を読んだ時の感動を絶対に忘れません。そして私は20年前に「コルシア書店の仲間たち」を読んで以来、その文章の透明感と淋しさを時々思い出しています。
そこで今日はあらためてこの本の書評を書いてみようと思います。
さて「コルシア書店の仲間たち」はどういう人々なのでしょうか?
須賀敦子は明快に書いていませんがこの人々はカトリック左派のイタリア人なのです。
それはミラノの教会の祭壇で共産主義の歌を唄って追放されたトゥロルド神父が中心になった物語から推察されます。
しかしコルシア書店の仲間たちの考えかたは皆違うのです。それぞれがイタリアの伝統的な社会に適合出来ず迷いの日々を送っているのです。悲しい日々を送っています。須賀敦子はそんな人々を優しく抱きしめて仲間たちの人間としての淋しさを描いているのです。
それは美しい水彩画のような珠玉の文学作品になってるのです。
さてコルシア書店の仲間たちは皆カトリック信者です。そして書店の経営の費用は全て貴族出身の未婚の老嬢が出しているのです。この未婚の老嬢にトゥロルド神父たちが女王の如くかしずいているのです。嗚呼、ヨーロッパの階級社会とはこういうものだとしみじみ理解出来るのです。
この作品には淋しいことは具体的に一切書いてありません。しかし何故か読者に寂しさを感じさせるのです。ヒョッとしたら作者自身が孤独で淋しい人生を送ったのでしょうか。
しかし須賀敦子は芦屋の裕福な家で育ち、聖心女子大に学び、パリへ留学し、イタリアの神学に興味を持ち、ミラノに定住し、コルシア書店で知り合ったペッピーノというイタリア人と結婚したのです。
夫、ペッピーノは若くして亡くなったので日本に戻り、いろいろな大学でイタリア語やイタリア文学を教えていました。晩年になってから書いた「コルシア書店の仲間たち」が評判になり数々の作品が出版されました。そして69歳で亡くなります。
彼女の人生は決して淋しいものでではありません。むしろ華やかで知的に輝いていたのです。淋しい人生ではないのです。
私は彼女の作品にある特徴を考えています。
カトリックの信者だったのにキリスト教のことは一切書いてありません。
イタリアで結婚したのに新婚生活の楽しさも見当たりません。
不思議な人です。
日本では大学の講師をしながら、何時もイタリア製の高級な洋服を着て、高価な車に乗っていたそうです。そして若い男性達を引き連れて遊んでいたそうです。心が満たされなっかのでしょうか?淋しかったのでしょうか?
しかし須賀敦子の文章にはそんな遊びの話は一切書いていません。
知的に輝けば輝くほど淋しかったのです。遊べば遊ぶほど淋しかったのです。
彼女はその淋しさを描きませんでした。ただ読む人が感じるだけです。
須賀敦子はただ一つ、「こうちゃん」という童話を書きました。それは暗くて悲しいような童話です。彼女の心象風景を書いたものと私は感じています。
彼女が亡くなってから20年。もう忘れられた作家と思っていましたら現在でも時々彼女の作品の書評が掲載されています。
最後に私の好きな「遼 (はるか)」さんの書評の終りの部分だけをお送りします。
https://thurayya65.exblog.jp/18270189/
・・・・コルシア書店はなくなってしまい、集っていた人々も離れ離れになってしまう。夫・ペッピーノも他界してしまう。同じ場に集っていて、ひとつのものを目指している仲間たち。でも、その心の中が全く一緒とは限らない。私もそんな経験は何度もある。その度にかなしい、残念だけれども、これは当然のことなんだ、私と他者は「別人」なのだから、と言い聞かせる。でも、完全に「別人」でもない。「孤独」とは。最後の232ページを読んで、また最初から読むと、描かれている人々がますます愛おしく感じる。
文章を味わい、描かれている情景や人々を味わう。いとおしむ。優しく抱きしめたくなる。最初に書いたとおり、「モノクローム」な味わいもありますが、そんな雰囲気もまた愛おしい。何度でも読み返したい本です。・・・
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
今日の挿し絵代わりの写真は白いモクレンと赤い桃の花とユキヤナギの花の写真です。