後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

スコッチとサントリーの違いが分かる男、分からない男

2019年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人の男は3種類に分類されます。
スコッチとサントリーの違いが分かる男、分からない男、そして酒が全然飲めない男です。
スコッチとサントリーの違いが分かる男こそ男の中の男です。女は今回だけは遠慮して頂きます。
若い頃私は違いが分かりませんでした。若くても違いが分かる男を尊敬していました。
それが70歳を過ぎた頃からはっきり違いが分かるようになったのです。70歳になってやっと男の中の男になれたのです。これも老境の華やぎの一つです。
その頃から私は有名でないスコッチウイスキーのThe Claymore という銘柄をもっぱら飲んでいます。1890年創業の会社です。味がサッパリしていてくせのないスコッチです。
味は同じスコッチのカティサークのように軽快です。年をとってくるとジョニ赤もジョニ黒もオールドパーも味が重すぎます。
ニッカやサントリーも飲みますが香りがスコッチとはまったく違うのです。
ニッカやサントリーも良い蒸留酒と割り切って楽しみますが味が何となく日本人の「好み」に迎合しているのです。分かり安く書けば味噌や醤油の味が隠し味に入っているような感じなのです。これは半分冗談ですから本気にしないで下さい。
写真にニッカウイスキーの北海道、余市工場の写真を示します。北海道の旅で小樽から足を伸ばして余市にあるニッカウイスキーの醸造・熟成所を訪問した時撮った写真です。









さてここからは私の歴史趣味です。ウエスキーのお好きな方はお付き合い下さい。
(1)スコッチウイスキーの起源(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC より抜粋)
大麦や小麦を発酵して蒸留する酒は世界中にあります。日本では麦焼酎です。ロシアではウオッカです。同じものがスコットランドで作られるとスコッチウイスキーになるのです。
大麦を原料にした蒸留酒の製法がスコットランドに伝わった時期は、遅くとも12世紀から13世紀にかけてと言われています。
製法の要の一つである蒸留技術はアイルランドからキリスト教とともに伝来したそうです。その原料の大麦をピートという泥炭で乾燥、燻蒸したのでウイスキーと呼ばれる蒸留酒になったのです。
スコットランドにおけるウイスキーに関する現存する最も古い記録は、1494年のスコットランド財務省の記録で、「修道士ジョン・コーに8ボルのモルトを与え、アクアヴィテ(aqua vitae)を造らしむ」という内容です。アクアヴィテはラテン語で「生命の水」という意味で、これをゲール語で表すと「ウシュクベーハ」(uisge beatha、ウシュクは水、ベーハは生命の意)となり、そこから「ウイスキー」という英語が生まれたそうです。ウイスキーという単語に関する最古の記録は1736年にスコットランド人が書いた手紙で、1755年には英語辞典に登場しました。
以上要約するとスコッチの特徴は原料の大麦を泥炭のピートで乾燥、燻蒸し独特の風味をを付けることが特徴です。
当然ながらサントリーとニッカは泥炭をイギリスから輸入して使いウイスキーを製造しています。

(2)竹鶴政孝さんの1918年の渡英とその後の紆余曲折(http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-5811.html より抜粋)
竹鶴家は関西の塩田の大地主として製塩業を営み、その傍ら酒造業も営んでいました。
竹鶴さんは大学も"大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部)の醸造学科"を卒業します。
そして1916年3月に当時洋酒業界の雄であった大阪市の摂津酒造 (摂津酒精醸造所)に入社しました。
当時、"日本では欧米の模造品のウイスキーが作られていただけで純国産のウイスキーは作られていなかったそうです。そこで摂津酒造は純国産のウイスキー造りを始めることを計画しました。
1918年、竹鶴は社長の阿部喜兵衛の命を受けて単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学ぶことになります。
1920年11月、日本に帰国しましたので摂津酒造はいよいよ純国産ウイスキーの製造を企画します。ところが、第一次世界大戦後の戦後恐慌によって資金調達ができなかったため計画は頓挫してしまいました。
竹鶴政孝さんは1922年には摂津酒造も退社し、大阪の桃山中学(現:桃山学院高等学校)で教鞭を執り生徒に化学を教えるということで、お酒の世界からも離れることになりました。

(3)壽屋の鳥井信治郎氏との出会いと訣別(http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-5811.html より抜粋)
1923年、大阪の洋酒製造販売業者寿屋(現在のサントリー)も"本格ウイスキーの国内製造を企画し、社長の鳥井信治郎がスコットランドに適任者がいないか問い合わせ"ました。
 ここで「わざわざ呼び寄せなくても、日本には竹鶴という適任者がいるはずだ」という回答を得たため、竹鶴さんにお鉢が回ってきます。スコットランドから呼び寄せる技師に払うつもりだった額の年俸四千円という破格の給料で採用することになりました。
そして1924年11月11日、サントリー山崎工場が竣工されます。
当時は工場は社員は竹鶴のほかに事務員1名がいるのみの小さい工場だったそうです。 
鳥井は最大限、竹鶴の好きなように製造をさせたが、金ばかりがかかって全く製品を出荷しない山崎工場は出資者らから問題にされ、鳥井はやむなくそれとなく発売を急ぐよう指示します。
出荷ができるほどに熟成した原酒は最初の年に仕込んだ1年分のみで、ブレンドで複雑な味の調整をすることができないため難色を示した竹鶴だが、それ以上出資者を待たせるわけにもいかないということも承知していたので、出荷に同意します。
それが国産はじめてのウイスキー、『サントリー白札』で1929年4月に発売されたのです。ところが、これがさっぱり売れませんでした。
模造ウイスキーなどを飲みなれた当時の日本人には受け入れらなかったのです。
鳥井自身は竹鶴がスコッチにあまりにもこだわりすぎるのを疑問視していた節があるともされており、本格ウイスキーの国内製造を企画したとはいえ、あまりに本格すぎるものは望んでいなかったのかもしれません。
これは経営者が利潤にこだわるのに技師は品質だけにこだわるというよくあるパターンです。そして経営者と技師は訣別するのもよくあるパターンです。
例の通り1934年4月に竹鶴さんは寿屋を退社します。訣別したのです。

(4)竹鶴政孝さんが北海道余市でニッカウイスキーを製造し1940年に販売開始
竹鶴さんは北海道でと、1934年7月に北海道余市町でウイスキー製造のため、大日本果汁株式会社を設立し、代表取締役専務に就任しました。
会社名が何で「大日本果汁」なのは、最初はリンゴジュースを作っていたためです。
ウイスキーは1940年からで、「大日本果汁」の「日」「果」をとり、『ニッカウヰスキー』と命名しました。これが現在の社名に繋がっています。
本社の東京移転も1952年(昭和27年)と古く北海道生まれの会社でした。しかし2001年(平成13年)、筆頭株主のアサヒビール株式会社が全株式を取得して完全子会社化されました。現在ニッカが製造する商品の販売及びマーケティングは全てアサヒビールが行なっています。

以上を分かりやすく要約します。
日本の最初の本格的なウイスキーは寿屋(現在のサントリー)の鳥井信治郎社長が1929年4月に発売した『サントリー白札』でした。これを製造したのがグラスゴー大学に留学した技師の竹鶴政孝さんでした。
その後鳥井信治郎社長と技師の竹鶴政孝さんとが訣別し1940年に竹鶴政孝さんがニッカウイスキーを製造販売します。
一方サントリーの鳥井信治郎社長も根気よくウイスキーを製造し続け現在に至っているのです。
日本のウイスキーに貢献した人はサントリーの鳥井信治郎社長と技師の竹鶴政孝さんなのです。とてもドラマッチックな歴史だと思いましたのでご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)