明治、大正、昭和の時代、絹糸は日本の外貨獲得の最も重要な輸出品でした。
その時代には全国に国立や県立の蚕糸試験場があり、その試験場は蚕糸業を支えていたのです。蚕糸業は日本の富国強兵を支える財源だったのです。
そんな時代も過ぎ去ってはるか遠い昔になりました。
現在あちこちの蚕糸試験場の跡地は公園になっており大きな樹々が生い茂っています。
蚕を飼う建物は太陽の直射を避けるためにケヤキやイチョウの樹々で囲んだのです。
その樹々が現在大木になり見事な森になっています。
日野市にある農林省の蚕糸試験場の跡地は「仲田の森公園」になっています。その周辺にあった広い桑園は住宅地になって姿を消しました。
そんな歴史を想い返しながら昨日の午後、蚕糸の森の紅葉の写真を撮って来ました。
喬木の紅葉の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/af/e3de8e625d3e5b9803772ba7911b9794.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/e8/272dc2dbca921f8e569628e88d1df700.jpg)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/b8/5fb1813381aeeb35914588aa316b78f4.jpg)
この公園の一帯には蚕業試験場(後の蚕糸試験場)と日野村の桑園がありました。
ここは昭和3年(1928)から、農林省蚕業試験場と附属の日野桑園があ った場所です。
蚕業試験場は、養蚕・製糸・絹加工に関する試験研究を行なう国の研究機関でした。 そのはじまりは明治 44 年(1911)5 月、高円寺(杉並区)に造られた農商務省原蚕種 製造所です。
この原蚕種製造所は大正 3 年(1914)に農林省の蚕業試験場と改称し、さらに 昭和 12 年に蚕糸試験場と改称されました。
日野市域には、仲田に日野桑園が出来るよりも早く、明治 44~45 年に、石田(石田 402 番地、現・万願寺1丁目)に、万願寺桑園が造られました。
万願寺桑 園は、高円寺の原蚕種製造所で飼育する蚕のえさとなる桑の葉を栽培するために作ら れた桑園で、ここから荷馬車で桑を運んでいました。
昭和 3 年に仲田に蚕糸試験場と付属の日野桑園が出来たことで、日野桑園は第一桑 園、万願寺桑園は第二桑園と呼ばれるようになりました。また、谷戸上・神明にも土 壌研究のための第三桑園がありましたが、ここは昭和 23 年に廃止されました。
日野桑園には、庁舎と第一から第六までの蚕室があり、ここで桑や蚕の品種改良や 優良品種の育成など、さまざまな研究が行われていました。
敷地内には他に職員の宿 舎や寮もあり、最も盛んだった頃には、100 名近い人たちが働いていたといいます。
その後、機構改革により、昭和 55 年に蚕糸試験場が筑波(茨城県つくば市)に移転するのにともない、日野桑園も閉鎖され筑波に移転しました。
現在仲田の森には、第一蚕室(通称「桑ハウス」)と庁舎の入口基礎がわずかに残り、 かつて蚕室を日光の直射から守っていたケヤキの大木などから当時をしのぶことが出 来ます。
(日野市郷土資料館 矢口祥有里) hino-museum.jp/wordpress/wp-content/uploads/2016/06/rekimin148.pdf
蚕業試験場が蚕糸試験場への拡充されたのは昭和12(1937)でした。
尚、農林水産省における蚕糸試験研究の歴史については以下に詳しい歴史書があります。
https://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/silkwave/hiroba/FYI/history/history-index.htm
近代的統一国家の形成を進める明治政府が目指したのは、富国強兵、殖産興業、文明開化でした。この歴史書は政府の殖産興業の重要な分野だった蚕糸業に対する政策が詳しく説明してあります。ご興味のある方は是非ご覧ください。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
その時代には全国に国立や県立の蚕糸試験場があり、その試験場は蚕糸業を支えていたのです。蚕糸業は日本の富国強兵を支える財源だったのです。
そんな時代も過ぎ去ってはるか遠い昔になりました。
現在あちこちの蚕糸試験場の跡地は公園になっており大きな樹々が生い茂っています。
蚕を飼う建物は太陽の直射を避けるためにケヤキやイチョウの樹々で囲んだのです。
その樹々が現在大木になり見事な森になっています。
日野市にある農林省の蚕糸試験場の跡地は「仲田の森公園」になっています。その周辺にあった広い桑園は住宅地になって姿を消しました。
そんな歴史を想い返しながら昨日の午後、蚕糸の森の紅葉の写真を撮って来ました。
喬木の紅葉の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/af/e3de8e625d3e5b9803772ba7911b9794.jpg)
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この公園の一帯には蚕業試験場(後の蚕糸試験場)と日野村の桑園がありました。
ここは昭和3年(1928)から、農林省蚕業試験場と附属の日野桑園があ った場所です。
蚕業試験場は、養蚕・製糸・絹加工に関する試験研究を行なう国の研究機関でした。 そのはじまりは明治 44 年(1911)5 月、高円寺(杉並区)に造られた農商務省原蚕種 製造所です。
この原蚕種製造所は大正 3 年(1914)に農林省の蚕業試験場と改称し、さらに 昭和 12 年に蚕糸試験場と改称されました。
日野市域には、仲田に日野桑園が出来るよりも早く、明治 44~45 年に、石田(石田 402 番地、現・万願寺1丁目)に、万願寺桑園が造られました。
万願寺桑 園は、高円寺の原蚕種製造所で飼育する蚕のえさとなる桑の葉を栽培するために作ら れた桑園で、ここから荷馬車で桑を運んでいました。
昭和 3 年に仲田に蚕糸試験場と付属の日野桑園が出来たことで、日野桑園は第一桑 園、万願寺桑園は第二桑園と呼ばれるようになりました。また、谷戸上・神明にも土 壌研究のための第三桑園がありましたが、ここは昭和 23 年に廃止されました。
日野桑園には、庁舎と第一から第六までの蚕室があり、ここで桑や蚕の品種改良や 優良品種の育成など、さまざまな研究が行われていました。
敷地内には他に職員の宿 舎や寮もあり、最も盛んだった頃には、100 名近い人たちが働いていたといいます。
その後、機構改革により、昭和 55 年に蚕糸試験場が筑波(茨城県つくば市)に移転するのにともない、日野桑園も閉鎖され筑波に移転しました。
現在仲田の森には、第一蚕室(通称「桑ハウス」)と庁舎の入口基礎がわずかに残り、 かつて蚕室を日光の直射から守っていたケヤキの大木などから当時をしのぶことが出 来ます。
(日野市郷土資料館 矢口祥有里) hino-museum.jp/wordpress/wp-content/uploads/2016/06/rekimin148.pdf
蚕業試験場が蚕糸試験場への拡充されたのは昭和12(1937)でした。
尚、農林水産省における蚕糸試験研究の歴史については以下に詳しい歴史書があります。
https://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/silkwave/hiroba/FYI/history/history-index.htm
近代的統一国家の形成を進める明治政府が目指したのは、富国強兵、殖産興業、文明開化でした。この歴史書は政府の殖産興業の重要な分野だった蚕糸業に対する政策が詳しく説明してあります。ご興味のある方は是非ご覧ください。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)