今日は日曜日なのであるモンゴル人、ソヨルジャブにまつわる物語をお送り致します。日本人を愛したあるモンゴル人の美しい生涯の物語です。
そのモンゴル人はソヨルジャブと言う男性です。満州のハイラルを統治する省公署に勤めていました。
その役所に藤田藤一という官僚がいました。蒙古人の知事を補佐してハイラルを統治していたのです。そして役所の蒙古人達と藤田の間の通訳をしていたのが蒙古人のソヨルジャップでした。
(1)物語のあらすじ
物語は美しく、せつない一人のモンゴル人の日本人との絆の話です。一度日本人を信頼してしまったソヨルジャブは一生変節しないで日本人へ忠誠をつくします。その絆には国境も政治も宗教も介在しません。純粋で一途な絆です。
戦後、ソヨルジャップさんはソ連軍の強制収容所に入れられます。その後は中国の矯正収容所です。合計36年間の収容所生活でした。しかしこの苦難にもかかわらずソヨルジャブは一生変節しないで日本人を愛し、その絆を大切にしたのです。
36年間の収容所生活から釈放された後に日本に来ます。日本とモンゴルの交流に尽力します。
そして彼は2011年、モンゴルのフフホトで亡くなりました。享年86歳でした。骨はホロンバイル草原に散骨されました。
この美しい物語は細川呉港著の「草原のラーゲリ」、文藝春秋社、からの抜粋です。
(2)ソヨルジャップは満州の省公署で藤田藤一の下で働く、そして藤田藤一との別離
ソヨルジャップは昭和17年にハルピン学院を卒業し、生まれ故郷の満洲蒙古、ハイラルの省公署に勤務しました。その役所は興安北省公署だったのです。省長はモンゴル人、その下に日本人の参事官や職員もいたが、実質的には参事官がすべて行政をとり仕切っていたそうです。
その興安北省公署の参事官が藤田藤一だったのです。そこでソヨルジャップが人格者の藤田の下で働き強い絆で結ばれたのです。
しかし終戦3ケ月前に藤田は召集され関東軍の少尉になったのです。
その藤田少尉がソ連侵攻の日の8月9日、興安北省公署へ戻って来て、日本人へ汽車でチチハルへ避難するように指示し、自分はソ連軍を迎え討つために前線へ向かいます。
そしてソヨルジャップに自分の家族を頼み、永遠の別れをするのです。その場面を細川呉港の本に次のようにかいてあります。
・・・・そのとき、省公署の広い庭に一台の日本軍のトラックがエンジンの音を唸らせて入ってきた。荷台に武装した日本兵を30人ほど乗せていた。トラックは、庭を半分まわりながら爆撃された省公署の建物を確認して停まった。助手席から降り立ったのは、金の帯3本に星のついた襟章の少尉だった。
それは3カ月前に教育召集された藤田参事官だった。誰もが、あっと声を上げた。日本軍が来たと思ったら、参事官だったからだ。藤田はトラックを降りるなり、駆け寄った何人の省職員の中から、ソヨルジャブを見つけ、ちょっと来いといって、建物に入り、階段を駆け上がった。いうまでもなく2階のエルヒム・バトウのいる省長室だった。モンゴル語も日本語も、ロシア語もしゃべれるソヨルジャブは、しばしば日本語のしゃべれないエルヒム・バトウや他のモンゴル人の通訳として使われていたのである。
省長は次長とともに正面に座っていた。藤田は軍靴を響かせて省長に近づき、居住まいを正して大きな声で言った。
「省長閣下にお伺いいたします。今朝未明、ソ連軍が侵攻してきました。北と西、そして南からも満ソ国境を突破、目下各地で、日本軍が抵抗しておりますが、ソ連の戦車隊はまもなくハイラル市内にも入ってくると思われます」
藤田参事官は、軍人口調で事実を報告し、これからの対策を省長に告げた。
「われわれ日本軍は、これから陣地に入って、ソ連軍に応戦します。ソ連軍のハイラル市内への侵入を一刻でも遅らせなければなりません。省公署の日本人職員は、まちの邦人全員ハイラル駅から列車に乗せ、チチハルまで避難させてください。そのあと日本人の男の職員は日本軍の地下陣地に入るように。また、省長閣下は車を用意します。南の草原にお帰りください」
それだけ言って、藤田は再び音を立てて軍靴をそろえ、ちょっと声の調子を落として
「省長閣下、これが最後のお別れになるかもしれません。御達者で――」
と言うなり、踵を返し、部屋を出て階段を駆け下りた。通訳をしていたソヨルジャブもあわててついていく。
「おい、お前も故郷の草原に帰りなさい。これは日本とソ連との戦争なんだ。お前たちモンゴル人には関係ない。私は日本人だから死んでもいい。しかしお前はこれから先モンゴル人のために頑張るんだ」
藤田は、階段を降りながら若いソヨルジャブにそういった。高飛車だが愛情のこもった言い方だった。
広場に出た藤田は、振り返って省公署の建物を見た。3カ月前まで勤めていた省公署だ。が、すぐに広場に停めてあるトラックに急いだ。ソヨルジャブも急ぎ足で藤田についていく。 藤田が、トラックに乗り込もうとして、助手席のステップに足をかけたところで、彼はふと振り向いてソヨルジャブに言った。
「僕は、このまま前線に行く。西山陣地に入るつもりだ。家族には会わないでいくけれど、よろしく頼む」・・・
これがソヨルジャップが聞いた藤田の最後の言葉になったのです。
(3)ソ連軍戦車へ飛び込んで戦死した藤田藤一少尉と残された家族
藤田藤一少尉は侵入して来たソ連の戦車を迎え撃つのです。そしてソ連軍戦車へ飛び込んで戦死してしまいます。
藤田の家族は4人いましたた。奥さんと、7歳を頭にかわいい3人の娘たちだったのです。
しかしソ連軍の侵入で混乱したハイラルで、ソヨルジャップは藤田の妻と娘を見失ってしまうのです。
ソヨルジャップは藤田の家に駆けつけその妻と3人の娘を探します。ハイラルの駅や街々を駆けずリ回ってさんざん探したのですが遂に見つかりませんでした。家族は偶然通りかかった日本軍のトラックに助けられハイラルの大きな要塞の片隅に隠れていたのです。悲しいすれ違いでした。
しかし2008年にソヨルジャップは藤田の家族が無事だったと知ったのです。藤田藤一の妻、そして長女の明巳さん、その妹2人、合計4人が1946年に無事帰国したことを知ったのです。
細川呉港さんは即刻、そのことを手紙でソヨルジャップさんへ伝えます。
そして細川呉港さんはソヨルジャップに頼みました。藤田さんの遺族へ、戦死した藤田少尉の思い出を送るように何度も頼みました。
(4)何故かソヨルジャップは藤田少尉の家族に会わなかった、そしてモンゴルの空へ旅立った
しかしソヨルジャップからは一切手紙が来ません。手紙が来ないままソヨルジャップは2011年3月6日に肺ガンで息を引き取ります。
3月12日、ソヨルジャップのお葬式は中国のモンゴル自治区のフフホトでとりおこなわれます。細川さんと数人の日本人、そしてソヨルジャップを尊敬しているモンゴル人、数十人が参列したそうです。昔のハイラルからも遠路はるばる10人ほどが参列したそうです。
そして細川さんが日本へ帰る前の日にソヨルジャップの妻、オヨンフさんが一通の封筒を細川さんへ渡したのです。夫のソヨルジャップが金沢に暮らしている藤田さんの長女の明巳さんへ届けくれと言って息を引き取ったと言うのです。中にはモンゴルの草原での生活を切り詰めて貯めた5万円のお金が入っていました。
手紙を書いて藤田さんの思い出を長女へ送ることは簡単です。そして藤田さんの家族をついに見つけられなかったことを謝るのは簡単なことです。しかしソヨルジャップにはそれが出来なかったのです。あまりにも深い心の傷だったのでしょう。混乱した心で出来ることは現金の入った封筒を残された妻に託すことだけでした。
ソヨルジャップの苦しみを考えると彼も憐れです。そして藤田一家との美しい絆の強さに感動します。国境を越えた強い人間の絆です。
葬儀の4ケ月後、チベット密教で有名な中国青海省のタール寺の僧侶の司式でソヨルジャップの散骨が行われました。散骨の場所はホロンバイル草原のモンゴル人の聖地、聖なる山、ボグド・オーラ(仏の山)のなだらかな南斜面の草原です。
親類や縁者が集まって天と地に祈ったあと、ソヨルジャップさんの白い骨をまき散らせたのです。日本から行った細川さんも砕かれた白い粉を両手ですくいあげます。白い粉は細川さんの指にまとわりつき離れようとしません。
小さな骨は緑の草の中に落ち、白粉は風に舞ったそうです。広い天空は何処までも蒼く、白い雲が遠くまで帯のように流れています。こうしてソヨルジャップさんの魂は希望通り故郷の草原に帰ったのです。それは日本人を愛したひたむきな美しい生涯でした。(完了)
今日の挿絵の写真はモンゴルの風景写真です。
そのモンゴル人はソヨルジャブと言う男性です。満州のハイラルを統治する省公署に勤めていました。
その役所に藤田藤一という官僚がいました。蒙古人の知事を補佐してハイラルを統治していたのです。そして役所の蒙古人達と藤田の間の通訳をしていたのが蒙古人のソヨルジャップでした。
(1)物語のあらすじ
物語は美しく、せつない一人のモンゴル人の日本人との絆の話です。一度日本人を信頼してしまったソヨルジャブは一生変節しないで日本人へ忠誠をつくします。その絆には国境も政治も宗教も介在しません。純粋で一途な絆です。
戦後、ソヨルジャップさんはソ連軍の強制収容所に入れられます。その後は中国の矯正収容所です。合計36年間の収容所生活でした。しかしこの苦難にもかかわらずソヨルジャブは一生変節しないで日本人を愛し、その絆を大切にしたのです。
36年間の収容所生活から釈放された後に日本に来ます。日本とモンゴルの交流に尽力します。
そして彼は2011年、モンゴルのフフホトで亡くなりました。享年86歳でした。骨はホロンバイル草原に散骨されました。
この美しい物語は細川呉港著の「草原のラーゲリ」、文藝春秋社、からの抜粋です。
(2)ソヨルジャップは満州の省公署で藤田藤一の下で働く、そして藤田藤一との別離
ソヨルジャップは昭和17年にハルピン学院を卒業し、生まれ故郷の満洲蒙古、ハイラルの省公署に勤務しました。その役所は興安北省公署だったのです。省長はモンゴル人、その下に日本人の参事官や職員もいたが、実質的には参事官がすべて行政をとり仕切っていたそうです。
その興安北省公署の参事官が藤田藤一だったのです。そこでソヨルジャップが人格者の藤田の下で働き強い絆で結ばれたのです。
しかし終戦3ケ月前に藤田は召集され関東軍の少尉になったのです。
その藤田少尉がソ連侵攻の日の8月9日、興安北省公署へ戻って来て、日本人へ汽車でチチハルへ避難するように指示し、自分はソ連軍を迎え討つために前線へ向かいます。
そしてソヨルジャップに自分の家族を頼み、永遠の別れをするのです。その場面を細川呉港の本に次のようにかいてあります。
・・・・そのとき、省公署の広い庭に一台の日本軍のトラックがエンジンの音を唸らせて入ってきた。荷台に武装した日本兵を30人ほど乗せていた。トラックは、庭を半分まわりながら爆撃された省公署の建物を確認して停まった。助手席から降り立ったのは、金の帯3本に星のついた襟章の少尉だった。
それは3カ月前に教育召集された藤田参事官だった。誰もが、あっと声を上げた。日本軍が来たと思ったら、参事官だったからだ。藤田はトラックを降りるなり、駆け寄った何人の省職員の中から、ソヨルジャブを見つけ、ちょっと来いといって、建物に入り、階段を駆け上がった。いうまでもなく2階のエルヒム・バトウのいる省長室だった。モンゴル語も日本語も、ロシア語もしゃべれるソヨルジャブは、しばしば日本語のしゃべれないエルヒム・バトウや他のモンゴル人の通訳として使われていたのである。
省長は次長とともに正面に座っていた。藤田は軍靴を響かせて省長に近づき、居住まいを正して大きな声で言った。
「省長閣下にお伺いいたします。今朝未明、ソ連軍が侵攻してきました。北と西、そして南からも満ソ国境を突破、目下各地で、日本軍が抵抗しておりますが、ソ連の戦車隊はまもなくハイラル市内にも入ってくると思われます」
藤田参事官は、軍人口調で事実を報告し、これからの対策を省長に告げた。
「われわれ日本軍は、これから陣地に入って、ソ連軍に応戦します。ソ連軍のハイラル市内への侵入を一刻でも遅らせなければなりません。省公署の日本人職員は、まちの邦人全員ハイラル駅から列車に乗せ、チチハルまで避難させてください。そのあと日本人の男の職員は日本軍の地下陣地に入るように。また、省長閣下は車を用意します。南の草原にお帰りください」
それだけ言って、藤田は再び音を立てて軍靴をそろえ、ちょっと声の調子を落として
「省長閣下、これが最後のお別れになるかもしれません。御達者で――」
と言うなり、踵を返し、部屋を出て階段を駆け下りた。通訳をしていたソヨルジャブもあわててついていく。
「おい、お前も故郷の草原に帰りなさい。これは日本とソ連との戦争なんだ。お前たちモンゴル人には関係ない。私は日本人だから死んでもいい。しかしお前はこれから先モンゴル人のために頑張るんだ」
藤田は、階段を降りながら若いソヨルジャブにそういった。高飛車だが愛情のこもった言い方だった。
広場に出た藤田は、振り返って省公署の建物を見た。3カ月前まで勤めていた省公署だ。が、すぐに広場に停めてあるトラックに急いだ。ソヨルジャブも急ぎ足で藤田についていく。 藤田が、トラックに乗り込もうとして、助手席のステップに足をかけたところで、彼はふと振り向いてソヨルジャブに言った。
「僕は、このまま前線に行く。西山陣地に入るつもりだ。家族には会わないでいくけれど、よろしく頼む」・・・
これがソヨルジャップが聞いた藤田の最後の言葉になったのです。
(3)ソ連軍戦車へ飛び込んで戦死した藤田藤一少尉と残された家族
藤田藤一少尉は侵入して来たソ連の戦車を迎え撃つのです。そしてソ連軍戦車へ飛び込んで戦死してしまいます。
藤田の家族は4人いましたた。奥さんと、7歳を頭にかわいい3人の娘たちだったのです。
しかしソ連軍の侵入で混乱したハイラルで、ソヨルジャップは藤田の妻と娘を見失ってしまうのです。
ソヨルジャップは藤田の家に駆けつけその妻と3人の娘を探します。ハイラルの駅や街々を駆けずリ回ってさんざん探したのですが遂に見つかりませんでした。家族は偶然通りかかった日本軍のトラックに助けられハイラルの大きな要塞の片隅に隠れていたのです。悲しいすれ違いでした。
しかし2008年にソヨルジャップは藤田の家族が無事だったと知ったのです。藤田藤一の妻、そして長女の明巳さん、その妹2人、合計4人が1946年に無事帰国したことを知ったのです。
細川呉港さんは即刻、そのことを手紙でソヨルジャップさんへ伝えます。
そして細川呉港さんはソヨルジャップに頼みました。藤田さんの遺族へ、戦死した藤田少尉の思い出を送るように何度も頼みました。
(4)何故かソヨルジャップは藤田少尉の家族に会わなかった、そしてモンゴルの空へ旅立った
しかしソヨルジャップからは一切手紙が来ません。手紙が来ないままソヨルジャップは2011年3月6日に肺ガンで息を引き取ります。
3月12日、ソヨルジャップのお葬式は中国のモンゴル自治区のフフホトでとりおこなわれます。細川さんと数人の日本人、そしてソヨルジャップを尊敬しているモンゴル人、数十人が参列したそうです。昔のハイラルからも遠路はるばる10人ほどが参列したそうです。
そして細川さんが日本へ帰る前の日にソヨルジャップの妻、オヨンフさんが一通の封筒を細川さんへ渡したのです。夫のソヨルジャップが金沢に暮らしている藤田さんの長女の明巳さんへ届けくれと言って息を引き取ったと言うのです。中にはモンゴルの草原での生活を切り詰めて貯めた5万円のお金が入っていました。
手紙を書いて藤田さんの思い出を長女へ送ることは簡単です。そして藤田さんの家族をついに見つけられなかったことを謝るのは簡単なことです。しかしソヨルジャップにはそれが出来なかったのです。あまりにも深い心の傷だったのでしょう。混乱した心で出来ることは現金の入った封筒を残された妻に託すことだけでした。
ソヨルジャップの苦しみを考えると彼も憐れです。そして藤田一家との美しい絆の強さに感動します。国境を越えた強い人間の絆です。
葬儀の4ケ月後、チベット密教で有名な中国青海省のタール寺の僧侶の司式でソヨルジャップの散骨が行われました。散骨の場所はホロンバイル草原のモンゴル人の聖地、聖なる山、ボグド・オーラ(仏の山)のなだらかな南斜面の草原です。
親類や縁者が集まって天と地に祈ったあと、ソヨルジャップさんの白い骨をまき散らせたのです。日本から行った細川さんも砕かれた白い粉を両手ですくいあげます。白い粉は細川さんの指にまとわりつき離れようとしません。
小さな骨は緑の草の中に落ち、白粉は風に舞ったそうです。広い天空は何処までも蒼く、白い雲が遠くまで帯のように流れています。こうしてソヨルジャップさんの魂は希望通り故郷の草原に帰ったのです。それは日本人を愛したひたむきな美しい生涯でした。(完了)
今日の挿絵の写真はモンゴルの風景写真です。