後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「夏が来ると思い出す戦争、そして現在の世界の現実」

2021年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和20年8月15日正午、終戦の玉音放送は疎開先の田舎の小学校の校庭に整列して聞きました。夏の陽が照り付ける暑い日でした。
夏が来ると先の戦争のことを思い出します。そして特攻隊と米軍の大きな損害を思い出します。その思い出の一方、現在の世界中に軍事基地を展開しているアメリカのことを考えています。これが現在の世界の現実なのです。
世界には真の平和が無いのです。こんな現実だからこそ昔の戦争の悲惨さや残酷さを思い出すことが重要ではないでしょうか。
そんな想いで今日も昔の戦争の愚かさ残酷さをもう一度書いて書きたいと思います。平和を願う方々がご覧になるように祈ります。

まず特攻関連の戦死者から考えてみましょう。特攻隊関連の戦死者は14,009名だったのです。
2008年10月現在確認されている特攻隊員戦死者数は次の通りです。
海軍合計、4,156名。陸軍合計、1,689名。
この他に第二艦隊戦没者、回天を搭載して出撃し未帰還となった母艦潜水艦搭乗員などその他合計、8,164名。
以上を合計すると14,009名を数えるのです。(Wikipediaの特別攻撃隊より引用しました)

1番目の写真は1944年10月25日、神風特攻隊敷島隊の零戦の特攻で搭載燃料と弾薬が誘爆して爆沈した護衛空母セント・ローです。以下の写真の出典は、「https://ja.wikipedia.org/wiki/特攻で損害を受けた艦船の一覧」です。

2番目の写真は1944年10月30日神風特攻隊葉桜隊の零戦1機の特攻を受け艦載機が次々と炎上している軽空母ベローウッドです。奥は同じく特攻で炎上する正規空母フランクリンです。
写真のように特攻隊は連合軍の艦艇を沈めたのです。沈めた連合国軍の艦船と損害の概略は以下の通りでした。(出典は、http://kokoteikoku.web.fc2.com/Zakki/Senka.html です。)
太平洋戦域で沈んだ連合国軍の艦船です。
戦艦4隻
空母4隻
軽空母2隻
護衛空母(軽装備の空母)5隻
重巡洋艦11隻
軽巡洋艦6隻
駆逐艦74隻
護衛駆逐艦(軽装備の駆逐艦)4隻
潜水艦60隻
日本の潜水艦が撃沈した連合国商船184隻(907000総トン)
爆撃や砲撃などで沈めたものは不明
以上の表で注目すべきはイギリスの潜水艦4隻とオランダの潜水艦8隻が沈んでいることです。
多くの戦後教育を受けた日本人は太平洋地域で連合国側がイギリス、とオランダを含めて、これだけ数多くの悲劇が起きたことを知りません。
そして太平洋戦争に巻き込まれ戦没したアジア人は少なくとも1000万人以上と想像されています。
この昔の戦争の残酷さをもう一度思い起して、世界に真の平和を作るように努力すべきです。

毎年、8月になると広島や長崎の原爆の犠牲者の慰霊祭が行われます。そして8月15日には東京の武道館で天皇陛下、皇后陛下もご出席し、300万余の犠牲者の慰霊祭を行います。このように全国で慰霊祭をし、平和を祈る8月も間もなく来ようとしています。
しかし現在の世界の現実を考えると暗澹たる気持ちになります。世界中に展開している米軍基地の現実を考えると暗い気持ちになるのです。

3番目の写真は全世界に展開している多数の米軍基地の分布図です。出典は、http://manaoki.seesaa.net/article/388804731.html です。
これを見ると米軍があたかも全世界を占領しているように見えます。1990年頃のソ連の崩壊で米軍基地が昔の共産圏まで広がっているのです。
その米軍関連の海外駐留者は144万人の多数です。それらの米軍基地は先端技術に支えられた最新鋭の装備を誇っているのです。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D をご覧下さい。
2008年の統計です。現役軍人数:144万人、予備役 149万人で順位は世界第一位だそうです。
そしてアメリカ軍の管轄地域は次のように全世界を覆っているのです。
管轄地域別の一覧;
アメリカ北方軍(USNORTHCOM)- 北米担当
アメリカ中央軍(USCENTCOM)- 中東担当
アメリカアフリカ軍(USAFRICOM)- アフリカ担当
アメリカ欧州軍(USEUCOM)- 欧州担当
アメリカ太平洋軍(USPACOM)- アジア・太平洋地域担当
アメリカ南方軍(USSOUTHCOM)- 中南米担当
以上のようにアメリカ軍の規模は非常に大きく、そして全世界を管轄しているのです。
最新鋭の装備の様子を写真でその一部を示します。

4番目の写真はアメリカ海軍の核弾頭ミサイル発射が可能な駆逐艦群です。

5番目の写真はアメリカ海軍の12隻の航空母艦の一隻です。アメリカ海軍は航空母艦打撃群を12編成も保有しているのです。

6番目の写真はレーダーに捕捉されないステルス戦闘機です。

7番目の写真は多量の軍事物資を迅速に輸送し前線へ落下傘で投下している様子です。
これらの写真のような先端的な装備を持っているアメリカ軍が世界に展開して駐留しているのです。全世界の人々が真に平和を祈っても地球上を覆う米軍基地があるというのが現実です。その上、近年は中国が台頭しアメリカと軍拡競争をしているのです。
この悲しい現実がある限り戦争が起きる可能性が常にあると考えざるを得ません。
平和を保つためには中国の政策も研究して、中国の動きも考慮に入れアメリカに根気よく外交的な働きかけを続けなければなりません。それは困難な道です。
日本の平和、そして世界の平和を少しでも実現するためには同時に国際友好を築くためのあらゆる努力をすることも重要です。

全国で慰霊祭をし、平和を祈る8月も間もなく来ようとしています。

今日は皆様とご一緒に、「世界に真の平和が来ますように!」とお祈りしたいと思います。後藤和弘(藤山杜人)

「美しい蓮の花の写真を見つけたのでお送り致します」

2021年07月19日 | 写真
蓮の花は夏の風物詩です。大きな花が夏風にユラユ揺れている光景に魅了されます。あちこちの蓮の花の写真が掲載されているブログを見ていたらとても美しい写真を見つけました。

https://www.go2park.net/photo/kodaihasu_flower.html?fbclid=IwAR3u94jTC54SAAxtKASPHRAE8NR6MXXXA8OFAsqKPS2qEVHp6w3f53GT2R8 から5枚の写真をお借りしてお送り致します。撮影場所は行田市の古代蓮の公園です。










「我が町、小金井市の旧石器時代からの歴史」

2021年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム
我が町、小金井市は東京都のほぼ中央で武蔵野台地の南西部にあります。都心から約25キロメートル西方にあります。この小金井の中町には3万年前の旧石器時代の石器と4500年前の縄文時代中期の環状集落跡が出土した「中山谷遺跡」があります。

1番目の写真は写真は小金井市の北西の半分です。西には奥多摩の山々が連らなって見えます。南西には丹沢の山稜があり、その上に富士山が見えます。小金井駅前のイトーヨーカドーの8階から自分が撮りました。
小金井市の隣には小平市があり、国分寺市や府中市もあります。少し足を伸ばせば相模原市もあります。これらの町からは旧石器時代の石器や縄文時代の土器が沢山出てきます。大げさに言えば、ザクザク出て来たのです。
ですから関東平野には約4万年前の旧石器時代から人間が住んでいたのは明確な事実です。しかし人口は非常に少なかったのです。でも縄文中期の温暖期には日本全国の人口が30万人くらいまでに増加したようです。しかし縄文時代の終り頃の寒冷期にはまた減少します。
そして稲作の始まる弥生時代からは増加する一方になりました。このような人口密度を考えながら以下をお読み下さい。
当時の小金井市の周辺には、クヌギやカシワやコナラのような雑木林が昼なお暗く平野を覆っていたのです。そしてその森の中にはイノシシやシカやキツネやタヌキが沢山棲んでいたのです。
人口が非常に少なかったので、食料にするイノシシやシカが簡単に落とし穴で捕らえられました。夏や秋になると野生の果物や栗やクルミも豊富に実ります。
森の切れる開けた土地には石器時代や縄文時代には竪穴住居が散在していたと想像できます。

2番目の写真は縄文時代の家です。小金井にもこのような家が集落を作っていたのです。
縄文時代中期の環状集落跡が出土した「中山谷遺跡」から2m50cm下の約3万年前の関東ローム層から多数の石斧、鏃や石器道具が出て来たのです。ですから現在の小金井市には旧石器時代の約3万年前から人間が住んでいたのです。
そして約4500年前の環状集落跡を見ると家々が広場の周りに建っています。そして広場の中心が墓地になっていました。
住居跡からは多数の土器や石器や耳飾りが出てきました。
そして住居の土間の下からは亡くなった乳幼児を入れて葬った埋甕が完全な形で出て来たのです。乳幼児が死ぬと悲しくて家の外に葬ることが出来なかったのです。
この「中山谷遺跡」は小金井市の古代の歴史を物語る貴重なものですが、残念ながら展示施設がありません。

小金井の弥生時代の遺跡や古墳時代は人間があまり住んでいませんでした。しかし隣の府中市には立派な石造りの熊野神社古墳が現存しています。
紀 元 1100 年 の頃から小金井の武蔵野台地の下の野川に沿って集落ができ始めたと言われています。それから100年位たってから鎌倉時代の1205年に小金井神社が天満宮として創建されたのです。

3番目の写真は現在の小金井神社です。小金井神社は旧小金井村の鎮守でした。元久2年(1205)に天満宮という名で創建され、菅原道真を祭神とする神社でした。古くから小金井村の鎮守で、明治3年に小金井神社と改称されたのです。
現在の小金井市は明治維新の後、小金井村として発足しました。そして昭和12年に小金井村が小金井町になったのです。その後、昭和33年10月1日に小金井市になったのです。
詳しくは明治維新後の明治22年、町村制の施行により、小金井村、貫井村、貫井新田、小金井新田、梶野新田、関野新田、十ヶ新田に、下染屋、押立、人見、本多新田、是政、上石原の飛地を加え、現在の市域とほぼ同じ小金井村を発足したのです。昭和12年2月11日には町制を施行しています。
私どもは小金井市に1964年の東京オリンピックの前から住んでいます。長年小金井市に住んで良かったことはここに広大な都立小金井公園と都立武蔵野公園があることです。

4番目の写真は都立小金井公園です。私が1964年に引っ越して来た頃は公園の広さに驚いたものです。小金井の北にあり自宅から近いのでよく散歩に行く公園です。園内には雑木林と芝生が広がり1,800本の桜も植えられています。お正月には凧揚げが盛んです。定期的にフリーマーケットも開催されています。

5番目の写真は都立武蔵野公園です。小金井の南にあり自宅から少し離れているのでよく車で遊びに行く公園です。この公園は驚いたことに昭和45年、1970年まで水田だったのです。小金井市の南半分は、崖下を流れる野川の両岸は水が豊富だったので江戸時代から水田地帯になっていたのです。
そしてその水稲栽培は戦後もそのまま続き、1970年、昭和45年まで米の生産地だったのです。写真は現在の武蔵野公園の様子で、水田の跡地です。

今日は我が町、小金井市の旧石器時代から現在までの歴史を簡略にご紹介致しました。隣の府中市には旧石器時代から多くの人が住んで武蔵野の中心的な場所だったことに比較すると小金井は人の希薄な土地だったのです。やっと鎌倉時代になってから野川沿いに集落が出来始め小金井神社が出来たのです。江戸時代は小金井村、貫井村、貫井新田、小金井新田、梶野新田、関野新田が出来たのです。
さて皆様はご自分のお住まいの場所の歴史をご存知でしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)