後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「気楽なキリスト教のよもやま話」

2021年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム
キリスト教は仏教とずいぶん違います。なんとなく仏教になじんでいる日本人には親しみを感じられません。
そこで今日は気楽にキリスト教のよもやま話をあれこれ書いてみたいと思います。読めば少し身近に感じられるかも分かりません。
さてキリスト教は中東のユダヤの町のナザレの大工、ヨゼフの倅のイエスが作った宗教です。当時はその地方では人の姓名は名前だけで呼んでました。日本の江戸時代と同じです。武士だけが苗字を持っていました。昔は外国もそんなものでした。
キリスト教には約2000年の歴史があります。大雑把に言えば古いキリスト教は旧教と言い、宗教改革以後のものを新教と言います。
宗教改革は16世紀に起きました。腐敗しきったキリスト教の革新運動でした。ルターの批判がきっかけとなったキリスト教の革新運動でした。そして新教の諸派が出来たのです。この革新運動で旧教の諸派も革新されたのです。
新教では、福音ルター派教会やカルヴァン派 やアーミッシュ教会などなど実に数多くの新しいキリスト教の宗派が生まれたのです。
一方旧教の諸派はカトリック教会やロシア正教などなどです。
現在の世界には新教の諸派と旧教の諸派の両方が並んで存在しています。日本にも全てあります。一方仏教でも天台宗や真言崇の古い仏教が鎌倉時代に革新され曹洞宗や法華教宗派や念仏宗などなどが生まれました。これ考えるとキリスト教の宗教改革にも親しみを感じます。

さてキリスト教と仏教を比較して一番違う点はキリスト教には毎週礼拝式があるが仏教には無いことです。礼拝式は旧教のカトリック教会ではミサと呼んでいます。そこで以下ではミサの内容を簡単に記します。

1番目の写真はミサの光景です。ミサでは聖歌を歌い、皆が一緒に祈ります。2000年前にイエスが教えた言葉どうりの祈りをします。そしてイエスの肉に見立てたパンを神父さんから貰って食べます。

2番目の写真は神父が信者の一人一人へ小さなパンを手渡している光景です。神父は「イエスの体」と小声で言ってパン片を信者へ渡します。信者は「アーメン」と言ってパンを受け取り、口に入れます。こうしてカトリックの信者はミサ毎にイエス様の肉を頂いて食べるのです。

カトリック教会では通常毎週のミサを特別な祭日のミサにすることがあります。クリスマスのミサ、復活祭のミサ、聖霊降臨のミサなどです。
間もなく8月15日の聖母被昇天の祝日がやって来ます。イエスを生んだ母はマリアです。彼女の死後神がマリアを天国に上げてくれたのです。その事を祝う祭日が聖母被昇天の祝日です。
8月15日に聖母マリアの昇天を祝う習慣は5,6世紀頃からあったのですが、それを教皇ピオ十二世が1950年11月1日に世界中のカトリック教会の正式な被昇天の祝日として公布したのです。キリスト教は一神教ですが、聖母マリアは人々に深く愛され信仰の対象だったのです。

3番目の写真はラファエロの傑作として有名な聖母子の絵です。漆黒の背景から浮かび上がる聖母マリアと幼子イエス・キリストを描いたものです。1505年頃の作です。

4番目の写真はGuillaume Courtois 作、17世紀です。天使たちに支えられて飛翔しているかのようなマリアを描いた絵です。

5番目の写真はグイド・レーニ作、1617年です。
レーニが後年に描いた聖母の被昇天は十二使徒とマリアの二段構造になっています。
マリア様被昇天の絵画の出典は、http://mementmori-art.com/archives/23171141.html です。

さて以上のことを仏教と比較してみます。仏教では釈迦の肉体と見立ててパン片など絶対に食べません。仏教では釈迦の母の摩耶夫人のことは信仰の対象ではありません。仏教とキリスト教はあまりにも違います。しかし両者の教えの目的は同じなのです。悩み多い人間を悩みや迷いから解放して幸せにするのが目的です。苦しむ人間の救済が目的なのです。キリスト教では神の愛が人間の救いです。仏教では解脱と悟りの境地が人間の救いなのです。

今日は気楽にキリスト教のよもやま話を気の向くまま書いてみました。皆様のご意見を頂けたら幸いです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「涼しげな夏の大雪山の高山植物の花畑の写真」

2021年07月21日 | 写真
日本列島は真夏です。毎日暑い日が続きます。皆様もこの猛暑に参っていると存じます。そこで北海道の大雪山の高山植物の花畑の涼し気な風景写真をお送り致します。写真の出典は、https://tabisuke.arukikata.co.jp/album/13771/ と、https://activityjapan.com/publish/plan/26853 などです。









「写真とともに案内する美しい猪苗代湖と鶴ケ城」

2021年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は写真をまじえて美しい猪苗代湖と鶴ケ城への旅をご案内したいと思います。豊かなローカル文化のある会津盆地への旅です。碧い猪苗代湖の向かうに磐梯山が聳えています。湖の西には白亜の鶴ヶ城が夏の陽に輝いています。
この美しい会津盆地に旅したのは2017年の8月のことでした。
猪苗代湖は40年位前に大学時代の友人の大きなヨットで花春カップレースに3回参加した思い出があります。
そして会津城やその城下町は何度も家内と行った楽しい曾遊の地です。
会津城の天守閣の下に蒲生氏郷が建てた茶室、 麟閣があるのです。福島県指定重要文化財になっています。そこで家内と抹茶を楽しみました。そして飯盛山の麓には御薬園があり、そこにも風雅な茶室があるのです。
鶴ケ城と呼ばれている会津若松城は維新戦争で落城し、少年だった白虎隊17人が飯盛山で自刃した悲しい歴史があります。会津松平家の第14代当主、松平保久が維新軍へ対して激しく抵抗したために起きた悲劇です。
それでは写真を示しますのでお楽しみ下さい。

1番目の写真は猪苗代湖と磐梯山の写真です。出典は、http://www.yae-mottoshiritai.jp/seishin/inawashiroko.html です。

2番目の写真は夏の猪苗代湖とヨットの写真です。大学時代の友人の星野君とこの写真のような彼のヨットに乗り湖を何度も帆走しました。そして「花春カップ」というクルーザーレースへ3回ほどで出ました。星野君とは、仙台の大学の専門課程の1957 年と1958年に机を並べました。写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/theearth99/17541627.html です。

3番目の写真は猪苗代湖の西南岸のヨットの係留風景です。今は亡き星野君もここにヨットを係留していました。彼のヨットはヤマハ29という楽しい構造のクルーザーです。船体の真ん中の甲板に操縦席があります。その後ろのキャビンへ降りてゆくと大きなパーティ向きの部屋があり、簡単な炊事用具もついています。
船尾が大きく湾曲して張り出していて、そこに大きなガラス窓が横並びについているのです。シャンパンやビールを飲みながら、美しい猪苗代湖が風波を立てている様子が眺められのです。写真の出典は、http://ameblo.jp/normanhiga/entry-11034780813.htmlです。

4番目の写真は会津城の天守閣の写真です。天守閣に上がると美しい会津盆地が一望できます。これを建てた蒲生氏郷は天正18年(1590年)に秀吉によって会津に移封され42万石の大名になったのです。写真の出典は、http://tsurukan.com/diary/2011/04/post-166.html です。

5番目の写真は天守閣の下にある蒲生氏郷が建てた茶室、麟閣の写真です。福島県指定重要文化財です。ここで家内と抹茶を頂きました。出典は、https://kojodan.jp/castle/23/photo/9639.html です。

6番目の写真は御薬園の写真です。ここにも風雅な茶室があり家内と抹茶を頂きました。
写真の出典は、https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g780850-d1383988-i227481625-Oyakuen-Aizuwakamatsu_Fukushima_Prefecture_Tohoku.html です。

7番目の写真は白虎隊17士の墓の写真です。会津若松城は維新戦争で落城し、少年だった白虎隊17人が飯盛山で自刃したのです。出典は、https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g780850-d5970066-i261998837-Byakkotai_s_Tomb-Aizuwakamatsu_Fukushima_Prefecture_Tohoku.html です。
さて会津盆地の旅で泊まるホテルや旅館は会津若松市の駅周辺が便利です。しかし少し足を伸ばして東山温泉に泊まるのをお薦めします。
東山温泉は鶴ヶ城から南東に約3km、湯川沿いに温泉宿・ホテル計20軒以上が営業しています。湯量は毎分1,500リットルです。現在でも芸妓が活躍しており「からり妓さん」として温泉街に花を添えているそうです。開湯は8世紀後半で行基によってなされたと伝えられています。江戸時代には会津藩の湯治場として栄え会津若松の奥座敷として発展しました。私どもは庄助の宿 瀧の湯にも泊まりました。会津民謡に登場する小原庄助ゆかりの温泉と言われています。

今日は写真とともに美しい猪苗代湖と鶴ケ城をご案内致しました。また東山温泉に泊まるのことをお薦めしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==================
(1)会津盆地の古代史
会津盆地の古代史を書いておきます。出典は、https://www.aizukanko.com/kk/aibase/01shirou/rekishi/rekishi_01.htm です。
1万年以上前に打製の石器を用いる人々が住んでいました。(大沼郡会津高田町・耶麻郡高郷村 塩坪遺跡)
塩坪遺跡から出土した石器は福島県でも代表的な旧石器時代 の遺跡で、今から15,000~14,000年前のものと考えられています。この遺跡は、見晴らしがよく水の便も 良い阿賀川の河岸段丘の上にあり、直径10mほどの範囲から約2,000点の資料が発見されています。
当時の人々は、土器を作ることを知らず、打ち欠いただけの石器を用いて狩りや動物の解体を行っていたと考えられています。
そして縄文時代(7,000年前ごろから2,500年前頃)になると磨製石器や縄文式土器が使用され始めます。
はじめの頃は東北や北海道に近い形の土器が使われていたが、次第に関東や北陸地方の影響を受けた文化が進み、土器の種類も増え美しい文様をつけたものが現れます。人々はたて穴住居に住み、狩りや漁などをして暮していたのです。(耶麻郡塩川町常世・耶麻郡  高郷村夏井など)
時代が下り弥生時代の2,000年ぐらい前になると弥生式土器が使われ、稲作が行われるようになりました。
やがて鉄器も使い、湖周辺の低地にも住むようになります。貧富の差や階級が出始めた様子です。
それが大和(古墳)時代になると4世紀末頃から会津にも大和朝廷の支配をうけた豪族が現れ、大塚山古墳(会津若松市)や亀ヶ森古墳(会津坂下町)が築かれたのです。
「古事記」に記された四道将軍の記事に「相津(アイヅ)」の伝説があり、後に「会津」の地名になります。
その後の5世紀から6世紀には会津各地に古墳が作られます。
特に大塚山古墳 は最大で全長114mの前方後円墳です。
以上のように会津盆地は旧石器時代から人が住み着き、とくに猪苗代湖周辺は稲作が盛んだったようです。
そのお陰で平安時代から豪族の館があり、それが戦国時代の城になり、やがて秀吉の家臣の蒲生氏郷が城主になり現在見られるような大きな規模の会津城を作ったのです。

(2)中世と近世の会津城の歴史:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%9D%BE%E5%9F%8E

中世の館、城郭
1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)、蘆名氏7代当主の蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりとされる。諸説あるが、おそくとも15世紀半ばまでには黒川城(くろかわじょう)、(または小高木城)とその城下が成立していた。以後、代々蘆名氏の城であった。戦国時代中後期には、蘆名氏中興の祖・盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築いた。
1589年(天正17年)、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にした。しかし、政宗は1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられた。

近世の城郭
代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年(文禄元年)より大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。
1593年(文禄2年)、望楼型7重(5重5階地下2階とも、また7重には「何段にも重なる」の意味もある)の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。近年の発掘調査で蒲生時代の石垣の基底部が確認され、鐙瓦(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)、鬼瓦の一部に金箔が貼られたものが出土している。
1598年(慶長3年)、氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封。1600年(慶長5年)、徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝を30万石に下げ、出羽国米沢に移封した。