後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「道奥の幻想的な夏祭り、ねぶたの動画を見て下さい」

2021年07月08日 | 日記・エッセイ・コラム
みちのく青森のねぶた祭ほど幻想的で魅惑的な巨大な張子は他にありません。武者絵や馬や鬼を描いた張子の中に明るい電球が入っていて夏の夜空を舞うのです。兎に角強烈な色彩と太い輪郭線の巨大な灯篭の舞う動きが神秘的で玄妙な動きをするのです。その迫力は見ている人の魂を奪ってしまいます。祭囃子と跳人の腰に着けている鈴の音、掛け声も一層気分を盛り立てます。観ている人も興奮し、この世の祭りでなくなるような陶酔感に浸ってしまうのです。私は青森の「ねぶた」を10年以上前に初めて見た時の驚きと興奮は今でも強烈に覚えています。
このねぶた祭は残念ながら今年もコロナで中止です。そこでねぶたの動画をお送りいたします。次の3つの動画のうちから一つ選んで是非ご覧下さい。なお青森のねぶた祭は例年ですと8月2日まら8月7日まで開催して来ました。

https://www.youtube.com/watch?v=-gGXjEdFjzc
https://www.youtube.com/watch?v=C3IRB7GNKdw
https://www2.nhk.or.jp/archives/michi/cgi/detail.cgi?dasID=D0004990693_00000

ねぶたの不思議な雰囲気は筆舌では絶対に伝えられません。皆様に今日お願いすることは上記のどれかの動画を見て頂きたいことです。ご面倒でもはじめに動画を見て頂きたいのです。お願い申し上げます。
これぞ日本を代表する北国の素晴らしいローカル文化と断言できます。ねぶた祭が大きぼに行われるようになったのは江戸時代の天保年間からと言われています。
下にその青森の「ねぶた」の写真を何枚かお送りします。特に写真に写っている人間の大きさと「ねぶた」の大きさを比較して下さい。ねぶたの巨大さがお分かりになると存じます。
写真は「青森ねぶたの画像」をネット検索して見つけました。また、https://readyfor.jp/projects/nebutashi からも引用しました。なお「ねぷた」は弘前の祭りです。









動画や写真をご覧になれば青森ねぶたこそ日本を代表する北国の素晴らしいローカル文化という表現に同感して頂けると思います。
この先はお読み頂かなくても結構ですが、以下に青森に生まれ育った棟方 志功(むなかた しこう)の作品がねぶたの影響を深く受けていることをご紹介したいと思います。そして末尾の参考資料には古くからあったねぶたの変遷の歴史を詳細に書いた資料をご紹介いたします。
さて、棟方 志功は1903年(明治36年)、刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの三男として生まれました。豪雪地帯出身のため、囲炉裏の煤で眼を病み、以来極度の近視となったと言われています。数々の名作を残し1975年に没しました。
少年時代にゴッホの絵画に出会い感動し、「ゴッホになる」と芸術家を目指したという話は有名です。少年のころから青森市内の善知鳥神社でのスケッチを好んだという話も残っています。棟方の肉筆画作品は「倭画」と言われ、国内外で板画と同様に評価を受けています。
第二次世界大戦中、富山県に疎開して浄土真宗にふれ、『阿弥陀如来像』『蓮如上人の柵』『御二河白道之柵』『我建超世願』『必至無上道』など仏を題材にした作品が特に有名です。
大のねぶた好きであり、作品の題材としても描いています。そして中にはねぶたに歓喜する自身の姿を描き込んだものもあるそうです。
棟方 志功の作品の多くは版画です。暗い北国の風景を表現した版画や天真爛漫とした明るい女性の版画が多数あります。そしてエネルギーのほとばしるような絵画もあります。
しかし全ての作品の低音基調は暗く寒い冬の北国に棲みついているような情念と思います。その情念とは何だと問われても言葉では説明出来ないのです。東北地方に生まれ育った私には判る心の在り方です。それは都会にたいする反発心や洗練されたものに対する嫌悪感などいろいろな心理が混じり合ったものです。
棟方 志功の作品の写真はネットの上で多数見ることができますので彼の作品も是非ご覧下さい。

それはさておきねぶたはコロナで2年連続して中止です。「ねぶた」を毎年制作することで収入を得ている「ねぶた師」にとって、この状況は失業と同じ意味を持ちます。日本の伝統文化である「青森ねぶた祭」自体の存続も危うい状況になっています。この「ねぶた師」を支援する活動を行っている運動もあります。 https://readyfor.jp/projects/nebutashi をご覧下さい。
日本のローカル文化が豊かに伝承するように願っております。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==============
青森ねぶたの歴史: https://artsandculture.google.com/exhibit/ggKyJ5XW32KpLA?hl=ja たの由来・変遷、
青森ねぶた祭は、七夕祭りの灯籠流しの変形であろうといわれていますが、その起源は定かではありません。
 奈良時代(710年~794年)に中国から渡来した「七夕祭」と、古来から津軽にあった習俗と精霊送り、人形、虫送り等の行事が一体化して、紙と竹、ローソクが普及されると灯籠となり、それが変化して人形、扇ねぶたになったと考えられています。
 初期のねぶたの形態は「七夕祭」であったのでしょう。そこに登場する練り物の中心が「ねぶた」と呼ばれる「灯籠」であねぶり、七夕祭は7月7日の夜に穢れ(けがれ)を川や海に流す、禊(みぞぎ)の行事として灯籠を流して無病息災を祈りました。これが「ねぶた流し」と呼ばれ、現在の青森ねぶたの海上運行に表れています。
 「ねぶた(ねぷた・ねふた)」という名称は、東北地方を始め、信越地方「ネンブリ流し」、関東地方「ネブチ流し・ネボケ流し・ネムッタ流し」等の民族語彙分布と方言学から「ねむりながし」の眠りが「ねぶた」に転訛したものと考えられています。
・・・・以下省略。

「懐かしい傑作洋画、『ガンジー』の解説とあらすじ」

2021年07月08日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、次のような4つの記事で懐かしい戦後の映画を29編ご紹介してきました。
「戦後の日本映画全盛の頃を懐かしむ」(021年06月30日 )、「戦後の洋画全盛の頃を懐かしむ」、その一(2021年07月01日 )、「戦後の洋画全盛の頃を懐かしむ」、その二(2021年07月05日 )そして「懐かしい日本映画のポスターと羅生門の独創生」(2021年07月06日 )です。
今日はこれらの記事の続編として懐かしい傑作洋画、『ガンジー』の解説とあらすじをお送り致します。
ガンジーは偉大な思想家でした。人種差別の反対運動を成し遂げた偉大な人でした。アメリカの黒人の公民権運動を指導したキング牧師はガンジーの非暴力主義にしたがって黒人差別撤廃運動をしたのです。
主に参考にした文献資料は、https://www.sonypictures.jp/he/1254 です。
まずこの映画のポスターと映像をお送り致します。









(1)解説
この映画はアメリカ で1982年に作られた ドキュメンタリー映画です。インドの歴史を変えた男、マハトマ・ガンジーの映画です。
第55回アカデミー賞お受賞した上で次の 9部門賞も受賞した傑作でした。
作品賞/主演男優賞/監督賞/脚本賞/撮影賞/美術監督賞/美術装置賞/衣装デザイン賞/編集賞

スタッフは以下の通りです。
製作総指揮:マイケル・スタンリー・エヴァンス
撮影監督:ビリー・ウィリアムズ,B.S.C.
撮影監督:ロニー・テイラー,B.S.C.
脚本:ジョン・ブライリー
監督・製作:リチャード・アッテンボロー
音楽:ジョージ・フェントン
音楽:ラヴィ・シャンカール

そしてキャストは、
キャスト
マハトマ・ガンジー:ベン・キングズレー
マーガレット:キャンディス・バーゲン
ダイヤー将軍:エドワード・フォックス
アーウィン卿:ジョン・ギールガッド
ブルームフィールド判事:トレバー・ハワード
総督:ジョン・ミルズ
ウォーカー:マーティン・シーン
コリン:ダニエル・デイ=ルイス

(2)あらすじ
1948年の独立を勝ち取ったインド。夕刻の礼拝時に大勢のインド人がガンジーを取り囲む中、1人の男がピストルを隠したままガンジーに近づき、ガンジーが祈りを返すなか3発の銃弾が命を奪った。

1893年のイギリス領南アフリカ。列車の一等車に乗っていたイギリス領インド人の青年弁護士ガンジーは、被差別人種である有色人種であるがゆえに三等車に移るように白人の係員に指示されたものの、それを拒否したために列車から放り出されてしまう。

イギリス連邦の一員でありながら不当な差別を行う白人政府に憤ったガンジーは、有力者のカーンたちと協力して抗議活動を行い、有色人種が所有を義務付けられていた身分証を焼却して逮捕される。逮捕されたものの、無抵抗だったガンジーに対して警察が暴力を振るったことに抗議の声が挙がり、ガンジーは釈放される。

釈放後、ガンジーは人種・宗教・階級の垣根を超えたアーシュラム共同農園を作り、イギリスの人種政策に対抗する。ガンジーの元には牧師のアンドリューや記者のウォーカーが集まり、運動は拡大していく。ガンジーは南アフリカ政府が新たに制定した人種政策を拒否するための集会を開き、有色人種を不当に酷使する農場で抗議デモを実施するが、暴動を起こした罪で再び逮捕されてしまう。しかし、ガンジーの活動に注目が集まり抗議の声も高まっていたため、人種政策を制定したスマッツ将軍は政策を撤回し、ガンジーを釈放する。

釈放されたガンジーは第一次世界大戦中の1915年に故郷インドに帰国して、イギリスの植民地支配下で抑圧されていた民衆から大歓迎され、また、ジャワハルラール・ネルーらが率いるインド独立を目指す「インド国民会議」に迎え入れられる。

ガンジーは知見を広めるためインド全土を旅し、やがてイギリスの植民地政府の暴力に対抗するために「非暴力」を掲げて抵抗を開始する。イギリス植民地政府はガンジーを数度に渡り逮捕するが、その都度民衆や新聞の猛抗議を受け彼を釈放する。勢い付いた民衆は各地で集会を開き非暴力運動を呼びかけるが、イギリス軍のダイヤー将軍は集会を排除するために民衆を虐殺し、アムリットサル事件を引き起こす。

ガンジーたち国民会議のメンバーは総督と会談してイギリスからの独立を目指す考えを伝えるが、インド政府高官たちは彼らの宣言を真に受けようとはしなかった。ガンジーはウッド新総督就任を狙いインド全土でゼネストを呼びかけ、インド政府を混乱させる。ウッドは抵抗運動を弾圧し、怒り狂った民衆が暴動を起こして警官を殺害する事件が発生する。ショックを受けたガンジーは抵抗運動を止めるように訴え、断食を実施する。衰弱するガンジーを見たネルーたち国民会議のメンバーは抵抗運動の中止を指示し、ゼネストは終結した。

1930年、ガンジーは十数年振りにウォーカーと再会し、新たな抵抗運動として塩の行進を決行する。ガンジーは塩の専売権をイギリスから取り戻し、インドの独立を訴える。直後にガンジーは逮捕されるが、残された民衆は塩を作り続け、再び非暴力運動を展開していく。第二次世界大戦が勃発すると、ガンジーは反英運動を理由に逮捕され、収監先の刑務所で妻カストゥルバと死別する。戦争の終結後、戦勝国となるも日本やドイツとの戦いで疲弊した上に、大戦中に日本軍の協力を受けて活動していたインド国民軍参加者への裁判に反対するデモなどを受け、もはや植民地支配を続けることができないと悟ったイギリスはインドの独立を承認し、最後の総督としてマウントバッテンが赴任する。

国民会議のメンバーはマウントバッテンと独立に向けた交渉を始めるが、インドでは少数派であるムスリムの権利が侵されることを危惧したジンナーは、インドとは別のムスリム国家の樹立を模索する。宗教対立を望まないガンジーは、ジンナーを独立インドの初代首相としたムスリム内閣を提案するが物別れに終わり、イギリス領インドは1947年に「インド」と「パキスタン」それぞれ別の国家として独立した。

インドが分裂したことを嘆くガンジーは、それぞれの国家に取り残されたヒンドゥー教徒、ムスリムが迫害を受け、その報復として互いが殺し合う姿を見てさらに衝撃を受ける。宗教対立を止めるように訴えたものの、民衆は怒りからガンジーの言葉を聞き入れようとせず、彼を裏切者として弾劾する。ガンジーは対立を止めようと再び断食を行うが、老齢の彼は次第に衰弱していく。首相となったネルーはガンジーを助けるため奔走し、民衆もガンジーの姿を見て我に返り、暴動は鎮静化する。

インドが落ち着きを取り戻した頃、ガンジーは夕べの祈りに出かけ民衆と触れ合うが、彼を敵視するヒンドゥー原理主義者ゴードセーに射殺される。ガンジーの国葬が執り行われ、インド全土から民衆が駆け付け、各国の要人も弔意を示す中、ガンジーの遺体は火葬され、遺灰はガンジス川にまかれた。

「都会の人が憧れる田舎暮らしのロマンと現実」

2021年07月08日 | 日記・エッセイ・コラム
都会に生まれ、そのまま都会に住んでいる人々は田舎暮らしにロマンを感じ憧れます。しかしそれを実行してみると田舎暮らしは厳しいものです。憧れるのは自由ですが現実は楽しいばかりではないのです。
私は山梨県の北杜市に小さな小屋を持っていたので田舎暮らしの厳しさを知っています。
そこで今日は田舎暮らしのロマンと現実をご紹介したいと思います。
まず風景写真を3枚ご紹介したいと思います。

1番目の写真は私の小屋からよく遊びに行った白樺湖と蓼科山の写真です。ここは長野県ですが北杜市の隣りで近いので冬は何度もスキーやスケートを楽しみました。諏訪湖から車山や霧ヶ峰の方へ登った所にあります。

2番目の写真は北杜市白州地区の新しい別荘地区です。不動産会社が開発し都会の人々が移住していますが農業はしていません。後の山は八ヶ岳です。

3番目の写真は八ヶ岳の麓の北杜市に広がる開拓地です。寒冷地で火山灰なので農業に厳しい土地柄です。
こんな場所にある私の小屋へ1975年以来通って来ました。北海道で小さい薪ストーブを買って小屋で使って来ました。薪の燃える音が良いのです。木の香りがロマンを感じさせます。薪ストーブに感動します。小屋の外は美しい雪原です。そして四季折々まわりの森の緑が変わるのです。浅い緑の新緑、黒いような夏の深緑、輝く秋の紅葉。鳥がさえずり、鹿が飛び跳ね、野猿が森に遊んでいます。庭先の小川にはヤマメが見え、清らかな水の上に夏になるとオハグロトンボが飛び交います。これこそ山の小屋のロマンです。
しかし生活は不便で厳しいのです。近くにスーパーが無いので水や食料は車に積んで運びます。薪は雪の林から採って来ます。ノコギリで切ってオノで割ります。とにかく全てが厳しいのです。
しかし私の小屋の近所には別荘があり都会から移住している人々も数多く住んでいるのです。よく観察すると移住しても農業をしている人はいません。庭にキュウリやナスを育てていますがとても自給自足なんて出来ていません。農業を一切しないで都会から引っ越す人も多いものです。
ある時そんな別荘の住人を訪問しいろいろ話を聞きました。
その人の家は白州の尾白の湯の周囲の田圃に囲まれた村落にありました。

4番目の写真は訪問した、K氏の別荘です。
K氏は田舎暮らしに憧れ定年後、都会生活を引き払いご夫婦で引っ越してきて10年以上になるそうです。
K氏の家は都会風の家です。下の方は広々とした水田になっています。 南には地蔵、甲斐駒、北には八ヶ岳、東には金峰山が見えます。

5番目の写真は声楽がご趣味の奥様の作ったカボチャです。奥様はもっぱらガーデニングが趣味でロマンチックな洋風の庭を作り上げています。
よく話を聞いたらK氏は300坪の水田を使っているです。これで毎年7俵(420Kg)のお米が取れるそうです。他に畑も借りて野菜も作っています。米も野菜も完全有機栽培で農薬は使っていません。
農機具や水田はほんの少しのお金で村落の人が貸してくれるそうです。農作業の仕方も親切に教えてくれます。どうもその地区の区長さんと仲が良いようです。
驚いたことにK氏夫妻はほとんど自給自足の田舎暮らしをしていたのです。
 k氏は有名なあるベアリング製造会社の研究所で定年まで働いていて、研究所長をしていたそうで、悠揚迫らない雰囲気です。
家の1階の大きな部屋には高級なステレオ装置とピアノがあります。
一角には食卓用のテーブルがあり、そこに座れば地蔵岳や金峰山が見えます。手前に目をやると芝生と草花の庭があり、その先には水田が広がっています。陽射しが明るい場所で、昔からの村落の端にあります。
ピアノが置いてあっても狭く感じません。奥様は毎月、何度か都会の声楽の先生の所へ通い、ソロの演奏もしています。近くの花白州というペンションに泊まりながら田舎でレッスンの合宿もするそうです。

さてK氏の話から私は以下のような条件の全てが満足されていなければ田舎へ移住し農民と同じ生活をすべきでないという結論にいたりました。
(1)夫婦揃って本当に田舎暮らしが好きで、夫婦がそれぞれ車の運転が出来る。
(2)夫は稲作や農作業が大好きで、自給自足以上の米や野菜を作る決心をしている。
(3)奥さんもガーデニングが好きで、独自の趣味をしっかり持っている。
(4)自宅の中は完全に都会風で、日常の生活が清潔で便利に出来ている家である。
(5)日当たりが良くて、近くにスーパーや病院があるような立地条件になっている。
(6)ゴミ収集や無料の健康診断など市役所のサービスが無くても不平不満を言わない。
(7)村落の地区の区費を毎月出して共同作業に参加する決心をしている。
偶然にお会いしたK氏の暮らしは上の7つの条件を完璧に満たしています。
多くの人々は農作業が好きではありません。 しかし、農作業が好きでも野菜作りまでです。水稲栽培が出来る都会人は少ないものです。
一般的には奥さんが都会に残り、ご主人だけで田舎に住んでいる人が多いのです。こういう場合は家庭を犠牲にしているので長続きしません。
k氏は土地が高価でも日当たりの良い農地を購入し宅地へ変更申請をしたそうです。水田は借りたそうです。
各種のベアリングは現代技術の根幹技術です。この地味な分野の研究をこつこつ努力してきたK氏だからこそ実行出来た「完璧な田舎暮らし」ではないでしょうか?
このk氏はまれに見る自給自足に成功した方です。
とにかく無理をしないで悠々と自然の中で暮らせば幸せになります。自給自足にこだわると大変です。何でもこだわることはいけませんね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)