後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「珍しい海辺の花々」

2021年08月21日 | 写真
珍しい海辺の花々の写真をお送りします。

1番目の写真はハマヒルガオです。
2番目の写真はハマボッスです。
3番目の写真はゴヨウアケビ の花です。
4番目の写真はヤマシャクです。
5番目の写真はアケボノスミレです。
写真の出典は、「清治の花便り」 https://tombee.exblog.jp/25279295/ です。






「北海道の知床と釧路湿原の豊かな大自然の魅力」

2021年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道の魅力は何と言ってもその手つかずの大自然です。神秘的な摩周湖や美しい屈斜路湖です。明治の面影を残す小樽や函館もあります。札幌の大通り公園も広く美しい公園です。生きている火山の昭和新山には驚きます。
この魅力的な北海道は旅心をかき立てます。ロマンチックです。何度も旅を楽しみました。
今日はまず2015年の秋の道東への旅の思い出を書いてみたいと思います。ウトロから知床五湖へ、そして釧路湿原への10月中旬の旅でした。

1番目の写真はウトロの漁港です。写真の中央の岩山に一度だけ登ったことがあります。観光客が登れるように道がついているのです。

2番目の写真は知床五湖の第一湖です。駐車場から幅の広い立派な木道があり一湖までは足が弱い人でも歩いて行けるのです
背景の山並みは知床連山です。天候が変わりやすく冬が近い感じです。

3番目の写真は知床五湖の近辺にいたエゾシカの親子です。エゾシカは沢山見ました。キタキツネも沢山見ました。

4番目の写真は知床五湖の近くにいたヒグマです。この熊は人を恐れずにバスから10m位の所を徐行するバスに従って歩いているのです。数分歩いて写真を撮り終わった頃に林の中に消えて行きました。知床には何度か来ていましたが、ヒグマをこんなに間近に見るのは初めてでした。
知床五湖を見た後は釧路湿原へ行きました。
5番目の写真は高い細岡展望台 から見た釧路湿原です。生憎、霧がかかっていて写真はぼんやりしたものになりました。 

6番目の写真は達古武湖です。塘路湖から国道に上がり、さらに南下すると達古武湖が広がっています。 

7番目の写真は新得町狩勝高原の釧路湿原に続く畑作地帯にいた鶴の一家です。鶴は一生同じ夫婦で過ごし子供も一緒です。
真ん中の首がまだ黒くなっていないのが子供の鶴です。両脇がその両親です。
以上の写真では知床近辺と釧路湿原だけを示しましたが北海道は雄大なのです。その自然の風景を一層引き立ているのが数々の湖です。摩周湖。阿寒湖、屈斜路湖、オネントー、サロマ湖、洞爺湖、支笏湖、などなど枚挙にたえません。これらの美しい湖の写真は別稿でご報告いたします。

この北海道の名前をつけ、アイヌ民族を愛したのが松浦武四郎でした。
アイヌ民族を愛し北海道の各地の名前にアイヌ語を残したのが松浦武四郎でした。
松前武四郎の生涯をご紹介します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%AD%A6%E5%9B%9B%E9%83%8E より抜粋しました。
文化15年(1818年)、伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて郷士・松浦桂介ととく子の四男として生まれる。
松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ来たといわれている。
父親は庄屋を営んでおり、比較的恵まれた中、文化的な素養を身に付けたと言います。
弘化元年(1844年)に蝦夷地探検に出発しました。1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し、その探査は択捉島や樺太にまで及びました。
安政2年(1855年)に「東西蝦夷山川地理取調図」を出版したのです。
明治2年(1869年)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定しました。
このように北海道の地名はほとんど松前武四郎がつけたのです。そして明治21年(1888年)東京神田の自宅で病死しました。
松前武四郎のおかげで北海道にアイヌ語の地名が多数残ったのです。何故か感慨無量です。

今日は北海道の知床と釧路湿原の豊かな大自然の魅力をご紹介いたしました。

それはそれとして、
 今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)