後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「若い時のアメリカ留学で私の愛国心が強くなった」

2021年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム
私はフルブライト留学生として1960年から1962年まで、オハイオ州立大学の金属工学科に留学しました。
その時アメリカ人はいつも私を励ましてくれ、好意溢れる支援を惜しみなく与えてくれたのです。
例えば博士過程を卒業するために実験装置を作ったときのことを思い出します。その装置の完成には大学に付属の機械工場のニールさんという職人がひどく親切に協力してくれたのです。そして学科主任のフォンタナ教授も私の勉強を励ましてくれたのです。

1番目の写真はロードホールという建物です。その一階の右の部屋に私の実験装置を作りました。機械工場のニールさんが協力してくれたのです。

そしてもう一つの忘れ得ぬ経験は、指導教官のセント・ピエール教授夫妻が我々の結婚式の仲人をしてくれたことです。 妻を日本から呼び寄せ、オハイオで結婚式を挙げたのです。それは1961年のことでした。
アメリカ人の親切さは留学した大学の人だけでなかったのです。見ず知らずの人も困っている私共を助けてくれたのです。

2番目の写真はオハイオ・キャバーンという鍾乳洞の入り口です。右の建物の中のエレベーターで降りると巨大な鍾乳洞がありました。
そこへ新婚の家内と行ったとき車が故障しました。周りはぼうぼうたるトウモロコシ畑です。人っ子一人いません。すっかり途方にくれていたら一台の車が通りがかったのです。
若い男が私の車のボンネットを開け、これは重症だと言います。そしてロープで私の車をかなり遠方の町の修理屋まで引っ張って行ってくれたのです。この様な体験は数回しました。

3番目の写真はぼうぼうたるトウモロコシ畑です。トウモロコシを刈り取った後で何もありません。こんな誰もいない場所で車が故障してしまったのです。
老境にいたった今、それらを静かに思い返しています。
当時のアメリカ人は日本人を蔑んでいなかったのです。いや尊敬すらしていました。理由は簡単です。日本は勇敢に戦い手強い相手だったのです
私はアメリカに留学した影響で終生変わらない愛国心を持つようになりました。
日本に生まれた幸運に感謝しました。祖国日本を懐かしみ大切に思うようになりました。どこの国より愛しています。
最近、中国や韓国の悪口を言うのが愛国心と思っている人々もいるようですが、私の愛国心はそのように偏狂ではない大らかなしかし熱烈な情念なのです。
そのような愛国心を終生持つようになった原因は多数の民族が混じって国を作っているアメリカ合衆国に住んでみて、その中で体験した強烈な人種差別の影響を受けたことにあります。
1960年に留学したアメリカでは強烈な黒人差別をしていました。
オハイオ州の州都、コロンバスに留学した大学がありました。その町でも白人と黒人の住む地域がはっきり別れています。バスに乗ると前半分が白人席で後半分が黒人席と決まっていました。間に仕切りがあります。はじめてバスに乗った時、何の気なしに後半分の席に座りました。とたんに近くの白人男性が寄って来て、私の腕をつかみ、前半分の一番後ろの席に座らせました。黒人差別のルールを破ってはいけないのです。
コロンバスでは映画館もレストランも黒人用は別でした。
留学した大学は白人しかいません。親しくなった白人の同級生が黒人との付き合い方を真剣に教えてくれました。黒人と個人的に親しくなってはいけない。一緒に並んで道路を歩いてはいけない。毎日家々にゴミ集めに来る黒人には絶対にサンキューと言ったり話しかけてはいけない。黒人地域はアパートが安いからと住み込んではいけない。こんな調子でした。
私が留学した1960年から1962年のアメリカは人種差別の強い時代でした。

太平洋戦争の悲惨さと悪は議論すればキリがありません。しかしその戦争のお蔭でアメリカ人は私の留学を支援してくれたのです。
私が留学した1960年代のアメリカの風景写真を2枚お送りいたします。ネットで「アメリカの風景写真」を検索してお借りした写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)



「昨日撮って来た花々の写真です」

2021年08月13日 | 写真
昨日は東京都立武蔵野公園と三鷹市「花と緑の広場」に散歩に行きました。家内が撮って来た花々の写真をお送りいたします。始めの3枚は花と緑の広場で撮り、後の2枚は武蔵野公園で撮りました。









「8月15日、日本中の焼け野原、マリア様の被昇天と平和祈願ミサ」

2021年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム
明後日の8月15日は太平洋戦争の終戦記念日です。
日本の300万人におよぶ戦争犠牲者の鎮魂を祈る日です。そしてアジアの2千万人とも言われている犠牲者の冥福を祈ります。ヨーロッパ戦線での何千万人の犠牲者に心を寄せる日です。
この同じ日にカトリックでは愛と平和のシンボルのマリア様が天に上げらたのです。8月15日はマリア様の被昇天を祝い平和祈願ミサを行います。この世の平和を祈る日なのです。

今日は76年前の日本中の焼け野原の風景と長崎の大浦天主堂でのマリア様の被昇天の日の平和の祈りの写真をお送り致します。
終戦当時私は9歳、国民学校の3年生でした。1945年7月10日の明け方、故郷の仙台市が一面紅蓮の炎を上げて燃えているのを高台から何時までも見ていました。仙台の空には低空でゆっくり飛んでいる B-29が何機も見えます。その機体が下の部分が一面の炎で白く光っています。仙台の写真をご覧下さい。

1番目の写真はすっかり焼け野原になってしまった仙台市の写真です。
仙台市の南の高台の向山に家があったので防空壕から抜け出して、広瀬川の崖の上に立ちました。足元の広瀬川の北側の市街地が一面に燃えています。10日の午後に燃え尽きた中心街まで歩いて行きました。まだ荼毘に付していない黒焦げの遺体が道端に数体ありました。
インターネットで仙台空襲のことを調べますと次のように書いてあります。
・・・7月9日、アメリカ陸軍航空軍第20航空軍所属の第58爆撃飛行団に出撃命令が出され、日本時間の午後4時3分、B-29、131機がテニアン西飛行場を離陸し出撃した。不具合で引き返したものを除く123機が仙台に到達した。
7月10日午前0時3分、高度約3,000メートルより、2、3機から5機くらいの編成で25波に分かれ、仙台市内を約2時間にわたって空襲した。
焼夷弾10,961発による絨毯爆撃と高性能爆弾8個により、仙台市中心部は焦土と化した。市街地が焼け野原と化したため、「仙台駅から西公園が見えるようになった」との体験談が語られている。被害は、死者2,755人、被災人口57,321人(全市の約26%)、被災戸数11,933戸(全市の約23%)にのぼり、東京以北の都市では最大規模となった。・・・

このような米空軍による無差別空襲は全国の都市に対して1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続きました。
そして全国(内地)で200以上の都市が被災し、焼け野原になってしまったのです。そして多くの国宝・重要文化財も焼失したのです。
全国の空襲による犠牲者は、原爆の犠牲者約20万人を含めて50万人と言われています。

もう一度書きます。全国津々浦々の200の市町村が空襲されたのです。そしてその空襲による犠牲者は50万人もあったのです。その様子を示す写真をもう2枚示します。

2番目の写真は焼け野原になった甲府市の様子です。

3番目の写真は東京の亀戸の空襲後の写真です。
このような一般市民を対象にした無差別攻撃は3月10日の東京大空襲から本格的に開始されました。攻撃のためには多数の焼夷弾を束ねた大きな焼夷弾束で行ったのです。焼夷弾束は落下途中でバラバラの焼夷弾に分かれ同時に多数の家に火をつけたのです。燃えやすい日本の家屋は実に簡単に燃え上がったのです。
このような一般市民に対する無差別攻撃は、ボーイングB-29による爆撃のみならず、英米の機動部隊艦載機や硫黄島などからの攻撃機による爆撃や機銃掃射というかたちでも行われました。

その上、沿岸部の都市では艦砲射撃によっても攻撃されたところもあるのです。釜石や室蘭は徹底的な艦砲射撃も行われ、日立、清水、浜松など製鉄所や軍需工場がある工業都市が攻撃されました。
また、B-29は関門海峡や主要港湾への大規模な機雷投下も行い日本の海上輸送を妨害したのです。外地でも、1945年5月31日には台北へも大空襲が行われたのです。
アメリカ軍は日本本土の徹底的な焼失攻撃と破壊攻撃を繰りかえしたのです。そして広島と長崎の原爆投下でとどめを刺したのです。
明後日は8月15日です。このような戦争の悲惨さを忘れることなく子々孫々に伝承し、平和を守って貰いたいと思いまます。

そして8月15日はマリアさまの被昇天の日でもあります。 マリアさまが天に上げられた日を祝い平和を祈る日です。
ミサの中の「共同祈願」の一つとして次のようなお祈りをします。
「終戦の日にあたり、戦争の惨禍と多数の人の犠牲を思い起こし祈ります。主の愛の教えを心にとめ、戦争の根を絶つために、すべての力を注ぐことができますように。」そしてマリアさまのお取次ぎによってこの世界に真の平和がくるように祈ります。

4番目の写真は長崎の大浦天主堂の写真です。

5番目の写真は浦上天主堂の2014年8月9日の夜の平和祈願ミサの風景です。
カトリック長崎大司教区は2014年8月9日(土)20時から浦上教会で、髙見三明大司教主司式による平和祈願ミサを行いました。テーマは「明日へつなごう平和の願い」でした。 集まった約1,000人の信者らは、被爆マリアと共に、世界平和とすべての戦争犠牲者のために祈りました。
日本全国のカトリック教会では毎年8月15日のマリア様の被昇天の祝日に平和祈願ミサを行います。今年も明後日の8月15日に平和祈願ミサを行います。

今日は76年前の日本の焼け野原の風景と長崎の大浦天主堂でのマリア様の被昇天の日の平和の祈りの写真をお送り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)