山梨県北杜市の甲斐駒山麓の林の中に小生の小屋があります。
その近所では驚異的な縄文土器が沢山見つかっています。原始的な農耕も始まりした。縄文農耕が始まったのです。
北杜市の八ヶ岳山麓には約5000年前、縄文文化が華々しく栄え、畑作農耕さえ始まっていたのです。
しかしよく調べてみると、あれほど隆盛だった北杜市の縄文文化も縄文後期の急激な寒冷化で衰退してしまったのです。
それに入れ替わるようにして甲府盆地には弥生文化(紀元前300年から紀元後300年)が入ってきて、水田耕作が始まったのです。当然、生活の安定を求めて縄文人が山を下り、現在の韮崎市の湿地帯や甲府盆地で稲作を始めるようになったと推定されています。
時代はダイナミックに変化したのです。
さてそれではこの水稲栽培は何処から導入されたのでしょうか?いろいろな経路が想定されますが、一番自然な経路は静岡県から富士川を遡って甲府盆地へ伝えられたと考えられます。ただし、これは私の想像で学問的結論で
はありません。
そこで重要なのは富士川の河口に近い登呂遺跡の水田跡です。
登呂遺跡は弥生時代後期の紀元後100年から300年頃の集落跡です。
以下にその復元写真を示します。
1番目の写真は登呂遺跡に復元された農家や米の貯蔵庫の写真です。建物が縄文時代よりも大型になっていることにご注目下さい。
2番目の写真は登呂遺跡の周辺から発見された畔を作る杭や水路遺構から弥生時代の水路と水田を復元したものの写真です。特に水路の整然とした様子に吃驚します。
登呂遺跡の水田復元写真の出典は、http://kankodori.net/japaneseculture/site/023/index.htmlです。
山梨県の弥生時代の遺跡は数がそんなに多くありません。静岡県のような温暖地に比較すると寒冷で水稲の栽培に向いていなかったのでしょう。
現在こそ山梨県は武川米などというブランド米などが生産されていますが、弥生時代の稲は品種改良も進んでいなくて寒冷地では収穫量が少なかった筈です。
勿論、水稲栽培が始まっても従来通り八ヶ岳山麓に棲みついて縄文時代と同じような生活をしている人もかなり居た筈です。そして平地で稲作をしている人々も周囲の山地で狩猟や採集も兼業していた筈です。
ですから縄文時代から弥生時代への移行時期については地方、地方によって非常に異なるのが普通です。
北杜市の縄文遺跡は金生遺跡、神取遺跡、酒呑場遺跡とあり隣町には江戸尻遺跡があります。しかし弥生遺跡は皆無なのです。
従って一般的に言えば、現在の北杜市や韮崎市や甲府市は弥生時代には衰退した時代と言えます。
弥生時代には北杜市の人口は縄文時代に比較して非常に減少してしまったのです。その結果、小生の山林の中の小屋の近辺には人が入ってこなくなったのです。鹿や猪や猿や雉や山鳥の天国になったのでしょう。
以下では、北杜市で発見された驚異的な縄文土器と農耕の始まりをご紹介いたしたいと思います。
北杜市は山梨県の西端にあり、釜無川の上流で八ヶ岳と甲斐駒岳の山麓にあります。清里、大泉、白州、武川、須玉などの町や村が合併して出来た広い面積にまたがる市です。私の小屋は旧武川村にあります。
さて北杜市の隣町には江戸尻考古館という縄文土器の展示場があります。八ヶ岳の南麓や西南麓は黒曜石の産地の和田峠も近いことから旧石器時代から縄文時代にかけて比較的多くの人が住んでいました。
特に5000年くらい前の縄文時代中期には住人も多かったらしく大型の土器が多数出土しています。炉跡のある円形の住居跡もあります。出土した土器は大型で、その上、形が奔放でエネルギーに溢れているのです。嗚呼、こんなにも力強い人々が住んでいたのだと驚きます。
それらの縄文土器は江戸尻考古館(http://www.alles.or.jp/~fujimi/idojiri.html)に収蔵され、一部は常設展示されています。その中から約5000年前の代表的な縄文土器の写真を示します。
3番目の写真は水煙渦巻文深鉢です。
派手な飾りのついた土器は宗教的な祭器として作られたと想像されます。
4番目の写真は神人交会文深鉢です。
5番目の写真は蛇文装飾深鉢です。
6番目の写真は四方眉月文深鉢です。
7番目の写真は毎日、煮炊きに使用する土器の写真です。
煮炊きに使用する土器は飾りの無い深い壺で、底が平らになっていて炉の真ん中に立て、回りから火を焚いて獣肉や穀類を煮込んで食べていたようです。
底が尖っている土器も多いのですが、それは炉の底土に突き刺し、周囲を石で支えて煮炊きしていたようです。
食材を煮たり蒸したり出来ることは旧石器時代の「焼き」だけの調理方法からみると革命的な進歩なのです。
その進歩を考慮に入れて縄文時代中期や晩期には畑作農業が狩猟採集と並行して行われていたという説もあります。
江戸尻考古館では縄文農耕説の証拠として農耕用に使用されたと推定される石器を体系的に整理して展示しています。
展示には畑を耕した農耕用の石鍬(いしくわ)と想像されている石器も多いのです。畑の雑草をとった除草用の小型鍬(くわ)もあります。
江戸尻遺跡が縄文農耕説の発祥になっていたのです。江戸尻考古館のHPから以下に転載いたします。
・・・・ 井戸尻遺跡発掘に取り組んだ藤森栄一は、戦後まもなく、八ケ岳山麓から出土する考古遺物を検討するなかでこれらの文化構成は、どうしても農耕があったと考えなくては理解がつかないという考え方に達した。縄文時代は、狩猟や採集などを中心とした社会であったとする当時の学会の認識からは、到底納得しえない衝撃的な内容のものであった。これが世にいう「縄文農耕論」である。
井戸尻考古館では、この意志を受け継ぎ、縄文農耕の立証と文化内容を一貫して追求してきたが、この10年来、面目を一新するような段階に至った。中期の主要な石器群を体系的に把握することに成功したのである。石器は農作業の一連の過程を担う農具であり、その農具の組み合わせからは、常畑(じょうばた)における雑穀栽培を主とした集約的な農法があったという考えに到達している。・・・以下省略
この縄文人の農耕はその後の弥生時代の水田による稲作へと続いて行ったのです。
文化というものは突然変化するものではなく、少しずつ変化して行くのが原則だと思っています。ですから地方によっては縄文文化と弥生文化が並行したり、混合していた時代があると理解できます。
以上が山梨県北杜市の約5000年前の驚異的な縄文土器と縄文農耕の始まりのご紹介です。
八ヶ岳山麓の縄文人の衰退と平地部の稲作の発展を考えると、時代がダイナミックに変化している様子に驚きます。
そしてこのようなダイナミックな時代の変化は日本全国の地方、地方にあったのでしょう。皆様のお住まいの地方の弥生時代の様子をお知らせ頂けたら嬉しく思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=======参考資料========================
(1)山梨県の弥生時代の遺跡:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%81%BA%E8%B7%A1%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E5.B1.B1.E6.A2.A8.E7.9C.8C
山梨県の弥生時代の遺跡:
•身洗沢遺跡(笛吹市)
•油田遺跡(南アルプス市)
•大師東丹保遺跡(南アルプス市)
•二本柳遺跡(南アルプス市十日市場)
•長田口遺跡(南アルプス市)
•金の尾遺跡(甲斐市)
•宮ノ前遺跡(韮崎市)
(2)金尾遺跡と韮崎市の宮の前遺跡の概略:
以下の文章の出典: http://www.pref.yamanashi.jp/smartphone/maizou-bnk/topics/201-300/0273.html
1、金の尾遺跡は、山梨県甲斐市、中央線竜王駅の約400m北にある遺跡で、1978年に中央自動車道建設に先立って発掘調査されました。調査の結果、縄文時代前期から弥生時代後期にかけての家の跡などが見つかりましたが、弥生時代の大規模な集落跡というのは山梨県内ではこのときが初めての発見でした。現在、金の尾遺跡は、山梨県を代表する弥生時代の遺跡として知られています。
2、韮崎市、宮の前遺跡:http://www.isekiwalker.com/iseki/356529/
時代:縄文/弥生/奈良/平安
所在地:山梨県韮崎市藤井町駒井字宮ノ前
遺構概要
市報1991(縄文(前期+中期+後期)-竪穴住居6+配石+単独埋甕/弥生-水田/奈良~平安-竪穴住居417+掘立柱建物54+土坑+溝+条里関連溝/平安-水田)
遺物概要
市報1991(縄文(前期+中期+後期)-縄文土器+石器/奈良~平安-土師器+須恵器(墨書土器+線刻土器)+灰釉陶器+緑釉陶器+金属製品+鍛冶関連遺物+石製品+木製品/平安-奈良三彩+須恵器製円面硯+帯金具+線刻土器(「寺」)+人面墨書土器+斎串)
発掘概要:韮崎北東小学校建設