宮沢賢治は近代日本が生んだ文学者としての天才です。
この世の全ての人が幸福にならなければ自分は幸せになれないという信念を実行して、悩んで、生きて、死んだのです。享年38歳の短い人生でした。
1896年(明治29年)に岩手県現在の花巻に生まれ1933年(昭和8年)に亡くなりました。
幸せは何か?どうすれば東北地方の貧しい農民が幸福になれるのか?悩んで、悩んで、いろいろな事を実行しました。
彼の文学作品はその悩みの中から滴り落ちる清冽な水の雫のようなものです。
私は東北地方の生まれなので昔の東北の貧しさを知っています。昭和の初め頃ですが。賢治の作品に共感して宮沢賢治全集を折りにふれ幾度と読みました。
正月休みに久し振りにもう一度彼の童話を読み直してみました。そして考えました。
一般的に童話とは若い母親が自分の子供に話して聞かせます。字が読めるようになれば挿絵付きの童話の本を買って子供に与えます。そして子供たちは成長するに従って自分で読むようになります。
しかし現在の母親が賢治の童話を読んで感銘を受ける作品は少ないのではないかと心配になりました。
現在童話はストーリーが明快で楽しい話でなければなりません。暗い悲しい童話は敬遠されますが感銘が深いと私は信じています。
賢治の作品は童話と言われていますが、私は大人が読む文学作品と思います。
私が感銘を受けた作品は注文の多い料理店、銀河鉄道の夜、風の又三郎、オッベルと象、ドングリと山猫、よだかの星などです。
みな非常に独創的で感動的な作品です。
宮沢賢治の作品が分かり難いのは心象風景がたくさん書き込んであるからです。心象風景は本人以外の他人には理解するのが難しいものです。
特に彼の詩や歌や、散文には心象風景がさかんに描かれています。そのせいで難解な作品が多すぎます。例外は妹、トシの死を悼む詩、「慟哭」は明快で、読む人の心を強く打ちます。
何故、彼の心象風景が理解しにくいか、もう少し詳しく書きます。
彼は周りの森や山、空の雲や星、そして動物達を尊敬し、直接会話をするのです。それも心象的会話なのです。他人に分かる筈がありません。
ヒョッとすると、「よだかの星」は彼自身の一生を短く描いた童話なのかも知れません。
醜い「よだか」という鳥が、その醜さ故に周りからいじめられるのです。そうして最後に よだかは天に登って星になるのです。
星になる前後を賢治は次のように書いています。
・・・・もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少し笑って居りました。
それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになってゐました。
そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
今でもまだ燃えています。・・・・
考えてみると賢治自身が輝く星になりたかったのかも知れません。
宮沢賢治は星になって今でもカシオペア座のそばに燃えているのか知れません。
宗教を信ずる全ての人は宮沢賢治の信仰心に興味を持ちます。もう一度、「雨ニモ マケズ・・・・」の詩を思い出して下さい。
しかし宗教を抜きにして宮沢賢治の作品を気軽に読むほうが良いと思います。宗教と文学は別なのです。
正月休みに宮沢賢治の童話をもう一度読んで感じたことをあれこれ書きました。脈絡のないものになりました。
宮沢賢治の作品をもう一度気楽に読んででみましょう。注文の多い料理店、風の又三郎、オッベルと象、ドングリと山猫、よだかの星などの童話は気楽に読めます。それにしても昔の東北の農村は貧しかった。そこへ疎開した私は賢治の作品の原風景が分るような気がするのです。
挿絵代わりの写真は賢治に関係した幾枚かの写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は羅須地人協会の建物です。賢治はここで農民の肥料や土壌改良の相談にのっていました。私どもも以前ここを訪れ賢治を偲びました。
2番目の写真は賢治と妹トシです。
3番目の写真は盛岡高等農林高等学校時代の賢治です。
4番目の写真は花巻農学校で働いていた頃の賢治です。
===賢治の略歴==========================
- 1896年(明治29年)
岩手県稗貫郡川口町(現在の花巻市豊沢町)に長男として生まれる。家業は古着商。
- 1903年(明治36年) 7歳
花巻川口尋常小学校に入学。この年、東北地方は前年の凶作で飢饉。
- 1909年(明治42年) 13歳
県立盛岡中学(現盛岡一高)入学。
- 1911年(明治44年) 15歳
このころより短歌創作を始める。
- 1914年(大正3年) 18歳
3月 盛岡中学卒業。 - 1915年 (大正4年) 19歳
盛岡高等農林高等学校(現岩手大学)農学科第2部に首席入学。
- 1917年 (大正5年) 21歳
同人誌「アザリア」を4人で発刊。前年より短編を書き始める。
- 1918年 (大正7年) 22歳
3月 盛岡高等農林学校卒業。同校研究生となる。
5月 盛岡高等農林実験指導補助嘱託(8月辞退)。
- 1919年 (大正8年) 23歳
4月 質屋の店番生活に戻る。(大正10年まで)
- 1921年 (大正10年) 25歳
1月 花巻を出奔して、東京生活を始める。
この時期、月に3000枚もの童話原稿を書いたという。
8月 妹トシ喀血の電報を受けて、花巻に大きな原稿の入ったトランクを携えて帰る。
12月 稗貫農学校教諭となる。担当は代数、化学、英語、土壌、肥料、気象、稲作実習など。
- 1922年 (大正11年) 26歳
童話「雪渡り(二)」で、生前唯一の原稿料五円を受け取る。
11月 トシ没(24歳)。「永訣の朝」をはじめとする「無声慟哭」群の詩を書く。
- 1926年 (昭和元年) 30歳
花巻農学校依頼退職。
羅須地人協会を設立し、独居自炊生活を始める。
干ばつと水害が多い。
- 1927年 (昭和2年) 31歳
このころ肥料設計、稲作指導に奔走し、設計書を2000枚以上書く。
- 1931年 (昭和6年) 35歳
以前よりアドバイスを受けに来ていた、東北砕石工場の嘱託技師となり、石灰の販売を行う。
病をおして、岩手、宮城、秋田を回るも、発熱病臥を繰り返す。
「雨ニモマケズ」を書く。岩手県では、冷害のため凶作。
- 1932年 (昭和7年) 36歳
病をおしても農民の肥料相談に応じ続ける。また、この間も創作活動を続けている。
- 1933年 (昭和8年) 37歳
9月20日 急性肺炎で容態急変。それでも農民の肥料相談に1時間ほど応じる。
9月21日 午前11時半、突然「南無妙法蓮華経」を唱える。容態急変。喀血。
午後1時半没する。この年、絶筆短歌にあるような大豊作となる。