後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「あの世にいるK君へ妻からの感謝の手紙」

2022年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム
大学時代の友人のK君が昨年10月に亡くなった。享年85歳。そして12月に奥さんからその知らせの手紙が来た。少し長い文章がついていた。
一読してその文章はあの世にいるK君への妻からの感謝の手紙であると感じた。下に奥さんからの手紙を了解を得て転載する。

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「今まで本当にありがとう⋯」 
青森県の鯵ヶ沢町に生まれ、厳しい日本海の風に
吹かれながら育った夫です。冬になれば猛吹雪に
耐えるため、後ろ向きで歩きながら学校へ通ったと
聞いています。そうした環境を生き抜く中で培われた
強さなのでしょう。どんな時も弱音や愚痴一つこぼさ
ないようなとても頑張り屋で辛抱強い人でした。
 田舎から東北大学へ進学し、卒業後は「伊藤忠
商事」で来る日も来る日も忙しく働く日々でした。
出張で海外のあちこちを飛び回り、朝早くに家を
出て日付が変わった頃に帰ってくるのが当たり前
でした。外国駐在中は家族も一緒だったので高校生の
末っ子は勉強面で大変な思いをしたのですが、仕事の
合間を縫って夫がサポートしてくれましたこと、
本当に感謝しています。
 夏休みになれば皆を連れて旅行に出かけ、紡いだ
思い出は数え切れません。義理人情に厚く自身の
両親のことも大事にし、またまっすぐな人柄を部下
にも慕われておりました。七十歳まで海外等で
働いた後は成田国際空港でボランティアとして励み
やがて足を悪くしてしまったのは八十歳頃のことです。
以降は入退院を繰り返すものの、最近は楽しみに
していたオリンビックを観ながら慣れ親しんだ
我が家で過ごすことが出来ましたので、きっと悔いは
ないと思います。
 急な別れは残念ですが、向かう先でゆっくり
休んで私を待っていてくれるのなら、それ以上の
慰めはありません。どうかこれからも私や子供達の
歩みを見守って欲しいと願い、静かに両手を合わせます。
夫は、令和三年十月六日、満八十五歳にて生涯をとじました。
  戒名 正道院釋超久
最後になりましたが、夫が今日まで頑張ることが
出来ましたのも支えて下さった方々のお蔭に他なり
ません。病院関係の方をはじめ、ご厚情を賜りました
全ての皆様へ深く感謝を申し上げます。
 尚、通夜と葬儀は家族葬で執り行いました。略儀
ながら書状をもってご報告申し上げます。
令和三年十月十一日(通 夜)
    十月十二日(葬 儀)
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最後に奥さんの住所、氏名が書かれていました。

大学時代のK君は本当に人情篤い熱血漢でした。東北大学の金属工学科を一緒に1958年に卒業しました。同級生は30名だけだったのですぐに親しくなりました。育った鰺ヶ沢町の冬の寒さを何度も話していました。ある時、同級生30名が一緒に郊外の小さな山にハイキングに行きました。K君が先頭になって登ります。「お山の大将俺一人~」と歌いながら登って行った姿を鮮明に思い出しています。
卒業研究の実験も大変熱心にしていたことが記憶に残っています。社会人になってもクラス会で何度も会いましたが大きな声で商事会社の面白さを快活に話していました。

最後になりますが上記の手紙の件でいろいろお世話になったK君の娘さんのあずささんへ感謝の意を表します。

今日の挿絵代わりの写真は青森県の鰺ヶ沢町を通る五能線と日本海の冬の風景写真です。4番目の写真は 鰺ヶ沢町から見た冬の岩木山 です。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1、鰺ヶ沢町を通る五能線と日本海の冬の風景写真です。
(Foto Stock 《五能線が走る風景(冬)》青森県深浦町 | Adobe Stock  )

2, 日本海沿いの五能線から見た夕日です。
(https://18kipper.com/aomori_gonoline/ )

3、五能線の深浦付近の冬の風景です。

4, 青森県 西津軽郡 鰺ヶ沢町から見た岩木山 です。

「台湾の冬の花売り場の華やかな写真」

2022年01月12日 | 写真
台湾の北は台北から南の高雄まで多様な気候を持つ台湾は、1年を通じて、美しい花を咲かせます。 いまや台湾新幹線で、北から南まで最短で2時間ちょっとで移動できるのに、この気候の多様さは、花好きの人にとっては天国といってよいでしょう!
写真と文章の出典は、https://sekainohanaya.com/archives/2622 です。






「台湾政府は16民族の原住民を手厚く保護している」

2022年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム
台湾には現在でも16もの異なる民族が住んでいる興味深い国です。台湾の中華民国の政府もこれらの少数民族を丁寧に保護した結果、その総数は増加しています。1929年に14万人余りでしたが現在は49万人まで増加しています。
台湾は1600年代オランダの植民地になると対岸の福建省から多数の漢人の移住が起きましたが、それ以前は原住民だけが住んでいたのです。なお原住民は差別用語として日本のマスコミでは先住民と呼んでいます。しかし台湾では原住民と呼んでいるので、それに従いました。他意が無いことをご理解下さい
それでは早速、現在の台湾の原住民の4枚の写真をご覧ください。
上の写真の出典は、http://hosyusokuhou.jp/archives/45019854.html です。
台湾を代表する美女を選出する「第8回ミス台湾」決勝大会が2015年7月下旬に高雄市内で行われ、台湾原住民のアミ族出身の陳海琳さん(21歳)がグランプリに選ばれたのです。 そしてこの女性がミス世界コンテストへ中華民国代表として参加したのです。
台湾には少数民族への差別の無い証拠ではないでしょうか?
上の写真の出典は、http://taiwan-blog.com/60 です。
この原住民の写真の出典は、http://www.katakura.net/xoops/html/modules/wordpress/index.php?cat=18 です。

の原住民の写真の出典は、http://newhoshu.blog.jp/archives/4513845.htmlです。 

さて私は世界のいろいろな民族の観光客向けの写真を多数見てきました。多くは失われた祖先の文化を悲しみながら踊りを見せている写真です。観光客のために笑顔を作っていますが何か悲しそうにしています。
ところが上の4枚の写真に写っている人々は心から楽しそうにしています。屈託の無い表情をしています。現在、このような屈託の無い顔をしている少数民族は珍しいと思います。台湾の政府が彼等を大切にしている証拠です。

以下は、「台湾原住民」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%8E%9F%E4%BD%8F%E6%B0%91 からの抜粋です。

1996年(民国85年)に原住民族を所管とする省庁である原住民族委員会が設置されました。そして民主進歩党政権になってから原住民族の地位向上が推進されるようになり、2005年には「原住民族基本法」が制定され、国営の原住民族テレビ(開局時の名称は原住民テレビ)も2005年7月1日に正式に開局するなどしたのです。
さらにその後、民族自治区の設立にかかわる「原住民族自治区法」案の審議が進められました。台湾では少数民族は差別されず手厚く保護されいるのです。

台湾では現在、平地原住民と山地原住民(高山族)に分けられております。
2008年6月末、高山族現在の人口は488,773人であり、台湾総人口の2.1%を占めています。その後の10年で人口は23.4%増加し、総人口の増加率4.9%と比べ高いのです。
以下は政府認定16民族と人口です。
各部族の人口(2008年(民国97年)6月1日)、総計:488,773人、

アミ族(阿美族、アミス族とも、大部分は自称を流用して「パンツァハ族」とも呼ばれる) 175,157人
パイワン族(排湾族) 84,446人
タイヤル族(泰雅族、アタヤル族とも) 82,273人
タロコ族(太魯閣族、トゥルク族とも、アタヤル族に含められることもあったセデック族の一支) 24,001人
ブヌン族(布農族) 49,529人
プユマ族(卑南族) 11,100人
ルカイ族(魯凱族) 11,509人
ツォウ族(鄒族) 6,517人
サイシャット族(賽夏族) 5,623人
タオ族(達悟族、雅美族〈ヤミ族〉とも) 3,448人
クバラン族(噶瑪蘭族)(カヴァラン族) 1,124人
サオ族(邵族) 637人
サキザヤ族(撒奇莱雅族) 5,000 - 10,000人
セデック族(賽徳克族) 6,000 - 7,000人?
カナカナブ族(卡那卡那富族) 500 - 600人?
サアロア族(拉阿魯哇族) 400人?
その他 265人
申告なし 32,859人
そして下の地図に各民族の主な居住地を示しています。

この図面の出典は、「台湾原住民」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%8E%9F%E4%BD%8F%E6%B0%91 です。

さてこれらの台湾の原住民は何処から来て、何処へ移住して行ったのでしょうか?
この謎は、「台湾資料」、http://www.gicas.jp/taiwan/index.htmlに明快に解明されています。しかし今回は長くなり過ぎるので続編に譲ることにします。

さて台湾も日本も中国の東の大海に浮かぶ大きな島です。日本では大和朝廷が遣隋使や遣唐使を送り中国の政治や文化を導入しました。漢字も導入しました。
しかし台湾は17世紀まで文字の無い文化圏だったのです。この比較を考えるといろいろな感慨を覚えます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)