後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「コロナで孤独に死んだある修行僧のはなし」

2022年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム
コロナは最近また感染数が増え3年目になっても終息する気配がありません。日本ではもう1万8444人もの人がコロナで亡くなっています。
今日はコロナで孤独に死んだある修行僧のはなしを書いてみたいと思います。
ある修行僧とは東日本大震災の犠牲者を弔い続けていた、望月崇英のことです。新型コロナで突然死にました。死ぬ時、家族や親族がいない孤独な死でした。
しかし一人の少女がこの修行僧の死を嘆き悲しんだのです。
少女の母親から私が貰った投書をご紹介します。私が書いた、「ある修業僧へ送る梅の花の和歌と写真」(2021年01月20日掲載)という記事のコメントとして送られて来たものです。
===ほうげつ志音さんからのコメント(2021年1月23 日)=======
いま10歳の娘の志音は毎週お坊様、望月崇英師にお会いしたくて銀座へ参っておりました。
望月崇英師とは娘が2歳頃の時に知り合いました。そして漸く昨年互いに連絡先を交わし、さていよいよこれからもっとずっと御縁を... と思っておりました。
そんな矢先に御闘病中であられることを知り、そしてその後すぐにご臨終と伺いました。
娘は悲嘆のあまり泣き崩れしました。気が違えたと思うほど声を出して「絶対にイヤだ!」と泣きしました。
お坊様の背景を何も尋ねなかったことを私は居た堪れないほど後悔しています。
もっと早くこのブログの記事を存じ上げていたになら娘共々生活をもっともっと切り詰めて少しでも望月崇英師のためにお役に立てたと思います。悔やんでおります。
志音は本日、銀座和光の一角へ参って、そこでもかける声もないほどずっと泣いておりました。手袋を外して傘も畳んでずっと手を合わせておりました。
志音には、「命に長いも短いもなく、どれだけ心を込めて生きようとしたか」と伝えました。
このお坊様のことを少し詳しく教えて下さったこのブログ記事に心より感謝申し上げます。勝手ながらこの記事を印刷させていただきました。お坊様と一緒に写った写真数枚と共に志音の宝箱へ収めたく存じます。 ありがとうございました。心より深く感謝申し上げます。(終わり)
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母親の娘の志音さんへ対する暖かい愛情が胸を打ちます。素晴らしい母親です。
そして志音さんがの仲良しだったお坊さんの死を悲しみ泣き崩れる場面に感銘を受けます。志音さんは他人の愛が分る情感豊かな少女です。嗚呼、この人は一生幸せな人生を送る人だと思いました。確信しました。この母娘に幸せ多かれと祈ります。

望月崇英さんの写真は、http://kaito308.livedoor.blog/archives/66110123.html にあります。

最後に感じたことを一行だけ書きます。1番目の写真の望月崇英師の写真を見ると顔が実に良い雰囲気をかもし出しているのです。穏やかさに感動します。

今日の挿絵代わりの写真は亡き望月崇英師へ供える花々の4枚の写真です。神代植物公園の温室で私自身が撮った写真です。温室では冬でも睡蓮やベコニアなどの花々が咲いているのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






参考記事、
「身元不明遺体の土葬に読経をする僧侶」
https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama の2011年06月13日 掲載記事、

高野山で修業をし、お寺に属さないで托鉢しながら被災地を支援している修業僧がいます。高野山真言宗僧侶の望月崇英さんです。
4月上旬にはじめて行った被災地の東松島市での事です。身元不明の遺体を30体土葬にする場面に申して出て、読経をしたのです。そして一人一人を埋葬するとき丁寧にお経を唱え、引導を渡したそうです。もちろん身元不明ですから誰もお布施を出しません。
土葬には東松島市の環境課の相沢俊明さんが立ちあいました。相沢さんが言っています。「あの混乱の中でお一人ずつ丁寧に見送っていただき、ありがたかった。私たちも救われる気がしました」と。
修業僧の望月崇英さんは銀座で托鉢しながら、アルバイトをして、週末には被災地へ行くのです。
被災地へ行くと、瓦礫で埋もれた民家の前や海岸に独り立って、お経を唱えます。心を込めて犠牲者の冥福を祈ります。誰も近づきません。遠くから家族を失った人々がソッと一緒に手を合わすだけです。
いろいろな支援の仕方があるという話です。それだけの話です。昨日の読売新聞35ページに載っていた話です。
思い出します。昔、清朝の時代に北京では毎晩、赤子が街路に捨てられていたそうです。寒い冬には、朝まで凍った小さな遺体が幾つかあったそうです。当時、北京にいたイエズス会の神父たちが遺体を教会へ集め、お葬式をしてから埋葬していたそうです。不幸にして幼いまま死んだ子供達へ神様のいつくしみが豊かにあるように祈ったのです。神様が子供達を天にやさしく迎えてくれるように祈ったのです。清朝に仕えていたイエズス会のマッテオ・リッチ神父がローマ法王に送った書簡に書いてある話です。これも、それだけの話です。
しかし、上に書いた2つの話は何か似通っているような気がいたします。
つまらない話かも知れません。でも何か考えさせる話ではありませんか?(終わり)