後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「清い湧水の泉が沢山ある武蔵野の美しさ」

2022年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム
武蔵野という地名にはロマンチックな響きがあります。国木田独歩が武蔵野の美しさを書いた本が有名になったせいでしょうか。
武蔵野とは荒川と多摩川に挟まれた広大な台地です。そこには美しい雑木林や畑が広がっています。この武蔵野台地は決して平らでなく丘や崖があちこちに散在しています。大岡昇平の「武蔵野夫人」にも描かれているハケの道は国分寺から武蔵小金井に続く心地よい散歩道です。その丘や崖の下には泉が湧いているのです。
私はこの武蔵野に住みその自然の魅力に心惹かれています。何気ない雑木林が美しいのです。清冽な水が湧き出ている泉があちこちにあります。不思議に年中、泉の水が一定しています。湧水で出来た池が青空と白い雲を写しています。私はそんな泉のほとりを歩くのが好です。湧水で出来た池の回りを静かに散歩します。老境のかけがえのない楽しみです。

今日はそんな泉や湧水で出来た池の写真をお送りいたします。すべて自分が撮ったものです。
まず近くの国分寺市の恋ヶ窪に崖のある湧水で出来た「姿見の池」の写真から始めます。

1番目の写真は湧水で出来た「姿見の池」です。
この姿見の池には湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み清水を湛えています。 現在の府中街道とほぼ同じ道筋にあたる東山道武蔵野路や鎌倉上道の宿場町であった恋ヶ窪の遊女達が、朝な夕なに自らの姿を映して見ていた ことから、「姿見の池」と呼ばれるようになったのです。
平成10年度東京都と国分寺市は、池周辺地域を東京都指定「国分寺姿見の池緑地保全地域」 としました。
次は国分寺市にあるお鷹の道の湧水で出来た「真姿の池」です。
2番目の写真は現在の武蔵国分寺の東にあるお鷹の道の「真姿の池」です。
3番目の写真は鷹の道沿いに流れる湧水です。
お鷹の道の名前来です。1748年(寛延元年)から国分寺は徳川御三家尾張藩の鷹狩の狩り場となりました。
武蔵野台地の崖下の泉と清流の脇に小道が整備され、これを「お鷹の道」と呼ぶようになったのです。
さて次は小金井の貫井弁天の湧水出来た池です。

4番目の写真は貫井弁天と湧水で出来た池の風景です。池の水は流れ出て下流で野川に流入し多摩川へ合流しています。
小金井貫井神社の裏手には幾つかの泉から湧き出している貫井神社湧水群があるのです。国分寺崖線が小金井まで延び、その崖下からコンコンと湧き出しているのです。
縄文時代はこの泉の付近に環濠集落があったことが分かっています。
そして畑作や稲作の時代になると湧水群の周囲に農地が出来、集落も出来ました。国分寺でも小金井でも崖線の下側に昔から農村が出来ていました。崖の上の台地には開発されない時代が長く続いたのです。

次に善福寺公園や武蔵関公園や石神井公園や井の頭公園について書きます。皆湧水で出来た自然の池を中心にしています。

5番目の写真が善福寺池の風景です。
善福寺池は、古来より武蔵野台地からの湧水池として知られ、江戸時代には、貴重な水源ででした。またこの池は遅野井池とも呼ばれ付近一帯の上井草村は別名遅野井村とも言わていました。
善福寺の名の由来は、池のほとりにあった寺の名前に由来していますが、江戸時代に廃寺となっています。しかし近所に「善福寺」という寺が現在ありますが、それは福寿庵という元々違う名前だった寺で、後年地名をとって改名したお寺であり、池の名前の由来にはなっていません。

6番目の写真は武蔵関公園の富士見池の風景です。
武蔵関公園は大正時代に私設公園としてボート場や遊具施設などが整備され、1938年10月に東京市立公園としています。
池には西側と東側に「葦の島」と「松の島」という島があり、葦の島は春先に紫色の花ダイコンのような花が一面に生えてきれいです。
冬は青空ながら寒い北風が吹いていたので人影も少なく、静かな池の風景です。
湧水で出来た池を中止にした公はは善福寺公園や武蔵関公園の他に石神井公園や井の頭公園がありますが長くなるので割愛いたします。

今日は泉や湧水で出来た池や公園をご案内いたしました。国分寺市や小金井市や石神井にあり電車の便もあります。都区内などにお住まいの方が静かに散策すると良い所です。晴々とします。気分爽快になります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)