暑い日が続きますね。お元気でお過ごし下さい。今日は孔子と儒教についてです。皆様は次のような孔子の言葉を学校で習ったと思います。
「巧言令色少なし仁 」
「過ぎたるはなお及ばざるが如し 」
「君子は和して同ぜず小人は同じて和せず 」
「学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆し」
「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」
「学べば則ち固ならず」
「知らざるを知らずと為す。是れ知るなり」
「その人を知らざれば、その友を見よ。
「過ちて改めざるこれを過ちという 」
「義を見てせざるは勇無きなり 」・・・その他省略。
私は高校の漢文の時間に孔子の言葉を塩見先生から習いました。先生のあだ名は「なでこ」と言い頭がサトイモを撫でたような形でした。旧制中学校の漢文の先生で旧制中学校の雰囲気を背負った昔風の教師でした。漢文の詩を朗々と詠うように読んでいました。懐かしいです。
それはさておき、今日は日本へ深い影響を与えた孔子と儒教のことを書きたいと思います。
(1)孔子の出生と履歴
孔子は現在の山東省曲阜市に紀元前552年に生まれました。紀元前479年に73歳で没しました。思想家で儒家の始祖になった人です。
父は既に70歳を超えていた軍人で、母は身分の低い16歳の巫女でした。
幼くして父を失い、家計を支えるために多くの仕事をしながら礼学を修めます。紀元前534年、18歳のときに結婚。その後、魯に仕えます。
36歳のとき、内乱により君主が斉へ国外追放され孔子もあとを追って斉へ亡命しました。
その後、魯に帰国すると多くの弟子が集まり、孔子は弟子の教育に専念するのです。
紀元前501年、51歳のときに中都の宰(長官)に取り立てれら、その実績により最高裁判官である大司寇および外交官に就任します。しかし政治改革を試みて失敗し、失脚です。
紀元前497年、自分を受け入れてくれる主君を求め諸国巡遊の旅に出る。しかし孔は紀元前484年、13年にわたる亡命・遊説の旅を経て魯に帰国します。
帰国後は詩書など古典研究の整理を行い、紀元前479年に73年の生涯を閉じたのです。
(2)儒教の成立
孔子の教えは弟子の手によって『論語』にまとめられます。孔子には3000人の弟子がいたとされ、その死後、孟子、荀子などの後継者を出しました。
儒教とは、孔子の教えを中心として成立した儒家の倫理思想です。 学術面を強調して〈儒学〉とも言い,開祖の名をとって〈孔子教〉とも言われています。 漢の董仲舒の献策によって国教となって以来,中国の代表的な思想です。
(3)日本への影響
儒教は朝鮮や日本にも大きな影響を与え続けました。
また東アジア各国で2000年以上に亘り強い影響力を持ったのです。
諸国で信仰されていて宗教のように根強い影響力を持っています。社会規範になっています。
日本では学校で孔子の言葉を習い儒教を勉強します。儒教は仏教と共に日本人の精神の基底をなしているのです。現在の日本人は無意識で儒教と仏教の教えに従う傾向があるのです。
私も自分の行動を決める時、次のようなことを考えています。
「巧言令色少なし仁 」
「過ぎたるはなお及ばざるが如し 」
「君子は和して同ぜず小人は同じて和せず 」
それはそれとして今日は日本へ深い影響を与えた孔子の言葉と儒教のことを書きました。
添付の写真は長崎の孔子廟です。
長崎孔子廟は、1893年(明治26年)に清国政府と在日華僑が協力して建立したものです。
中国山東省曲阜にある総本山なみに日本で唯一の本格的中国様式の霊廟です。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)