後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ラベンダーの花畑の美しさと北海道のストーンサークルとアイヌ文化の成立」

2023年08月07日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道の風景はロマンチックです。異国的です。いろいろ美しい場所があります。知床、羅臼、釧路湿原、野付半島、層雲峡、阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖、洞爺湖、支笏湖などなど枚挙にいとまがありません。下の3枚の写真は富良野の富田ファームのランベンダーの花畑の景観です。


このように美しい北海道は皆が憧れ、四季折々訪れる人が多いのです。
そこで北海道の歴史を大まかにご紹介したいと思います。北海道は本州以南とは違った独自の歴史を持っているです。

北海道の歴史は、石器時代、縄文時代、続縄文時代、擦文文化時代、アイヌ文化成立、、そのアイヌ文化時代が明治維新まで続いたのです。
少し説明しておきます。
石器時代から縄文時代までは本州とほぼ同じでしたが、本州の弥生時代や古墳時代は北海道には存在しません。
そしてその代わり、続縄文時代が本州での古墳時代の頃まで続いたのです。
その後は北海道のオホーツク沿岸地方はオホーツク文化時代とそれ以外の北海道では擦文文化時代が鎌倉時代のはじめまで続いたのです。
擦文文化時代とは、その時代の土器に筆で擦ったような模様がついていたのでそのような名がついています。
そして鎌倉時代の始めからは独自のアイヌ文化が成立し、そのアイヌ文化時代が明治維新まで続いたのです。
そのような特異な北海道の歴史については北海道教育委員会のHPで明快に説明してあります。そのURLは、http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/maizou.htmです。
さてそれはそれとして、縄文時代の不思議な遺跡として約4000年くらい前に作られたストーンサークルがあります。
以下に北海道の森町にあるストーンサークルの写真を示します。
写真の出典は、http://aomori-jomon.jp/essay/?p=715です。

このストーンサークルの詳細は写真の出典に出ていますので、是非ご覧下さい。
日本全土の縄文文化は主にアイヌ人の祖先の原日本人が担っていて、本州の弥生文化は南方や朝鮮、中国からの渡来、移住した日本人が担っていたようです。
縄文時代の北海道は青森に咲いた縄文文化の影響を受けたのです。特に北海道南部の森町付近からは国宝の土偶が出土しています。私はその展示物を見て来ました。
兎に角、北海道にアイヌ文化が広がる前の縄文時代や石器時代(無土器時代)はいろいろ未知のことも多く、興味がつきません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「甲斐駒岳に咲く高山植物の可憐な花」

2023年08月07日 | 写真
甲斐駒岳に咲く高山植物の可憐な花の写真をお送り致します。
写真は、「甲斐駒岳に咲く花」を検索してインターネットにある写真から選びました。
写真の出典は、https://naoki-web.com/kaikoma-flowers-june/ です。
写真は順に、ギンリョウソウ、タカネザクラ、コイワカガミ、ゴゼンタチバナです。


「全国200以上の市町村の焼野原の奇跡的な復興に驚く」

2023年08月07日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日の記事、「終戦直後の我が故郷、仙台の風景」で焼野原になった仙台の写真を示しました。仙台は一例に過ぎず、全国200以上の市町村がB29の空爆のよって建物が焼き尽くされ多数の死者を出しました。焼野原の風景の惨状は忘れることが出来ません。黒く燻り臭い市街を歩いて見た光景は酷いものでした。78年たっても忘れません。
その焼野原が数年のうちに復興してしまったのです。まさに奇跡です
復興した仙台の現在の写真を示します。

1番目の写真は仙台の中心街を向山地区から撮った写真です。4枚の写真は「仙台の写真」を検索してインターネットにある写真をお借りしました。

2番目の写真は仙台駅前のロータリーです。
3番目の写真は仙台駅の夜景です。
4番目の写真は向山の鹿落坂の上から撮った霊屋橋と中心街です。

以上の4枚の写真は全国の市町村の復興の一例に過ぎません。日本全国が美しく蘇ったのです。奇跡です。日本民族の活力に驚きます。感動します。
この復興で一番力になったのは民間の力です。その勢いは日本のGDPを世界3位まで押し上げたのです。
民間の復興の力はさらに政府のいろいろな政策で後押しされました。その一部だけを記します。
終戦直後から、戦災復興のための様々な法令が制定され、戦災復興院や建設院といった特別な機関が設置されるなどして、日本の各都市の復興が後押しされました。
詳しくは、https://www.jacar.go.jp/glossary/tochikiko-henten/qa/qa32.html をご覧下さい。
空襲で37府県の215以上の市町村が焼野原になったのです。
空襲により罹災した地域の面積は総計で約1億9500万坪、罹災人口は約970万人、罹災戸数は約230万戸に上りました。これは日本国内総戸数の2割以上、総人口の1割強が罹災したことを意味し、その被害の甚大さが分かります。
戦災復興の最初の措置としては、「罹災都市応急簡易住宅建設ニ関スル件」があります。
その後、政府は復興を促進するためにいろいろな法律を作りました。しかし戦後の住宅難は一朝一夕には解消されず苦しい生活が続いたのです。食糧難と住宅難が重なり戦後の生活は苦しいものでした。
明るい希望が見え始めたのは1964年の東京オリンピックの頃からでした。
それにしても日本はよく復興したものです。感慨無量です。

今日は全国200以上の市町村の焼野原が奇跡的に復興したことを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)