後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「会津若松城の美しい姿」

2023年08月31日 | インポート
会津若松城は蒲生氏郷や上杉景勝などが城主をつとめた城です。1643年(寛永20年)に保科正之が入封して以降は明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城として用いられ、幕末の戊辰戦争の際には会津戦争の舞台となりました。
現在の天守は1965年(昭和40年)に外観復元されたものですが、さらに2011年(平成23年)に黒瓦を当時と同じ赤瓦に復元しました。



「石神井城と渋谷城と桧原城の城址の写真とその他多数の城址」

2023年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
石神井公園は練馬区石神井台にあります。二つの池を中心とした公園で武蔵野の自然がよく残されています。二つの池とは木々に囲まれた石神井池と三宝寺池とです。三宝寺池の隣に石神井城跡とその遺跡があります。撮って来た写真をお送りいたします。
1番目の写真は石神井公園の三宝寺池です。隣に石神井城跡とその遺跡があります。

2番目の写真は石神井城跡を示す石碑とその遺跡の説明板です。
石神井城は1400年ごろ豊島氏によって築城されました。しかしその命は短く、1477年に太田道灌によって攻められ城主の豊島泰経は敗走し、石神井城は廃城になってしまったのです。たった77年の間でした。
3番目の写真は渋谷城のあった場所にある金王八幡宮です。

4番目の写真は金王八幡宮に残る渋谷城の礎石です。渋谷城の石が1点だけ保存され展示されています。
渋谷城には平安時代末期から渋谷氏が住んでいました。城には渋谷川を水源に水堀をめぐらされていたのです。平安時代に渋谷金王丸がこの城の城主になりました。
しかし室町時代になり大永4年(1524年)に北条氏綱が関東南部を占領し、渋谷城は後北条氏の一隊によって焼かれ渋谷氏は滅んだのです。
現在、渋谷城のあった場所には金王八幡宮があります。遺構は残っていませんが、境内には城の石が1点だけ保存され展示されています。 
しかしその後の渋谷氏一族の動向については分かっていません。1524年に江戸城が後北条氏に奪われた時に渋谷氏一族は城を捨て滅んだのは確かな事です。

5番目の写真は檜原城があった山です。本丸は左の山の頂上ぬありました。
東京都西多摩郡檜原村にあった山城でした。標高449mの山上に築かれていました。平山氏の居城ですが築城時期は不明です。城の下を当時、武蔵と甲斐を結ぶ唯一の街道が通っており、この街道を押さえる城でもあったのです。
平山氏は、戦国時代後期には北条氏に臣従した。1590年、豊臣秀吉の小田原攻めでは、北国軍の前田利家・上杉景勝らが攻め寄せ、八王子城が落城した際に、檜原城主・平山氏重(平山長寿)や残党らと、檜原城にて籠城しましたが落城しました。
その他東京にあった数多くの城については下記の記事をご
ご参照下さい。
「東京にあった数多くの城(1)世田谷城と八王子城」2020/10/28
「東京にあった数多くの城(2)渋谷城と片倉城」2020/10/30 
 「東京にあった数多くの城(3)品川氏館と高月城」2020/10/31
「東京にあった数多くの城(4)立川市のもとになった立川氏館と小山田城」
2020/11/03

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人) 

「自分で歩き回る地方史探訪、八王子城、滝山城、片倉城の歴史」

2023年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
東京の西の郊外は多摩地方と言います。私が住んでいる小金井市はそのほぼ中央にあります。趣味は自分で多摩地方を歩き回って各地の地方史を探訪することです。教科書に載っていない地方史です。20年くらい続けました。
例えば多摩地方にあったいろいろなお城の址地に行って写真を撮りその歴史を調べるのです。
八王子城、滝山城、片倉城、深大寺城、平山氏館跡、石神井城、高幡城などの跡地へは何度も行きました。
今日は城主の名前が不明のままの八王子城、滝山城、片倉城の跡地の写真を示し、それぞれの歴史をご紹介したいと思います。
さて平安時代末期、鎌倉時代と歴史が流れ、やがて室町時代の「応仁の乱」に至ると関東地方は群雄割拠の戦国時代になります。
そのころ各地に城が沢山作られました。しかし江戸時代以前の城については文献が少なくて詳細が分かっていません。
僅かに残っている文献から江戸という名前は現在の東京に最初に根拠地を置いた武家、江戸重継に由来しているようです。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、後の江戸城の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていたと考えられています。
その後の15世紀の関東の戦乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏の上杉持朝の家臣である太田道灌が1457年(長禄元年)に江戸城を築城しました。徳川幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめと書いてあるそうです。
ですから太田道灌が1457年に築いた江戸城が現在の東京の発展の出発と考えることも出来ます。
1600年に徳川家康が江戸に幕府を置いてから260年余の江戸時代が始まりました。
現在の東京の江戸時代の歴史はかなり詳しく知られていますが、それ以前の歴史はあまり明確には判っていないのです。
その理由は現在の東京都内にあった城や館の大部分は江戸時代に消えてしまって記念碑や説明板だけが残っているに過ぎません。
しかし郊外の城跡は堀跡、広場、出入口の土手、建物の礎石群がそのまま残っているものも多くあります。往時の様子が偲ばれます。
私は引退後にこれらの城跡をかなり丁寧に見てまわりました。車で行って、あまり人のいない城跡の写真を撮りました。八王子城から説明を始めます。
1番目の写真は八王子城の見取り図です。
http://yogokun.my.coocan.jp/tokyo/hatioujisi.htmから転載させて頂きました。
 
2番目の写真は八王子城の主殿跡の広場です。当時の鍋や食器が多数発掘されました。以下の全ての写真は同行した家内が撮ったものです。

3番目の写真は八王子城の主殿跡に入る門のあった場所の石組です。
この八王子城の城跡には当時の建物群の礎石や空堀が良く保存されています。発掘調査も行き届き、説明板も丁寧に明快に書いてあります。
次は滝山城です。

4番目の写真は滝山城から見た多摩川の遠景です。

5番目の写真は滝山城の入り口にある曳き橋です。敵が攻め込んで来たら引いて倒してしまう曳き橋です。滝山城跡には壮大な規模の城跡がそのまま残っています。
八王子と滝山城の城主は北条氏昭でした。小田原城からやって来て関東地方の西部を統治していたときに住んでいました。武田信玄に何度か侵入されましたがその都度撃退しています。
八王子城と滝山城は小田原の北条一族が関東一円を支配していた時代の数多くあった北条一族の城の一部だったのです。
このように城主が分かったいる場合もありあすが、誰が作ったかさっぱり判っていない城跡もあちこちにあるのです。一例は片倉城です。
鎌倉時代よりも前の山城と推定されていますが、誰が作ったか不明です。

6番目の写真は片倉城の跡地です。本丸跡の広場です。
7番目の写真は片倉城の本丸跡にある住吉神社です。
片倉城のように誰が作ったかが分からない城跡が多摩地方には沢山あるのです。深大寺城も誰が作ったか確定されていません。築城した人が判っていない城跡が意外に多いのです。
高幡不動の裏山に登ると頂上に土塁が残っていて、素人目にもある時代に城があったことが分かります。その裏山を下りて高幡不動の和尚さんの一人に尋ねました。しかし文献が無いから知らないの一点張りでした。ただ発掘調査で、鎌倉時代よりも古いと推定されていると言っていました。
学校で習う日本の歴史は天皇や幕府のような中央政権に関する歴史が主なものです。地方の歴史は解っていないので教えられません。地方の歴史を調べてみると判らないことが非常に多いことに驚きます。歴史の闇に消えてしまった事実が沢山あるのです。

さらに書けば東京には江戸城の他に、御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などなどもあるのです。
これらの城や館は天正18年の秀吉勢の小田原城攻撃によって一斉に降伏します。関東一円の北条一族の城や館が揃って秀吉勢に降伏してしまったのです。
その後、江戸に入った徳川家康は消滅した数多くの城や館を再び利用することはありませんでした。
直轄領として代官を派遣する場合に、川越城や土浦城や行田城は代官の館として利用しただけで、その他の数多くの戦国時代の城は意図的に歴史の闇に葬ったのです。文献も消えてしまったのです。
これらの数多くの城や館にはそれぞれ主がいて、家族がいて、武士集団が住んでいたのです。それが江戸時代になると消えてしまったのです。歴史の闇に消えてしまったのです。
それにしても城の数の多いのに驚かされます。戦国時代、室町時代の群雄割拠ぶりが想像されます。
現在私が住んでいる東京の多摩地域の歴史は文献が少なく不明なことが多いのです。しかし城跡は発掘調査をすると当時の家具調度、日用道具、食器、鍋釜などの破片が多数出土します。現地の歴史資料館に行くと展示してあります。それにもかかわらず多摩地域の詳しい歴史はよく判らないままです。

今日は現在の東京に残っている江戸時代以前の城跡についてご紹介いたしました。皆様かの住んでいらっしゃる土地にも江戸時代以前の城跡や館跡がたくさんあると思います。その詳しい歴史は解っているでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)