後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「嗚呼、小樽!、哀愁漂う北の町」

2023年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム
小樽は何度行っても旧懐の情や哀愁の情が掻き立てられます。郷愁というかノスタルジアというか、心の奥の方に赤い火がポッと灯ります。
今日は小樽の風景写真と小樽で育った小林多喜二の『蟹工船』をご紹介したいと思います。写真は2010年の6月17日の夕暮れに撮りました。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。
小樽と言えば私は『蟹工船』を書いた小林多喜二を思います。1933年に特高警察の酷い拷問を受けて、29歳で没しました。
小林多喜二は1903年10月13日、秋田県に生まれ4歳のときに一家で小樽に移住し小樽で育ち作家として立ちました。プロレタリア文学の旗手と目され1930年に上京、翌年、当時非合法であった日本共産党に入党、困難な地下生活を余儀なくされながらも旺盛に執筆活動を展開しました。そして1933年2月20日に29歳で没しました。

『蟹工船』のあらすじは次にあります。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9F%B9%E5%B7%A5%E8%88%B9 )
蟹工船とは、戦前にオホーツク海のカムチャツカ半島沖海域で行われた北洋漁業で使用された船です。
小林多喜二の資料の常設展示は小樽文学館、(http://otarubungakusha.com/past/200302398 )にあります。

小林多喜二は死の間際まで執筆活動を続け作品の中に込めた弱者救済の思想は現代社会においても通じるものがあります。そして日本の暗い時代の歴史の裏面を知ることが出来るのです。

今日は曾遊の地、小樽の6月の風景をお送り致しました。そして小樽で育った小林多喜二の「蟹工船」をご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「8月に美しく咲く花々」

2023年08月15日 | 写真
梅雨が終わり、真っ青な空に太陽が輝く夏。そんな厳しい日差しや暑さに負けず咲く花を見ると、元気を分けてもらったような気持ちになります。
写真の出典は、https://horti.jp/21966 です。

写真は順に、ラベンダー、アサガオ、ペチュニア、ダリア です。

「島根県の宗安寺と父と弟、そして住職の役割」

2023年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム
宗安寺は、島根県鹿足郡吉賀町にあります。仙台の東北大学を定年で辞めた父はその後、この宗安寺の住職になりました。父の没後は弟が住職になりました。2人とも曹洞宗の本山の永平寺で修行して僧職の資格を持っていたのです。
宗安寺の住職は名義だけで父も弟も宗安寺に住みこまなかったので本来の住職の役割をほとんど果たしていませんでした。
荒れ果てた昔の宗安寺を再建したのは父の功績でした。父の記念石碑を宗安寺 に建てた時、私と弟が島根県の宗安寺を訪ねて行きました。
小さな本堂だけが建っています。それでも地元の人々があたたく私と弟を歓迎してくれました。
1番目の写真は宗安寺です。インターネットからお借りした現在の宗安寺の写真です。
2番目の写真は宗安寺の近所の島根県鹿足郡吉賀町の風景です。インターネットからお借りした写真です。
さて住職の役割ては何でしょうか?いろいろありまが列挙します。
1、檀家の先祖の位牌を本堂に祀り朝夕に住職が読経をして冥福を祈ります。
2、お彼岸やお盆に住職が檀家の家を訪問して仏壇へ読経をして先祖の冥福を祈ります。
3,檀家の人々の相談に乗って人々の世話をする。
4,檀家の人々の持って来る食べ物をご本尊様へ供える。
5、寺所有の田畑で作物を作り自給自足に努力する。
6,いろいろな所げ出向き仏教のはなしをして布教に努める。

ちなみに父の弟の孝元和尚は上に書いた役割を全部していました。召集されてマレー半島で英軍と戦った人です。しかし戦争の話は一言もしませんでした。何事もなかったように本堂で静かにお経を詠んんでいました。
3番目の写真は曹洞宗の本山の永平寺です。福井県にあります。
4番目の写真は永平寺の本堂へ登って行く長い階段です。私はこの長い階段を登りながら何とも言えない幸福感につつまれたことが忘れられません。

今日は父と弟が島根県の宗安寺の住職になったこと、そして住職の役割について書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)